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小説『狭い器』 本土決戦の中で私と桜子は二人だけの世界を構築した。  作者: 居木井丈晴
第一章 北日本人民共和国の朝
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(3)電力経済省のハマナス

 午前8時ちょうどに、私は電力経済省に着いた。


 黒の鉄枠に囲まれたガラスドアが冷たく並ぶエントランス前の石段には、自動小銃を構えた「官庁街警備隊」が今日もいた。衛兵に自分の身分証明書と、胸に着用することを義務付けられた階層バッジを提示して入庁する規則になっているので、朝になると石段の前にはいつも長蛇の列ができる。


 階層バッジには指導者の肖像画が描かれていて、その図柄によって着用者がどういう身分なのかわかるようになっていた。

「次!」

「次!」

「次!」

「次!」

「次!」

 と兵士たちが、チェックを終えた職員を中へと押し込んでいく。十分ほどしてから私の番が来る。国内移動時にも携帯を義務付けられている赤い表紙の身分証明書を私は差し出す。

 衛兵は私が階層バッジの隣に着けている「官庁の主任クラス」を示すハマナスのバッジをちらりと見てから、少し畏まって、いつも早めに身分照合を終わらせてくれる。


岩田(いわた)友枝(ともえ)……大臣官房秘書課主任。よし」

「ありがとうございました」


 私は丁寧にお辞儀してエントランスへと足早に入った。衛兵が私に身分証明書を返した時、兵隊の肩に吊られている自動小銃が微かに揺れてカチャという金属音を発した。


 電力経済省大臣官房秘書課は、十三階建て庁舎の五階にある。


「岩田主任同志、おはようございます」

村野梅子(むらの うめこ)がぺこりと頭を下げた。まるでお餅のようにもちもちとしたあどけない頬が底冷えした事務室の中で、薄化粧でもしたかのようにピンクに色づいている。

「おはよう、梅子ちゃん。……寒くなかった、昨日の当直は?」

「大丈夫ですよ。ちゃんと当直用の毛布もありますから」

 そう言いつつ、村野は棚の上に丸めて置いてあった別の毛布を取ろうとした。

「まだ暖房は入りそうにないですから、毛布をどうぞ」

「いや。大丈夫よ、梅子ちゃん。仕事には慣れてきた?」

「はい、大分慣れてきました。寿退職された前任の補充でここに入ってから、もう三カ月ですから、もうへっちゃらですよ」

「頼もしいわね」

「ありがとうございます」

「――ところで、話は変わるけど服の替えはあるの?」

「いえ、これ1着だけです」

「そう、ずいぶん黒ずんでいるわね、大丈夫? 丈が合うかわからないけれど、私の着替えを貸そうか?」

「ありがとうございます。でも、大丈夫です」

 村野はここで、悪戯っ子のように笑った。

「主任同志、実は、これ日帝時代の国民服を仕立て直して使っているんです」

「それは不味いわ。日帝時代の物を未だに使っている人は日帝容認罪に問われるよ」

「大丈夫ですよ。“資源濫用撲滅”が我が電力経済省のスローガンですから。それに日帝の国民服も人民服も、同じ折襟だから仕立て直しやすいんですよ。日帝ファシズムの国民服も“思想改造”しちゃえば社会主義の人民服になるんです」

「そ……そう」

“思想改造”という穏当ではない言葉をさらりとユーモアにした村野に、私は少し辟易した。そして、村野はなぜか私に何かを促すような視線を向けてくる。私は何のことかすぐにはわからなかった。

やがて村野がたまらなくなって、私を指さした。

「岩田同志、“御真影”へのお辞儀!」

「あ、そうだったね、忘れたらいけない、いけない」

 今度は私の番とばかりに、女性でもうっとりするほどの甘くて高めの声で村野は私に注意してくる。

「私のように国民服を仕立て直して着ている人はいくらでもいるし、物資不足だから当局も黙認です。でも“御真影”にお辞儀を忘れたら大変ですよ。幹部でうっかりお辞儀を忘れたというだけで左遷されたという話もあるじゃないですか」

「ん……うん」

 課長席の後ろの壁に掲げられている北日本労働党書記長・伊那征太郎(いな せいたろう)の肖像画に私は頭を下げる。南日本の人が神棚に対してそうするように、独裁者の肖像画に対して頭を下げるよう“要請”されていた。しかし、やらなかったら処分されるんだから“要請”というのは強制の言い換えにすぎない。


 手早く切り上げた私と違って、村野は神妙な面持ちでお辞儀した。

 村野がお辞儀を終えてから私は、部屋に備え付けてある党機関紙を取ってくれるように頼んだ。

 

 私は卓上に党機関紙を広げながら、各課から上がって来た書類が無いかを村野に尋ねた。

「石炭供給課と交通省から1件ずつ上がってきています」

「用件は何だった?」

「その両方とも、石炭輸送列車の鉄道事故についての緊急報告です」

私は耳を疑った。

「また?」

「はい……今月に入って36件目の鉄道事故です。――報告書によれば夕張炭鉱発、札幌行きの石炭列車・Y1046列車の牽引機関車が南千歳駅付近で、ボイラ爆発事故を起こしたとのことです。この事故で運転士と助手、合わせて二名が殉職。運転復旧には時間がかかる見込みで、札幌火力発電所向けの石炭が、納入期限に間に合わない可能性が高いとのことです」

「その報告書こっちに持ってきてくれる?」

「はい。――どうぞ」

 私は報告書に目を通す。北日本は慢性的なパルプ不足なので、官公庁のものでもその紙はガサガサとした粗末なものだ。

「今度も大日本帝国時代に作られた戦時急造型機関車の事故ね」


「はい。先月起きた鉄道事故のうち50件は戦時急造型機関車の故障やボイラ爆発などによって起きていました」


「戦時急造型というのは戦時中に『輸送力増強』の掛け声で作られた“手抜き型機関車”だからね。おまけに戦争中の物資不足で、金属節約のために強度不足になっている箇所も多い。だから故障が絶えない。しかもほとんどの機関車や貨車が本土決戦で壊されてしまったから、数まで慢性的に足りない」


 詳しいんですね、と梅子が感心する。私は、亡くなった父が鉄道員だったと短く答えた。


「数を補うために安全性の低い戦時急造型を酷使せざるをえないから事故も絶えない。そしてますます数が足りなくなる」

「交通省は何をやってるのでしょうか」

 村野が憤る。


「この書類では、抜本的な解決策として、ソ連から新型機関車を購入するか、それとも国内で製造するか、の二つの選択肢が提示されている。でも、いずれも外貨不足、物資不足で実行不能だろう」


 村野は火の気のない事務室で両手をこすりつつ、はぁと息を吹きかけた。

さっきから風が強くなっていて、窓枠がひゅーという耳障りな音を立て始めていた。


「電気の方は大丈夫でしょうか?火力発電用の石炭を運んでいた列車が遅延するということは、石炭の搬入が遅れて、また石炭火力発電所の火が消えてしまいますよ」

「今度も電力節約と計画停電を臨時にする場合も考えられるから、大臣官房の方で文書を作成して、各課に回す必要があるかもしれないね」


 官庁街の灰色の壁のあちこちに


『石炭増産120㌫完遂!』

『電力供給 社会主義の命脈』


などと書かれた真っ赤なスローガンが踊っている。私は灰色の現実の中に、風で遊離しているスローガンを見つめた。肝心な石炭の生産効率も、本土決戦時で激減した労働人口のために戦前の水準に回復するのがやっとで、ガソリンなどの燃料は軍や官庁の専用車に特別配給されている状況に変わりはない。


「ところで、話は変わりますけれど、この書類は当然、大臣に提出するんですよね?どうしますか、主任同志?」

「怖いの、大臣に怒られるのが?」


村野はこくりと頷いた。


「まあ、大臣はもともと、自分に都合のよいことだけを聞きたがる人柄ではないけれど、あまりに経済問題が深刻で気が休まる時が無いから、最近はこれ以上嫌な話を聞きたくないというそぶりが多くなったわね」

「はい……ですから、なんだか気まずくて。いや……もとから、強面で話しかけにくいですよー」


確かにもとから強面ではある――そう合点しつつ私は答える。


「大丈夫。今言ったように大臣はもともと悪い人ではないから。……ならこの書類は私が持って行くけど。梅子ちゃんは計画停電の原案を考えてみて。あとで私が採点するから」

「え、いいんですか? 私はまだ下積み中で」

「いいのよ」

「ありがとうございます」

村野は深々と頭を下げた。それからにっこりとした顔を浮かべて「あ、ところで、お茶でも淹れましょうか?」と言った。

「お願い」

「はーい!」


その時、課長席の卓上電話機が鳴った。私が、点滅している内線のボタンを押してから受話器を取った。


「はい。秘書課の岩田ですが……聞こえません……誰ですか?え?」

 今日も回線状態が酷い。私は受話器をより耳に密着させ、もっと大きな声で話す。


「もしもしーッ!……ああ大臣ですかぁ!……え?……もしもしーッ……ハイッ、そちらへすぐにぃ!……」


 私はやれやれと受話器を置いた。

「また繋がらないんですか?」お茶をこぽこぽと注いでいた村野が聞いてくる。

「そう」

「電話機がダメなんでしょうか?」

「いや、これはラトビアのヴェー・エー・エフ製で電話機本体の質は高い方だと思うから、きっと回線のせいよ……。これは噂だけど、北日本の電話が内線でさえも繋がりにくいのは、国家保衛省の秘密警察部隊が電話回線に盗聴用の回線を割り込ませているからだって話もあるけどね」

「まぁ、怖い!」

「とにかく、行ってくるから……おっと書類を忘れるところだった。じゃあまた後で」

「行ってらっしゃいませ」


 村野は、急須を手に持ちながら、ぺこりと可愛くお辞儀をした。


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