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 僕が2件目の配達でゆっくり出来たのには理由があった、いや本当は急いで店に帰らないといけなかったんだけど、3件目をそこまで急がなくてよかったのには理由があった。


 相変わらずここの薬臭さには慣れないけど、幾度となく訪れて開けたこの扉は見慣れてしまった。どうぞ、と静かな返事が返ってくると、僕は細く扉を横に引いた。


 「Flower shop Cigogneです、お花をお届け致しました」


 「あ!いらっしゃい」


 先程との返事とは違った、明るく幼い声が僕を迎える。扉をそこで大きく開けて、僕は病室へと入った。


 病室ではナナミちゃんと植田さんが二人でテレビを見ていた。仕事終わりなのか、植田さんはいつもの服に黒いカーディガンを羽織っていた。


 ナナミちゃんは初めて会った時よりも表情が明るくなり、僕たちに冗談を投げかける程仲良くなった。僕の顔を見るなり、あの時には見せなかった無邪気な笑顔を浮かべて手を振った。


 彼女の入院着の袖からは透明なチューブが伸びていて、横の点滴台へ伸びていた。


 あまり具合が良くないようだ。


 窓際には眞鍋さんが挿したであろう赤いカーネーションが一輪咲いていた。母の日だから、という単純な理由だが…きっとナナミちゃんは喜んだに違いない。


 「こんにちは、親子団欒にお邪魔しますね」


 「いつもすみません」


 帽子を取って頭を下げると、植田さんは立ち上がって軽くお辞儀をした。あの一件から植田さんも少し顔色が良くなった気がする。


 「いえいえ、今日もお仕事やったんですね」


 「はい…でも、仕事が終わった後のナナミと過ごす時間の為なら…」


 ね、とナナミちゃんを見て植田さんは微笑んだ。その顔はやはり、仕事ではなく母親の顔。


 本当…この人は素敵な母親だ。


 「ところで…お花をお持ちしましたよ」


 僕は後ろ手に持っていたアレンジメントを見せた。


 赤いカーネーションとピンクのバラ、かすみ草を使った小さなアレンジメントだ。ミツバチのクリップマスコットがメッセージカードの入った封筒を持っている。


 ナナミちゃんが「わぁ…」と声を上げる。植田さんも目を細めて「素敵ね」と呟くように言った。


 「素敵なアレンジメント…僕が作りました」


 「へぇ、そうなんだ!…なんか、航さんって、見た目によらず器用だよねぇ」


 ナナミちゃんが冗談めかして言う。植田さんが「こらっ、ナナミ!」と叱るがその顔は緩んでしまっていた。ほのぼのとした親子のやりとりに思わず僕もぷっと吹き出した。


 僕は胸ポケットから伝票を取り出すと、いつものように同じように宛先を読み上げた。


 「えー、これはですね…植田ナナミ様から、植田千鶴様へのお届け物になります」


 僕の言葉に植田さんが小さく「え?」と声を漏らした。きっとナナミちゃん宛のものだろうと思っていたんだろう。空いた口が塞がらない様子の植田さんの横でナナミちゃんが「してやったり」と言わんばかりの笑みを零す。


 実は数日前にお見舞いに来た際、ナナミちゃんがこっそりと僕に頼んでおいた物だ。そのときに自分で用意したメッセージカードを僕に渡し、これを付けて植田さんの仕事が終わる17時以降に持って来て欲しいとお願いされたのだ。


 「作戦大成功!」


 両手を上げてナナミちゃんは嬉しそうに叫んだ。一方で植田さんは空いた口が塞がらないのか手を口に当ててぽかんとしている。


 僕はナナミちゃんにアレンジメントを手渡した。ナナミちゃんの希望を聞いて、実際に作って、ここまで配達するまでが僕の仕事。これから先はナナミちゃんの役目だ。


 「お母さん」


 ナナミちゃんは1件目の女の子のように照れ臭そうに笑うと、口元を隠すようにアレンジメントを細い腕で持ち上げた。


 「あの、その…ワガママばっかりで本当…ごめんね。これからも治療たくさんあるけど…私、頑張るから」


 腕を伸ばしてアレンジメントを植田さんへ差し出すと、はっきりとした口調でナナミちゃんは言った。


 「だから、お母さんもお仕事…頑張って!いつもありがと、これからもよろしくね!」


 「…っ」


 堪えきれなくなったように涙がぶわっと植田さんの目から溢れ出した。アレンジメントを震える手で受け取り、ナナミちゃんを抱きしめる姿に僕も感動してつい涙目になってしまった。きっとバレるとナナミちゃんに馬鹿にされるかも知れない。帽子のつばを目元まで下げて、その目を隠した。






 店まで帰る道をバイクで走りながら、僕はまた自分の母の日のことを考え始めた。


 遅くてもいいから、感謝の気持ちは伝えなければ。21年、自分の母親でいてくれたあの人に…


 親不孝の馬鹿野郎だけど。

 遠く離れて暮らしているけど。

 我儘をしているけど。


 でもきっと、3件の母親たちのように僕を想ってくれているに違いない。


 だからこそ…


 半ば焦っていた。母の日ももうすぐ終わる。明日になってでもいいから何かしなければ。


 でも考えても考えても、悔しい程に思い浮かばなかった。


 思えば母親の好きな物が思いつかない。花を送るにしても何の花が好きなのかもわからない。食べ物を送るにしても何が好きなのかもわからない。欲しい物を送るにしても何が欲しいのかもわからない。


 なんだ、僕は母親をまるで何も知らないじゃないか。


 そう想った瞬間、僕の中にふつふつと怒りが込み上げて来た。普段感じるストレスのようにチクチク刺すようなイライラとは違う、本当の怒り、苛立ち、悔しさ。自分を情けないと思う気持ちと、親不孝者だと嘲る気持ちと…負の感情がぐるぐると渦巻いて混ざって、怒りを生み出した。

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