(8)疑心暗鬼
疑心暗鬼は戦局の悪化とともに、最高潮に達した。
3日後、私と桜子は水汲みに行った帰りに脱走兵を目撃した。
脱走兵と言っても40代のおばさんだった。どうやら国民義勇戦闘隊の隊員章を剥がして、一般人になりすまして投降するつもりだったらしい。しかしおばさんは陣地の外周を警戒していた歩哨に捕まって、うっそうと繁った林の中に引きずられていった。
私たちは思わず耳を塞いだ。
林に乾いた銃声が一発こだました。それは私たちを嘲笑うかのようにはっきりと聞こえた。
さらに、また別の日には「壕に入れてください」と頼んだ女性を、兵士が、敵に占領された地域から来たというあいまいな理由で射殺するところも目撃した。
――地上戦とは敵だけでなく味方にも殺されるものなのだろうか?
理不尽な同士討ちのように思えることを三度も目撃してしまった私は、今同じ壕にいる兵士たちを信じていいのかわからなくなった。
桜子のことも心配になった。
「桜子、あのノートどこかに移した方がいいと思う。前にちらっと見たとき思ったんだけど、あれが見つかったら殺される」
「それはわかっている。でもね、友枝。このノートに書いた原稿を身に離さず持っているというだけでなんだか安心するのよ。それにどこかに隠していたら急に移動するとなったときに回収できなくなる可能性も高い。やっぱりこうして誰にも見つからないように持っておいたほうが安全だと思う」
桜子はそう言ってから、妊婦がお腹の中の子供にそうするように、そっと服の上から腹に巻き付けたノートをさすった。
その横顔は痩せて頬骨が浮き上がっていた。
一日2回の食事は、ピンポン玉のように小さなおにぎり1個ずつのみ。
さらに砲撃が激しくて水汲みに行けなかったときは、水断ちさせられる。
恐怖と砲撃でろくに眠ってもいない。さらにソ連軍に攻め込まれているという絶望感も津波のように押し寄せて来る。
内部にも外部にも敵を抱えたまま身動きが取れない極限状態の中で、兵隊同士のいさかいや、兵隊が住民に八つ当たりする光景も頻繁になってきた。
食事のことでは常に文句が出た。あいつのおにぎりの方が大きい、俺のは小さい、と大の男たちが目をぎらつかせながら叫んだ。
こんな言葉も聞かれた。
「俺たちは懸命に戦っているのに、国民義勇戦闘隊や住民がロクな武器も持たず、ただの無駄飯喰らいで、あまつさえ敵に投降し、こちらの後方をかく乱しているから負けるのだ」
こう言ったのは人々を束ねるべき将校だった。
――ロクな武器を持っていなかったのは軍隊がロクな武器をくれなかったからじゃないか。私たちだって働いている。危険な戦場の空の下で、恐怖に耐えて水汲みや飯上げなどやっている。それなのに……。
この侮辱に私と母は悔し涙を流した。
桜子もよほど激怒したようで、隠しておいたノートを取り出す危険を冒して、このあまりに理不尽な将校の言葉を書き留めた。
私と敦子と桜子の3人が水汲みに出た時に、敦子は水を汲みながら私を慰めるように言った。
「みんなが、みんなあの将校みたいに悪いわけじゃないよ。軍隊は大きな組織なんだから、良い人だっているよ。隣の小隊の山田少尉なんかは本当にいい人で。これだけで軍を恨むのはやめようよ。私たちと軍隊は一蓮托生なんだから、協力していかないと」
だが、桜子は敦子を嘲笑った。
痩せ細っていた顔が歪んで物凄い形相になった。
周りで砲弾が炸裂したために、地面がぐらぐらと揺れている中で桜子はただ敦子を嗤っていた。水をたくさんの竹製の水筒に入れる手を止めずに、桜子は答えた。
「馬鹿なんですか、あなたは。組織と個人を分けて考えることもできないのですか?仮にあなたの言う山田少尉が良い人だとしても、一度決められた組織の方針を一人の人間がひっくり返すのは現実的には困難。――いい人がいるからって、その人の所属する組織までもが良いものだとは限らない」
敦子と桜子は睨み合った。しかし空腹で喉も乾ききった中、言い争う体力も気力もなく互いに相手を軽く睨んで終わった。
桜子は水を汲むと真っ先に戻って行こうとした。ちょうど私が水を汲み終えたとき、桜子が振り返った。
「もう、書けないよ。友枝」
そしてそのまま砲弾の飛び交う中を桜子は駆けて行った。土埃の中にその姿が消えていくのを私はあわてて追った。




