(7)虐殺
11月の夜明け前の身を切る冷たい風を叩きつけられながら、私と桜子、そして敦子は炊飯のために、大きなお釜を抱えて勾配のきつい坂を降りて行った。
強い風で目を開けているのも難しい、そのうえ真っ暗な中、手元が狂って釜を落とさないか冷や冷やしながら、なんとか下まで降ろした。
昼間の炊飯は煙が立ち、砲弾の目標になるので、夜が明けるまでに炊きあげなきゃいけない。
敦子がてきぱきと指示を下す。
「桜子、釜を固定して。友枝は燃料を集めてきて。私は水を汲んでくる」
「敦子、燃料が無い。もう枝は完全になくなってるよ」
釜を焚く場所は決まっていた。その脇には燃料としての薪や枯れ枝が用意されているはずだった。しかしそれが無い。暗くて見つからないだけなのかと思って腹這いになって手探りをしてみたが、全くない。
「よく探したの?友枝」
「探してる。でも見つからない」
「陣地に戻ってナタを持ってくる。丘の木を切れば……」
「ダメよ。丘の木は陣地を隠すための重要な遮蔽兵器よ。薪を取ってはいけないと言われている。それに薪を取っている時間はないわ。急いで」
そう言って敦子は急いでバケツを手にご飯をたくための水を汲みに消えた。
「どうしよう。どうしよう」
白い息を吐きながら、寒さの中で私は泣きそうになった。
「今すぐ急いで街の方へ行ったら?……砲撃で破壊された街のところには廃屋となった家とかがいっぱいあるから」
「わかった。行ってみる」
私は夜の道を走って、街の方へ出た。空はまだ暗いが青みを増し始めた。舗装されていない田舎道をただひたすらに走る分には好都合だが、夜明けが刻々と迫っていると思うとそれを喜ぶ余裕もない。
朝になれば、また敵の航空機が飛び回り、標的になってしまう。
荒廃した街には案の定、人の気配はない。砲撃で屋根をぶち抜かれ、瓦の散乱している廃屋が並ぶ中、ぼろぼろに壊れた戸板の破片や、窓枠の一部などを拾い集める。
この家に誰かが戻ってくる時があったら謝るしかないだろうなと思いつつ、両腕に抱えられるだけの木片を持って帰ろうとして「しまった」と気が付いた。
木を入れるための容器を持って来ていない。
両腕に抱えた分では絶対足りないはずだ。私は一旦抱えた木片をそこに置いて容器を探した。
ぼろぼろになった家に何軒か押し入って、いろいろ物色してみたが何もない。
敵か、それとも味方かわからないが、誰かが箪笥の中身を床にぶちまけ、目ぼしい物をすべて奪っていったようだ。桶やバケツの類さえ見つからない。箪笥の引き出しも割られて焚き付けに使われてしまったようだ。
そのとき何か物音がした。
「誰っ!」
私は竹槍を手に取った。
だがすぐに戸口に私と同じく竹槍を持った影がすっと見えた。その背中の曲がった影からしわがれた声が小さくした。
「女学生ですかな?」
影が私のそばにまで歩いてきた。
竹槍を杖のようについているおじいちゃんだった。服装はぼろぼろだった。胸につけているはずの身分を書き記した布も剥がれ落ちてしまっている。
「いえ、義勇戦闘隊の者です」
「そうか。わしは平野松蔵という。稚内からここまで逃げてきて、昨日から隣の廃屋を仮の宿にしておった。で、今朝、物音がするのでそっと様子を見に来たわけじゃ」
「わ? 稚内? あ、歩いてですか?」
宗谷岬の北端、今でいう日本最北端の地だ。そこからまさかこの最南端の苫小牧まで逃げて来たというのか?
「そうじゃ。まあ今は六十五のよぼよぼのじじいになってしまったがこれでも若いころは征露戦役(日露戦争)でロシア軍と旅順で戦ったことがあるくらいじゃが……」
「旅順? あの乃木軍神の?」
そんな人、まだ生きてたのかと私は一瞬あっけにとられた。
だが、よくよく考えると確かに今、60歳台の人はちょうど日露戦争のあったころに20歳代だったから兵士として戦っていても不思議ではないが、こうして会ってみると、なんだか不思議なめぐりあわせのように思われた。
「そうじゃ。あの旭川第7師団に属していたのじゃ。そのときの生き残りじゃ。老いたりとはいえ足腰はピンシャンしている」
だがその直後、平野さんは腰に手を当てて、うずくまってしまった。
「ピンシャンしているワケではないのですね」
「さ、さすがに、稚内からここまで歩いてくるのはちと堪えたわい」
「ロシアと戦ったことのある平野さんでも、今度のソ連軍は強いですか?」
「強い。というかあのころのわしらはちゃんと鉄砲持っとった。今のわしらにはほれ、竹槍しかなかろう。まったく明治のときの陸軍さんが懐かしいわい……ところで、女学生さんがなんでこんなところにおる」
「それなんですが、平野さん、何か器みたいなものありませんか? 私は飯上げのために、燃えそうな木を持って帰らなきゃいけないんです」
「器は持っていないが、持って帰る手伝いはしてやろう」
「お願いします! 助かります」
私はとにかく先に出て、釜のある場所まで戻った。敦子がじれったそうに待っていた。
「早く、早く」
種火を貰って来た桜子が、火をつけた。少し遅れて平野さんが木片を抱えてきてくれた。平野さんは抱えて来た木を私に手渡すと、大きく息を吐いた。
「誰?この人」
「平野さん。稚内から逃げてきて、昨日から廃屋の中で夜を明かしていたのよ。若いころに旭川第七師団で旅順攻防戦を戦ったとか」
「りょ、旅順攻防戦?」
「まだ、生きてるんだ……」
平野さんの手伝いのおかげもあって、夜明けで空が白んだところで、なんとか飯が炊きあがった。
荒々しく伝令の兵士が降りてきた。
「何をしている!飯はまだか?」
「すいません。あともう少しです」
伝令は平野さんに目をつけた。
「誰だ、貴様は?」
平野さんは丁寧に頭を下げた。
「平野と申します。稚内から命からがら逃げてきました」
「稚内? もはや敵地ではないか!」
伝令は怒鳴ると小銃を構えた。遊底を引くと、即座に指を引き金にかけた。その場の空気が凍り付いた。この展開が私には信じられなかった。
「けっして怪しいものではない。今はこのとおり足も弱い老いぼれだが、征露戦役でロシア軍とも……」
――あっ
みなまで聞かずに伝令兵は平野さんを射殺した。あっという間に枯れ木のような身体が宙を舞って、地面に叩きつけられた。飛び散った血糊が、たぎらせていたお釜に飛び散りじゅわっという音を立てた。
私は腰を抜かしていた。
「ど……どうして?」
伝令兵は私を怒鳴りつけた。
「わからんのか?お前は訓示を聞いていたのか?敵は占領地の住民をスパイに仕立て上げ
ているのだ。ここでスパイを取り逃がせば我々が危ないんだ!」
桜子がその伝令兵に喰ってかかった。
「なぜです? なぜ撃ったんですか?……あんなおじいちゃんにスパイが出来るはずがありません。それに、スパイの証拠も無い。そもそも敵軍が捕虜をスパイに仕立てている確証はあるんですか? 裁判も無しにスパイだと決めつけて殺すなんていくらなんでもおかしいです」
桜子の言葉に殺気立った伝令兵は怒鳴った。
「甘い。こんなじじいが、稚内からここまで歩いて来れるはずがない。スパイに決まっている! もしスパイだったらここが発見され、全てが終わる。“脅威”は先制攻撃で排除するものなんだ、それが戦争だ――わかったら早く飯を運べ!」
私は平野さんの亡骸にすがりついた。
――私が手伝いを頼んだばかりに。
見かねた敦子がそっと私の手を取って立たせた。
「行こう」
敦子は仕方がないという目で平野さんの遺体を一瞥した。私はその目が嫌でその手を振り払った。




