(8)検閲官ごっこ
私と桜子が初めて会った年の夏。
放課後。無人の教室で私と桜子は読書会をしていた。題材は谷崎潤一郎の『検閲官』という短篇小説だった。
木造校舎の中は、暑い空気が重く漂っていて、私たちは密閉されているようだった。ジージーという蝉の声が校舎の廊下の奥からこだましていた。まだアメリカとの戦争は始まっていなかったが、支那戦線では長年にわたり激しい戦いが繰り広げられていた。そしてその結果、街から活気は失われていた。
「……次に気になるのは、ここね。警視庁のT検閲官が自分は芸術を尊重したいし、役人としての立場の板挟みになって苦しんでいるという主張に対して、脚本家Kが、あなたは口では芸術を尊重しているようにふるまっているけれど、心ではそう思っていない。ただ自分の虚栄心を満足させたいだけだと批判するくだりね」
「……そうだったね、うん」
そのくだりを読んで私はどきっとした。
敦子と桜子との間で板挟みになっている私自身がなぜか板挟みになっていると主張するT検閲官とダブって見える。そのうえ脚本家Kにあなたはただ、双方からよく思われたいだけなのだと非難されているような気がした。
いくらなんでも神経過敏だと思ったけれど、どきどきしてしょうがなかった。
「……でもよく通ったよね。こんな表現」
「確かに。この短篇は大正九年一月の『大正日日新聞』が初出らしい。デモクラシーの香りが世の中に充ちていた頃のだと思う」
「やっぱり」
「残念だけどそうだろうね」
桜子はここでちょっと席を立って廊下を一巡りしてきた。その奇妙な行動を私は怪訝に思った。そして駆け足で戻って来た桜子が話を続ける。
「だって国家や役人を誹謗したと思われたら、今のこの国じゃ生きていくことさえ出来ない。文芸作品じゃなくても、私信の内容で処罰する例があるとか。これは噂だけど支那事変で夫を失った奥さんが、友人に宛てた手紙の中で「戦争が無かったら家族三人で暮らせていたのに」と書いたところ、警察にしょっ引かれた。壁に耳あり障子に目あり。息苦しい世の中になったわ」
桜子も”壁の耳”や”障子の目”を恐れてか、わざわざ廊下を一回りして、階段にも誰もいないことを確かめてからおもむろに口を切ったことを、やっと私は理解した。
「……手紙でもダメなんだ?」
私は素朴な疑問を口にした。
「え……」
桜子のほうが唖然としてしまった。この常識を知らないで今までよく生きてこられたね……口ほどに目がそう言っていた。
「いや、だって……戦死された方の葬儀には何度か行ったことがあるけど、戦死の時はお国のために名誉な死を遂げたのだから、公の場では『おめでとうございます』と言うのが礼儀、というか、作法の一つだと思っていたけど……親しい間の人間同士、身内同士でなら『お悔やみ申し上げます』と言ってもいいんじゃないの?」
私は戦死した遺族に対して「おめでとうございます」という理由を探ろうと思ったことが無かった。当然の作法のように受け止めて尋ねようともしてこなかった分、桜子の話が衝撃的だった。
「いや、それでもダメらしい。しかもこの噂の場合の手紙では『戦争が無かったら』なんてつけたもんだから余計不味かったらしい」
「でも、家族が亡くなった時は親しい友人同士で、『主人が亡くなり悲しいです』とか、『戦争が無かったらなあ』って思うのが人情じゃないの。それに戦争以外ではそんなことは無いわけだし」
「多分、“反戦的”、“反軍的”と解釈されるだけでダメなんだよ。きっと」
「でも、それはおかしい。その……これはたとえばの話だけど、お役所や軍隊のところに『戦争を止めろ』とか抗議文書を送ったとかいうんだったら、政治的でもあるし、“反軍的”と解釈される余地はあると思う。でもさっきの桜子の噂の話の中でだと『戦争が無かったら家族三人で暮らせるのに』っていうのは、政治的というより夫を無くして悲しみにくれている奥さんの愚痴にすぎないんじゃない?……愚痴で警察にしょっ引かれるというのは私にはにわかに信じがたい」
桜子は苦い表情をした。
「私もそう思うけど、解釈は警察や役人や軍隊がやるんだ。やつらが自由に解釈を広げて取り締まれるように法律がなっているのよ。……だから無いとは言えない」
これが眉唾だったらどんなに良かったかと桜子も悔しそうな表情を浮かべていた。
「じゃ、どうしようか?……遠い所にいる友人に何か伝える時はやっぱり手紙だし、電話持っている家はほとんどないし……今の噂が本当だとしたら、手紙にも迂闊なことは書けないことになる」
直接本人に出会ってひそひそ話でもしなければ、本当のことを言い合えないというのは面倒な気もしたし、なんだか嫌だった。
「お母さん、どうしたんだろう?」
「どうしたの、いきなり?」
「いや、一度、お父さんが支那戦線に出征したことがあって。その時、お母さんは戦地に向けた手紙をどんな風に書いていたのかなって思ったの」
「お父さんは、無事に帰って来た?」
「それは大丈夫。出征したとき、お父さんは三十を超えた“老兵”だった。でも、なんとか無事に五体満足で帰って来た。帰って来た時に『老兵だから陸軍さんに用済みにされましたよ』と自虐的な冗談を言ったりしていた」
「支那戦線は長期化しているから、大変だったと思うよ、友枝のお父さんも。でも良かったね、帰ってこられただけ」
「でも、その冗談はどこか寂しげだった。――老兵だから自分は用済みにされたけど、その代わりとして自分よりもっと若い人が戦地に行って大変な目に遭ってるんだろうな―そう言った意味が言外にあるような気がして。それに随分ひどいこともあったようなの」
「ところで友枝のお父さんは大丈夫なの?再召集されたりしないの?」
「たぶん大丈夫だと思う。行った時も老兵だったし、今は国鉄で石炭輸送を担当している重要な役目を任されているから、軍も引き抜こうなんて考えないと思う」
「そう。石炭は重要な資源だから、その輸送任務を任されているうちは大丈夫そうだね」
桜子は納得した様子だった。だけどぬぐえない不安が私にはあった。
「うん。でも、私の父は大丈夫だとしても、他の大人はたくさん戦地に行っている。特に父が言ったような若い人たちが。その人のうち、いつだれが白木の箱で帰ってくるかわからないことに変わりはないよ」
桜子が言った。
「備えておく必要があるのかな?」
「どういうこと?」
桜子が私の顔をすっと見据えた。
「えーと……なんというのかな。誰か親しい人が死んだとするじゃない。それを遠くにいる人にも伝えなくちゃいけない。でも、手紙の内容でも悲しんでいることが検閲している当局に分かったらまずいわけじゃない。でも、だからといって、悲しんでいないということになれば、人間性を手紙の相手に疑われることになっちゃう。検閲の目をごまかしたうえで、手紙の相手にこちらの意図を伝えられるような手紙の書き方みたいなものがあれば知っておくと、いざという時に便利かなと思っただけなんだけど」
桜子は私の言葉を受けて、少し考えた。しばらくして何か思いついたように寄せていた眉を開いた。
「それなら、こうしようよ。私と友枝で、検閲官役と手紙を書く人役に分かれてみるのよ。手紙を書く方は検閲官に引っ掛からないように、うまく悲しいってことを表現する。検閲官側はそれを見抜く努力をしていく」
「面白そうだけど……。大変そう」
「それなら友枝、好きなほうを選んでいいよ」
私はどっちも、出来れば選びたくはない。いじめる側といじめられる側のどちらかを選べと言われたら、できればどっちからも逃げたい。それが私の性分だったし桜子もそう言うところがあった。だからこそこんなに仲が良かったのだと思う。
「いや、桜子が先に選んで。私は余ったものでいいから」
「そう。なら私が検閲官で」
桜子はどこか自信あふれた様子だった。おそらく今日の読書会の課題図書・谷崎潤一郎の『検閲官』を読んでいる間に検閲官という隠微な職業のイメージを彼女なりに膨らませてあったのだと思う。実際、彼女は横柄な検閲官のイメージを再現しようと、カイゼル髭をひねりあげる小癪な振る舞いなどを実際にやって雰囲気を着々と醸し出していく。
私にはこういう役にふさわしい演出や演技をうまくやれる自信はなかった。
桜子が手近にあった机と椅子を引き出して来て、私を一方に座らせ、向かい合うように自分も座った。桜子なりに取調室のイメージを再現しようとしたのだろう。
二人で向かい合って座ってみて、人と机を挟んで向かい合うというのはそれなりに人に緊張を与えるものだとわかった。三者面談や先生と一対一で向かい合うときなんかそのいい例だ。このとき桜子を検閲官役と思うだけで、もう私は取調室にぶち込まれたような圧迫感を軽く感じた。
「岩田友枝。述べよ」
桜子検閲官は大袈裟に指を組んで、威圧的に前のめりになって私を促す。
――えーと。えーと。えーと……。
私は結構苦労して無難そうな一文を捻り出してみる。
「『○○さんが名誉の戦死を遂げてから、私の方も胸を痛めています』というのは?」
桜子検閲官は唇の端をゆがめて侮蔑的な表情を作った。
「なっとらん。『私の方も胸を痛めています』はけしからん!」
――うおっ!
腹の底から絞り出された桜子の迫力ある口調に私はびっくりして思わず身を引いた。
桜子検閲官は生やしているという設定のカイゼル髭を軽くひねる。それから尋問相手の神経を掻き乱すことを狙っているかのように、華奢な指先を大袈裟に解しながら小首を傾げてみせる。桜子検閲官は哀れな容疑者を遠火で炙るかのように、ここで敢えて沈黙の時間を作る。
「なんでですか?検閲官サマ」
無視されたような空白の時間にたまりかねて、訊いた。
「『名誉の戦死で胸が痛む』とは何事であるか。(軍刀を床に叩きつけるようなしぐさを大袈裟にして)ここは『○○さんの仇を討つべく、敵撃滅の意思に燃えて』と書き付けるべきである!」
「えー・・・じゃあどうしよう・・・『戦死されたご家族は多難だと思いますが、これからも頑張ってください』で・・・」
私の伝えたいことはこんなことじゃないのに。そんなむずがゆいものを私は感じた。
「馬鹿者!」
桜子検閲官が今度は机を拳で叩く。武骨な音が私を貫く。
「『家族は多難でしょうが』とは何だ? まるで戦死者遺族に対する国の手当てが十分ではないみたいな口ぶりではないかッ!・・・そうやって“軍民離間”を煽る気だな、この『非国民』め」
本物の検閲官が本当に言いそうな台詞。こちらに前のめりになって攻撃的な振る舞いを続ける桜子が一回り大きく見えた。この人は一体誰なのだ。そう思ってしまうほど普段の桜子からかけ離れた人間が目の前に座っている。私は必死で言葉の泉から単語をすくい上げようとしたが、もう泉は枯れて底が見えていた。
「わからない……」
沈黙が残った。
「じゃあ、代わろうか?」
それまで浮かべていた凄まじい表情と低音の声を、元通りに弛めて桜子は微笑んだ。
桜子が戻って来た。私はなんだかほっとして糸が切れたように椅子にもたれかかった。
「うん、そうさせて……とにかく」
私たちはわざわざ机の周りを回って、桜子の座っていた検閲官側の椅子に座り、桜子が私の座っていた容疑者側の椅子に座った。
同じ木製の堅い椅子に座っているのに、検閲官側に座ったと思っただけで、なぜか自分が偉くなったような気分がした。さっきはあれだけ大きく見えた桜子がさっきまでの検閲される側に座っていると、ずいぶん小さくおどおどした感じに見えた。桜子の雰囲気作りの上手さも手伝って、席順の魔力、権力の美味みたいなものがだんだん私をくすぐり始める。
「容疑者・高木桜子。これから君の取り調べを始める」
桜子が文面をさっそく言おうとした時、それを遮るように私の口が勝手に動いた。
「返事は?」
こんな尊大な、自分でも信じられないような台詞を吐いたことに私自身が驚いてしまった。それに対して桜子は不敵な笑みを浮かべた。桜子が仲の悪い敦子に対して向ける攻撃的で挑発的な意地の悪い笑みと同じだった。もし、実際に検閲官に対峙した時にもこういう態度を桜子はするのだろうか?
桜子は検閲官に扮する私の命令を無視して、即座に文面を編み出す。
「『何か困っていることがありましたら、遠慮なく相談していただきたい』」
「ならん。戦死遺族には十分なお手当てが回る。それに靖国神社に護国の神として祀られるのだ。困ることなど何もないはずだ!それをことさら言い立てるとは、軍民離間をはかる気か!」
私はそれから桜子の出す回答をことごとくはねつけた。やっていくうちに、友人をくすぐった時に感じる黒い快感を私は知らず知らずのうちに覚えていた。その快感が私を突進させていく。しかし、桜子は私以上に国語の出来る人だったので、凄まじい速さで文面をぶつけてくる。
「『靖国の護国の鬼となった○○さんの冥福を祈りたいと思います。そしてこの戦争での大きな犠牲が東亜の平和の礎になることを祈念してやみません』」
「ならんッ!『大きな犠牲』とは何事だ。この戦争での犠牲者はそんな多くは無いぞ。さては、我軍の被害をことさら言いたてる支那のスパイだな!」
しばらくして桜子は完全に沈黙してしまった。すっと目を細めてじっと私を見つめるだけになった。
その時になって私はやっと酔いから醒めた。冷たいものが私の背中を這い上がった。
「ごめん。やりすぎた」
「もう、止めよう……暑いね、窓開けよっか」
桜子は席から離れると窓を開けた。瓶底のように歪んだ画を映すガラスの窓を開けると微かな風が空気の止まっていた教室に流れ込んできた。桜子は窓枠に自分の両腕を乗せて顔を外に出して、風を浴びていた。
さっきの冷たい検閲官も、苛め抜かれた哀れな容疑者もそこにはもういない。
私は何か壊してしまったのではないのかと恐れながら桜子のそばに寄り添った。
西日に照らし出された私たちと二つの椅子の影が、使い古されて擦り減った木の床にさっと伸びている。




