(2)一家離散 1945年9月
1945年9月の昼だった。
千島、樺太の両方面から島伝いに侵攻してきたソ連軍がついに北海道本島に上陸した。
軍の発表では、わが軍が”壮烈無比な肉攻斬り込み”によりソ連軍を破っていると宣伝していたが、実際はソ連軍が圧倒的だという噂があちこちで流れていた。
私は三枝子の雑のうに必要そうなものをすべて詰め込んでから渡した。
「ありがとう――お姉ちゃん。窓の戸締りは?」
「抜かりはないわ」
「そう。もう……もう行かなきゃ」
三枝子は女子学徒隊の一員として苫小牧・早来方面でソ連軍に備えている独立混成第101旅団の下で看護活動にあたることが決まっていた。
母は三枝子がまだ15歳で、疎開させてほしいと学校に頼み込んだ。しかし許しがたいことに、教頭は母を「非国民」呼ばわりしたのだった。
「皇土防衛のために命を捨ててこその日本人である! 沖縄が陥落し神聖なる皇土の一部は鬼畜米英に蹂躙され、赤い露助にこの北海道まで犯されようとしている時に祖国防衛の任から逃げようなど、『非国民』の所業だッ!」
露助とはロシア人の蔑称である。いかに凄まじい剣幕だったか想像がつく。
三枝子の担任はそんな母に同情して、教頭に見つからないところで、学校側には無断で疎開させることを暗に勧めてきたそうだ。
しかし、三枝子は疎開を嫌がった。まず『非国民』と後ろ指を指されるのが嫌と言った。それに家族のなかで、疎開できる年齢条件だったのは三枝子だけだった。
17歳の私と母は国民義勇戦闘隊の民兵として、父親は鉄道義勇戦闘隊の小隊長として竹槍を手に戦わなければいけなかった。だから家族は誰も三枝子と一緒に疎開できず、助けてやれない。
しかも疎開先として指定された場所は険しい山岳地帯や食料もロクにない豪雪地帯だった。冬になれば、食糧不足に陥るのが明らかだった。
そんな状況で一人、山岳地帯で野垂れ死にするか、避難民として流浪中に敵か味方のかわからない流れ弾に当たって死ぬかと考えたら、いっそのこと同じ学級の仲間と一緒に運命を共にしようと三枝子は考えたのだ。
疎開は避難ではなかった。
避難は、軍人以外の民間人すべてに無条件に戦場から離れろと平等に出されるものだ。
しかし、疎開はそれと似ているようで違う。
疎開出来る人と出来ない人が民間人の間でもくっきりと分けられていた。
兵隊として使えない、足の弱いお年寄りや、幼すぎて役に立たない子ども、妊婦などを戦場の外へ追い出して、足手まといにならないようにする。
そして、本来なら避難させてもおかしくない未熟な女学生や男子学生を、看護部隊や伝令として軍に組み込む。
中年や老年の男女でも竹槍を握れると軍に判断されれば、避難は認められず、国民義勇戦闘隊として戦地で戦うことを義務付けられた。軍隊に使えると思われた人間はとにかくすべて戦地へ叩き込まれることになった。
表は騒がしい。空襲警報が鳴り響き、国民服を着た道庁の職員が各家に「国民義勇戦闘隊員はただちに集結せよ」とメガホンで怒鳴り続けている。
そのそばをわずかな家財と金属回収に遭っても残していた一個の鍋をリヤカーに載せて、おじいちゃんやおばあちゃんが苦しげな顔をして引いていく。
兵隊用の食料すら不足する中で避難民に満足な食料が配られることはないだろう。食べ物もない状態で流浪していくお年寄りや妊婦たちはどうなるのか。これからバラバラになる私の家族の行く末が、その悲惨な後ろ姿に重なって、たまらなかった。
身支度を終えた三枝子が防空頭巾の顎紐を結んでから言った。
「時間が無いからそろそろ行かなくちゃ」
「苫小牧まで歩いて行くんだよね」
「そう。女学校でみんな集まってから苫小牧にいる達部隊に合流するんだよ。戦場じゃ歩くのは当然だよ」
三枝子は言外に心配しないでよと匂わせた。
だが、三枝子はほとんど顔を背けていた。
ここで顔を合わせたら、心の中で悲しみが溢れて堤が崩れるように泣き出してしまうのが私も三枝子も分かっていて、互いに目のあたりがつうんとしているのをこらえていた。
三枝子は部屋の真ん中に張り渡したロープにかけていたシーツを引き下ろすと呟いた。
「これで『ジェリコの壁』とはお別れね」
「聖林の映画だっけ、それは」
「そう。『或る夜の出来事』という映画の中で、未婚の男女が同じ一つの部屋に泊まることになって、仕方がなくロープに毛布をかけて壁を拵えるのよ。そのシーンが好きでこうしてやってきたけど」
「その二人は結ばれたの?」
「結ばれた」
部屋はそれっきり静かになった。
「じゃあ、行くね。お母さん」
母は何も言わずに三枝子を抱きしめた。そして私も腕を広げて胸の中に迎え入れた。
私は歯を食いしばった。
三枝子は未練を断ち切るようにさっとその場を離れ、駆け足で廊下を抜けると振り返ることもせずに表へ飛び出した。
三枝子が後ろ手でピシャンと引き戸を閉めた音が暗い廊下に響いた。
母はその場でうずくまってしまった。白いものが多くなった髪の毛は完全にほつれて、一気に老けたようであまりに痛々しかった。
私はそっと母の手を取った。
「行こう、私たちも」
母は無言のまま頷くと、力ない足取りで表へと歩きだした。私は一気に影が薄くなったような背中をじっと見守りながら、靴を履いて、もう一度ちらりと家の中を眺めてから、そっと音が立たないように引き戸を閉めた。




