魔王の執務室
――――勇者。魔王が初めてこの言葉を耳にしたのは、いつのことだったか。
曰く、辺境の村を任せていた魔物が、勇者を名乗る人間によって倒されました。
そう書かれた報告書に目を通したときは、別段、特別な感情を抱くことも無かった。
辺境の村というのは言葉どおりで、世界を我が物にする過程において、政治的、軍事的観点から見ても大して重要な拠点でもなかったからだ。だから、そこに派遣した魔物は、魔界でも下位の魔物だった。それこそ、訓練を積んだ人間ならば倒せる可能性があるという、その程度の魔物だ。倒されると言う可能性も十分考慮していたし、驚くべき事態というわけでもない。だが、そこには疑問が残る。訓練を積んだ人間とは、一体どこの誰なのか。
魔物は、魔王がこの世界につれてきたので、人間にとっては見るのも初めてのはずだ。ならば、魔物と敵対するために訓練したものなどいないだろう。そう考えると、もともと訓練を積んでいた人間、例えば国の兵士などが考えられるが、彼らが動くの国の命によってのみ。国とは、自己の利益に関係する場合と自衛にのみ動く組織なので、辺境の村を救うために動いたとは思えない。それに、軍が動いたとなれば、報告書にそう書かれるはずだ。ならば、冒険者と呼ばれる連中の仕業か……?
そこまで考えて、魔王は首を振った。なぜ、この程度のことに頭を使う必要があるのか。奪い返されたのは、たかが小さな村一つ。目的を達成する上で何の影響も無い。だが、今の時期に、人間が魔王から村を奪い返したという噂が流れるのは芳しくない。ならば、さらに強い魔物を送っておけば問題ないだろう。魔王はその旨を書類に書き込み、部下に渡すと、次の書類に目を移した。
――――いま思えば、あのときの判断が、今の状況を作り出してしまったのだろう。
あれからは、ほぼ毎日のように、報告書には勇者の二文字が並んでいた。
町を奪い返され、塔を開放され。瞬く間に、いくつもの国が勇者を名乗る人間によって魔王から奪取されてしまった。
勇者、勇者、勇者。今や、魔王の前に並ぶ書類の中に、この名前が無いものは無い。
魔王は、思わず拳を机に叩きつける。魔王がどんなに策を弄そうと、強力な魔物を差し向けようと、そのことごとくは勇者によって破られた。もはや、魔王や魔物以外の世界の全てが、勇者の味方だった。それどころか、勇者と聞くだけで逃げ出す魔物までいる始末だ。
魔王は、身体の奥底が燃え上がるような、感じたことも無いほどに大きな怒りを感じた。それは、人間の分際で魔王である自分に楯突く勇者への怒りと、その勇者に良いように振り回されている自分への憤りだった。魔王は暴れだした衝動に駆られるが、理性とプライドでなんとかその衝動を押さえ込む。そのとき、執務室のドアが開いた。
入ってきたのは、魔王の右腕である四体の魔人の内の一人だった。どうしたと魔王が尋ねると、魔人は青ざめた顔でゆっくりと口を開いた。
曰く、自分を除く三体の魔人が、勇者に打ち倒されてしまいました。
――――勇者。今ではその名前を聞くだけで、人間を殺すために生まれてきたはずの魔物でさえも震えあがる。まさに、勇者は魔界に住むものたちの天敵のような存在になっていた。
四体の魔人の生き残った一人も、数日前から顔を出さなくなった。だが、報告書には、そのことについては何も書かれていない。なぜなら、最後の魔人の生死を確かめようにも、もう、そんなことが出来る魔物は残っていないからだ。
魔王は、執務室の椅子に背中を預け、半ば放心したような目で中空をじっと眺めている。
魔界でも、魔王に次いで強力な力を持ってるはずの魔人。その力は人間の軍隊程度ならば、楽に蹴散らすことの出来る力を持っている。その、筈だった。それが、この有様だ。
もう、この人間の世界に魔王の支配する土地は、この魔王の居城だけだ。名立たる魔物たちも、全て勇者によって倒された。もはや、魔王軍には人間の国に攻勢をかける力など残っていない。残っているのは、せいぜいこの城を守るだけの戦力のみ。勇者は、遠からずこの城にたどり着くだろう。
魔王は、もう憤りも感じなかった。こうも戦力を削られては、戦略も戦術も練りようが無い。それに今更、そんなものが勇者に通用するとも思えない。魔王は一つ、溜息をついた。
――――この執務室に、遠く城門から爆音が轟いた。来たか、と魔王が呟く。
素晴らしきは、勇者の、人間の力。
初めは、人間界の支配など、暇つぶし程度にしか思っていなかった。魔界を統べた自分は、魔王という名の持つ意味を少しでも大きくしようと、見えない壁を打ち破ってこの人間界にやってきた。そこに住んでいたのは、下級の魔物にも劣る力しか持っていない、脆弱な種族。皮膚も肉も柔らかく、牙も爪も持っていないという、捕食されるために存在しているかのような生物。
侮っていた。驕りが最大の油断であることも忘れて、容易だと決め込んだ。その結果が、死を待つだけという今の悲惨な状況だ。
後悔しても、どうにもならない。人間界に攻め入ったのは愚策だったかと思っても、死した同胞は帰ってこない。
魔王は椅子から立ち上がり、書類に埋め尽くされたこの部屋を後にする。
――――ならば、最後に見せてやろう。魔王と呼ばれし者の力を。
勝算など、無きに等しい。
――――恐怖しろ。幾千幾万の魔族の頂点に立つ者を。
だがそれでも、誇りは捨てぬ。
――――臆せぬのなら、来るがいい。
せめて、最期に見届けよう。
――――我は、魔王なり。
世界を救う、英雄の誕生を。
読んでくださってありがとうございます。
初めて短編に挑戦したのですが、難しいですね。