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こんな世界はおかしい!  作者: 辻宮 あきら
彼女は月に微笑んだ
2/3

プロローグ<2>



 スポンジのように柔らかそうな身体。少しだけカーブした茶髪。ふんわりとした雰囲気の彼女は、此方に気づくと何故かにこりと微笑を浮かべてくる。


 ――こんな知り合い居たっけな。


 首を傾げる雅彦に女は前進。木も建物も少ない道を歩いて、残り二メートル近くに来た所で彼女は口を開いた。


「月野雅彦さん?」

「え? ああ、そうですけど」


 期待していた答えとは違ったのか、訝しげな目で雅彦を見つめる。鈴のような愛らしい声が雅彦に向けられるのを聞くと、隣に居る穂乃は急に何処と無く不機嫌になってしまった。理由は解らないが雅彦はそれについてはなるべく触れないようにすることにした。女性には女性の理由があるのだろうから。そして、何故このメイドが自分の名前を知っているのか、という疑問より、俺ってそんなに名前負けしてるのかな、と本気で落ち込みかける所が雅彦らしいと言えるだろう。周りから見ればあべこべなこの二人はある意味お似合いであり、滑稽だった。そんなこんなしている内に歩道に立ち止まっていた雅彦へ次の質問が降り出した。


「本当ですの? 失礼ですが御自宅はどちら?」

「えっと……東区、ですね」

「大雑把過ぎます」

「いきなり知らない奴に話かけられて正直に住所までスラスラ述べる馬鹿は居ないわよ」


 皮肉混じりの言葉に雅彦はどう返そうか、と思案していた所、穂乃が少々キツい言葉で助け船を出す。眉間の皺と穂乃の人間性から察するに、いきなり話しかけてくるのは非常識じゃないですか、とでも思っているのだろう。普段自分一人の時は無視でも、雅彦と居る時はこうやって助けてくれるのが穂乃の優しさ。こういう時の彼女にはいつも頭が下がる。はっきり言えば、口喧嘩が強いのだ。



 だが、そんな穂乃の言葉を気にする事なくメイド女は柔和な態度で続けた。


「目的はキチンと確認しないと気が済まないのです。貴女は黙っていて下さいますか?」

「失礼ですが、彼は私と帰っているんです」

「その彼の足取りを止めたのは私です。彼は貴女と帰るよりも私と話すことを優先したんですよ?」


 雅彦の隣にトラックが通り過ぎる。不意に感じた初夏の風を今ほど心地悪く思ったことがあるだろうか。穂乃の眼鏡の奥で冷たい目が光る。滅多に見たことのない幼馴染みの怒りに、雅彦は微妙に後ずさった。


 ――怖すぎる。


 本能的に女性は怒らせてはいけないと、幼少の頃から身体に染みていた。母親の次に、彼女から叱責を受ける事が多かった雅彦は、多分脳の奥深い所に「女性を怒らせたらいけない」というのが刻まれているのだろう。



 その為、叱責を受ける事はあっても彼女を怒らせる事は殆ど無かった。しかし、一度だけ穂乃が怒った事がある。雅彦が自分の事を「化け物」と呼んだ時だ。多分、両親が死んだ後の事だった。親が居なくなって、それが原因で虐めに遭っていた雅彦は、親が居ない自分は化け物と同じだ、と唯一の友達であった穂乃に打ち明けたのだ。その頃から冷静で、馬鹿な事をやらかす度に雅彦に叱責していた彼女だが、その日初めて雅彦は穂乃が激怒する所を見た気がする。泣きながら自虐するような雅彦に、問答無用で平手打ち。震える声で「……それで?」と穂乃は続けた。「じゃあアンタの事を引き取ってくれた叔父さんと叔母さんは化け物の親代わりなの?」「それは違うけど……でも」「じゃあアンタを好きな私は化け物に魅入られた悪魔か何かかしら」。真っ直ぐな言葉。それは雅彦の心の中に薄い紙のように滑り込んで来た。溢れてくる涙は決壊したダムみたいに、ずっと流れてくる。「私はアンタが化け物なんて思わない。だからそんなこともう二度と言わないで」と、小刻みに揺れ動く雅彦の手を握り締めながら彼女は泣いた。その時、強く見えても本当は脆くて、誰よりも優しい幼馴染みを守らないといけない、とそう感じた。自分の事を本気で想って怒ってくれた幼馴染みの事は今も忘れられない。そのくらい、彼女の言葉は強いのだ。あの頃と全く変わらない神崎穂乃。その瞳も、声も、何もかもが酷く懐かしく、酷く愛おしくもある。涼しげなセーラー服からまるで戦闘服のような雰囲気を発している穂乃は、夏風が揺らす黒髪を耳にかけてから、不器用な物言いで睨み付ける。それは正にあの日の穂乃を思わせる物だった。


「……長い付き合いを邪魔しないで頂けます?」

「あら、それはごめんなさい」


 ちっとも悪びれない様子で笑うメイド。どうして雅彦なんかの為にこんなに時間を割いているのか分からないが、一つだけ。雅彦にはピンと来る物があった。星屑の力だ。多分それを狙っているのだろう。自身は良いけれどこの場には護るべき幼馴染みが居る。軽く警戒の色を見せた雅彦に向けて、女は袖から何やら輝く銀色の物を取り出した。それを見て穂乃は顔色を変える。眼鏡の奥の大きな瞳が二度開閉してから叫ぶ。


「……! 逃げるわよ雅彦!」

「え?」


 途端穂乃は雅彦の手を引っ張りだし先程歩いてた道へと走り出した。幼馴染みの急な行動に、雅彦は自身の身体を無理矢理捻って加速。前のめりになりながら覚束無い足取りで油のような熱風を駆け抜けた。通りは障害物の無い大きな田舎道。何処かに隠れるのも困難だ。



 後ろを振り向けば、笑みを消して此方をじっと見つめていたメイド女が立ち竦んでいる。


 ……筈なのだ。


 それは一瞬の事だった。乾いた土埃が弧を描いて、その間を女が潜るようにして跳ねた。


「うおっ!?」

「あの子、よくわからないけれど危険だわ! 雅彦全力で走りなさい! 馬車馬のように!」

「そこまでかよ!?」


 化け物じみた女の跳躍に驚いた雅彦は、胸を仰け反らせる程、全力で足を動かす。


 思えば雅彦の人生はいつもこうだ。家畜のように大人しく単純に生きているかと思えば、渦巻く運命の潮が突如押し寄せてくる。それにいつも巻き込ませてる穂乃に対しては申し訳ない気持ちしか無い。今度何か奢ってあげないとな……。


「お待ちなさい! 月野雅彦!」


 そんなことを考えていると、足元に銀色のナイフが炸裂。それはそれはおそらくメイド女の投げたもので、今になって幼馴染みが走り出した理由が解った気がする。雅彦は軽く悲鳴を上げてから穂乃に続く。息が上がっているのが解る。


 身体が知らせる危険信号だろう。


 命を守ろうとして、心臓の鼓動は早くなり、体温は急上昇。全身の細胞が沸騰する。これは自覚してなくても解る。雅彦自身が恐怖を感じてる紛れもない証拠だ。


 そんな雅彦とは対照的に、メイドは笑っていた。


 優しく。甘く。


 笑っているのに気迫が溢れ出ていて、二人への殺意が紙に滴った水彩絵の具のように全身から滲んでいる。そもそも何故雅彦の名前を知っているのか。それについては穂乃に聞くまでも無い。星屑の力は他者からも脅威であり、恐らく星屑以外の家系からの何らかの妨害だ、ということを彼女の行動が物語っている。つまりこの女も妨害役なのだろう。


 刹那、穂乃との間を裂くように、鉄槌が落ちた。


 コンクリートが捲れ上がって大地が揺れる。視界に映ったのは金色の棒だ。この形はまるで。


「クイックルワイパー!?」

「御名答ですわ」


 何処からとりだしたのか、お掃除用の便利アイテム、クイックルワイパーを優雅に振り回して女は穂乃を吹っ飛ばす。鈍い音と共に穂乃の唇から僅かに胃液が溢れた。


「穂乃!」


 鳩尾に入れられたクイックルワイパーは、そのまま彼女の体を反対車線を越えて廃ビルへとはね飛ばしてしまう。


 悲鳴。


 幼馴染みのその声に一瞬血が昇る。それは戦闘では致命的な隙。穂乃の行方を目で追い掛けている内に、メイドは雅彦に脇腹に跳躍。そのまま真っ直ぐクイックルワイパーで雅彦を穂乃同様に吹き飛ばした。


「ぐっ!?」

「なんだ。意外と大したこと無いんですわね」


 必死に腕で守りの構えを取って、直撃を逃れたが、メイドはそんな雅彦の様子をただにっこりと笑って見ているだけだった。絡み合う視線。殺意の対立。止め処無く溢れるその悪意を雅彦は必死に受け止める。



 ――本気で、俺の事を殺すつもりか。



 数秒の間、二人は睨み合う。


 こうしていると、叶華と修行していた時を否が応でも思い出す。毎日汗を流して、少しでも強くなろうと頑張っていたあの頃の自分。星屑の力を得るとき、雅彦は叫華に誓ったのだ。「誰よりも強くなる」と。それは勿論体術的な意味合いもあるが、それよりも精神。心の強さである。何があっても星屑の力を他者に渡さないこと。特に悪い奴。力を利用して社会的地位を独占しようも企む輩は多い。そういう奴らに力を利用させるような事だけは絶対にしない、と雅彦は叶華と自分に誓ったのだ。



 金製のクイックルワイパーを無造作に持っている女を雅彦はもう一度目に焼き付けた。ピンク色のスカート。白いフリルのエプロン。首元には可愛らしい真っ赤なリボンが彼女を彩っている。贔屓目に見ても綺麗で、なんというか、保護欲が掻き立てられるような、そんな雰囲気さえある。この子の何処にその腕力があるのか。暫くじっと見ていたのがメイド女は気になったのだろう。「……殿方がそのように女子の顔を見続けるのは失礼だと思いますわよ」と、少し赤面しながら俯向きがちに言った。雅彦も雅彦で「え、あっ……すみません」なんて謝って、まるで急にお見合い会場にでもワープしたみたいな空気が流れる。



 ――その時だった。



「……雅彦! こっち!」


 メイドの隙を突いて、温かい手が雅彦を引く。女は予想していなかった穂乃の行動に驚くが、慌てて逃げる穂乃も雅彦も直ぐにメイド女に行く手を阻まれてしまった。


 ……くそ!


 心の中で悪態を吐きつつ、覚悟を決めた雅彦は拳を握る。全力で闘って良いものか。相手は女だ。男としてそれは出来ない。


 星屑の力は絶大。普通の人間なら間違いなく相手にならない。とはいえこの女も普通と呼べるものなのか解らないけれど。


「乙女の純情を弄ぶとは良い度胸ですわね」

「いや、そんなつもりじゃ……」


 目を吊り上げるメイドに、雅彦は苦笑。女の方も「……まあいいですわ」と、やはりにっこりと笑みを浮かべた。もしかしたら彼女にとって、微笑みは何か重要な意味があるようにさえ思えてしまう。


「逃げようとしても逃げられない御気分は如何?」

「……最悪だよ」

「あら、私は最高の気分ですわ」

「じゃあアンタとは気が合わないと思う」

「アンタ、じゃありません。仲原麻希奈です」


 立ちはだかる女の笑みは崩れない。自信過剰なその態度は羨ましいくらいで、「アンタもこのくらい自信あれば良いのにね」と隣で睨み付けていた穂乃が息も絶え絶えに言った。それに少々苦笑しつつ、状況は急変。


 雅彦はなるべく相手が油断するような状況を見計らって、思いっきり脚を宙に浮かべて、女を蹴り飛ばす。


「今だ!」


 雅彦とて、無駄に他人を傷付けたくは無い。女が後方へ吹き飛んだ間に全力で走り去る。


「雅彦! とりあえず二手に別れるわよ。敵は一人。もしかしたら運良く二人とも見逃すかも知れないわ」


 穂乃の予想外の言動に雅彦は驚き、思わず素頓狂な声をあげてしまう。「そんなことして穂乃だけ見つかったらどうすんだよ」と言おうとした時には既に遅し。神崎穂乃という人間性を舐めていた。思い立ったら直ぐ決断の彼女はもう道を曲がって、虚空へと消えている。彼女の逃げるスキルの高さに多少驚きつつ、雅彦は舌を噛んだ。



 ――穂乃の馬鹿野郎。



 頭を掻きながら雅彦も穂乃とは反対方向に走る事にする。


 うまい具合にメイド女が雅彦の後をついてきたのは幸運と言うべきか不幸と言うべきか。とりあえず今は穂乃の言葉通り、ひたすらに走るのみ。


 頑張れ、月野雅彦。


 自身にそう言い聞かせて、穂乃の安全が確認される所まで走る。透き通るような青空が疎ましくさえ思えて来たが、そんなことを言っていても何も始まらない。とにかく仲原麻希奈。あの女をどうにかして対処しなくては。急に現れて何がなんだか良く分からないが、雅彦の脳内は不思議とスッキリしていた。焦りも恐怖も困惑も、怒りさえも無い。必死に稼働する心臓と、ぶれる事がない想い。それだけだった。


 大部分は穂乃のおかげだろう。


 付け加えるなら、雅彦も突然の危機に少しずつ慣れてきた、という所か。


 こんなことに慣れたくはないんだが、慣れてしまったものは仕方ない。僅かに口内に広がる鉄の味。きっと、さっき舌を噛んだ時のものだ。苦笑を溢してから幼馴染みを守るための行動に打って出た。



『私は別にアンタがどれだけ惨めな人生を送ろうと知ったことではないけど、あの人の元に居る限りはまともな人生を送れるようには思えないわよ』



 脳内でリフレクションした穂乃の言葉は、雅彦の全力を発揮させるのに十分過ぎる鼓舞。躍動した雅彦は、そのまま一軒の家を飛び越えて、繁華街へと身を投げる。


 いつもどんな時でも彼女が居たからここまでやってこれたのだ、と密かに思っている事さえ穂乃はお見通しだろう。厳しさの中の優しさを噛み締めて、近くに止まっていたタクシーへ。転がり込んだ雅彦は自然にこう答えていた。


「……大通までお願いします」


 平静を装った雅彦の口調に妙な気味の悪さを感じたのだろう。そりゃあいきなり隣に上から落ちてきた人が入ってきたら何も言えなくなる。


 ポカンと口を開けているドライバーに「……すみません、急いで貰えますか」と言えば向こうも客商売。「すみません」と謝って、静かに熱風の中を通り過ぎていく。ヤクザにでも追われてると思ったのか。それは雅彦には分からないが、今ほどは無言のドライバーを嬉しく思ったことはない。そして、後方に目をやる。


 ――悪魔だな。


 窓の外からクイックルワイパーを振り回しながら聞こえる悲鳴とも取れる女の叫び声を聞いて雅彦はぼんやりと考えた。


「…………ったく、何なんだよアイツは」


 暫くして雅彦は吐き出す。全く見覚えすらない。張り詰めていた空気がセロファンのように溶けていく。試合の時は強くても、それ以外の時はまるで弱そうなボクサーなんかをよく見かけるが、雅彦はその典型とも言えるかもしれない。



 まさか幼馴染みの言葉を思い出して逃げ仰せるとは思ってもみなかったが、とかく幼馴染みには感謝すべきだろう。


 と、その時。電子音が鳴り響く。


 発信源はポケットの携帯電話。急いで出てみれば、瞬間冷酷な声が雅彦の気を引き締めた。


『……月野雅彦君。貴方は今何処にいるのかしら』


 珍しく息を乱した声は扇情的にも取れる。


 そして雅彦はハッとしたのだ。自分の予想能力の無さに一瞬で落胆する。ターゲットが逃げたら、ターゲットと交遊のある人間を囮に使うのが常。顔を知られてる穂乃が襲われることだってあるのだ。


 雅彦は堪えきれず、電話の主に逆に質問。


「穂乃……大丈夫なのか」

『当たり前でしょ……って、その様子だと上手く撒けたのね』


 その言葉に心から安堵する。どうやら麻希奈も流石にそこまではやらなかったようだ。ということは、まだしつこく追ってくる可能性も否めないけれど。


 今度は当然とでも言うように自信満々の神崎穂乃の質問に答える番だ。


「良かった……俺は今大通に向かってるよ」

『大通? どうしてそんなとこに』

「どうしてって……なんとなく?」


 電話越しに溜め息が洩れた。


 聞き慣れたその嘆息は「呆れた」と心底言っているようなものだ。曖昧に誤魔化していると穂乃はいつものように潔く切り出す。


『じゃあ私も今からそっちに行くから。待ってなさい』

「えっ、待ってるって一体何処で――」


 言いかけた瞬間に耳元に非情なコール音が流れる。どうやら通話は途切れてしまったらしく、仕方なく雅彦は携帯をポケットに滑らせた。



 静寂が訪れた車内。窓の外には暑そうな世界が見える。雅彦は改めて深く溜め息をつくとドライバーに「……もう少し急いで頂けますか」とだけ告げて、ぼんやりとすることにした。


 何処で待ってれば良いんだよ。


 吐き出した言葉はドライバーの耳にだけ届いて、直ぐに消える。運の良いことにドライバーは終始無言だった。そのまま大通に着いた雅彦は軽く礼をして、薄い財布から千円札を渡す。



 車外に出た雅彦は暑さを振り切って大通を歩いた。

 空へと伸びる建物が次々に並び、中央には一面の緑と真っ赤な塔が街を鮮やかに彩っている。目をやれば眩んでしまうような太陽。しっとりと肌に纏わり付く熱気。それら全てを縫うようにして雅彦は進んでいた。


「……流石にここまでは追ってこないよな」


 自嘲するかのように笑ってから雅彦は自販機へ向かった。選んだのは缶のお茶。硬貨を入れてからボタンをがさつに押す。そして落ちてきたお茶を一口飲んで、ゆっくりと息を吐く。


 冷たくて気持ちいい。


 お茶で軽く喉を潤した雅彦は、適当な場所で穂乃を待とうと、適当に歩いて見つけたのは、然程大きくもないが、目立つ所にある噴水だったのだ。



 ****



 ――そして今に至る。



 目の前で伸びる麻希奈をじっと見据えながら雅彦は頭を抱えた。情報が足りなすぎる。とにかくこの女が目を覚まさない事には事情を聞くことすら出来ないだろう。ならばこのまま此処で待ってないといけないが、大通でこんな道の真ん中に放置しておく訳にもいかない。死人じゃあるまいし、都会に人が倒れていて、側に雅彦が居るのだ。今の時代警察に通報されるのがオチだろう。


「……というか、今のこの状況でも危なくないか?」


 足下で倒れる女性。そして目の前にはその女を蹴り飛ばして気絶させた男子高校生。あらぬ誤解を受けてもおかしくない状況である。緑の芝生の上で寝転ぶ麻希奈を眺めて、確実に失敗した、と顔を引きつらせた。失敗というのは最初が肝心で、一番最初のボタンをかけ違えるとそれ以外のボタンも全てかけ違えてしまうのと同じだ。



 ――つまりもう自分は間違いを犯しているわけだ。



 遠くの方から聞こえるパトカーのサイレン音を聞いて、雅彦は愕然とする。今日は帰宅は何時頃になるだろうか。この女の返答次第では暴行罪で留置所で頭を冷やす事になるかもしれない。本当に今日はついてない。占い等はあまり信じないが、今だけはこの最悪の日から逃れる方法でも教えて貰いたいものだ。


 突如雅彦の目の端で動くものがあった。


 それは先程まで倒れていたもので、暫しキョロキョロした後「私が……負けた?」と独り言のように呟いている。


 まだ警察がここに来てない今がチャンス。

 思いきって雅彦は彼女に声を掛けた。


「……えっと、大丈夫か?」


 とは言ってもどう言えば良いのか解らず、咄嗟に出た言葉がそれである。この状況を一変できる可能性はほぼ皆無の一言に我ながら情けない。麻希奈は大きな瞳をぱちくりさせてからゆっくりと頷く。


「ええ、大丈夫ですわ……」

「痛い所とか、無い?」

「少し、頭が痛いです」


 そりゃあそうだろう。思いっきり蹴り飛ばしたのだから。心の中でそうツッコミつつ、当たり障りない会話をした後で、雅彦は本題に入る事にした。


「えっと、いきなりだけどさ。君、結局何処の誰なんだい?」

「私は……仲原麻希奈と申します。自分より強い殿方を探して旅をしているメイドですわ」

「はぁ……?」


 呆然とした表情を浮かべながら機械のように話す麻希奈。言っている意味は良く解らない。だが、思ったより素直に答えてくれる。が、背筋に寒気のような物が走るのを感じた。大きな瞳が此方を見ている。その後、神妙な面持ちで彼女は立ち上がった。


「……月野雅彦様。お願いがありますわ」

「は、はい?」


 肩まである茶髪を翻した麻希奈の立ち振舞いは見事なもので、メイドと呼ぶに相応しい優美で可憐。思わず言葉を失わせるような雰囲気さえあった。



 先程までとは打って変わって力強い口調で麻希奈は続ける。



「どうか私を雅彦様のメイドにさせて下さい!」



 脳内に鈴のような声が暫く響いた。


 えっと、こういう時何て言うんだっけか。ああ、そうだ。絶句だ。


 何を言っているのか理解するまで数秒。次の行動へ移れる迄も数秒。神経伝達が著しく滞り、視界全てがスローに感じる。さっきお茶で潤した筈なのに、いつの間にかカラカラに乾いた喉からやっとの事で雅彦は言葉を吐き出した。「冗談止してくれ」と笑っても、麻希奈の頭は垂れたまま。



 ――マジで?



 思わず抗議の声を上げようとすれば、肩に乗せられた手によってそれは敢えなく遮られた。何かと思って振り返ればそこに居たのは青い服を来た男。


「……君、ちょっと良いかい?」


 麻希奈とは異なった、嫌味な感じの笑顔で笑う男を見て、雅彦もただただ笑うしか無い。もう少し時間が掛かるかと思っていたが、日本の警察も現場に着くのだけは早いようだ。



 ――終わった。



 今日は色々な事が一気に起きすぎる。脳が追い付かない。警官の腕で光る腕時計に目をやると現在の時刻は五時半。今からだと……二時間は余裕でかかるかな。大通の緑の中で雅彦は小さく溜め息。調書らしきものを片手にしている警官の後ろではもう一人の警官が此方を睨み付けている。


 視線の先には頭を下げている麻希奈。


「もしかして君さ、脅迫とか、してないよね?」

「え、あぁー……いや俺は」


 そこで雅彦は言葉を止めた。どう答えても疑われる気がする。彼女に殺されてかけて逃げていた所、丁度タクシーに乗り込めて、大通に来たのですが、やっぱり追い付かれて、木の上から飛び降りて蹴りとばしたら気絶してしまいました。それが事実だが、そんなことを日本の警察が信じてくれるとは思えない。


 曖昧に誤魔化しているその態度が警官には気に入られなかったようだ。元々つり目の瞳を更につり上げて、鬼のような形相で雅彦を睨む。


「……君。何か隠してることあるんじゃないの?」

「いや、別に何も無いですけど……」

「じゃあ何をしてたのか、言えるだろう!」


 怒りを込めた叫び声に雅彦は耳を塞ぎたくなるが、それを堪えていると後ろから「まあまあ」と今度は耳が惚けるような愛らしい声がした。それから事態は更に急転。麻希奈は笑みを浮かべつつ、話し出す。


「お巡りさん。私何もされてませんわ」

「しかしだね……!」

「何もされて無いのです。それ以上彼に何か言うようなら此方としても侮辱罪、名誉毀損で訴えても良いのですよ?」


 麻希奈は雅彦と対峙していた時のような、プリンのように柔らかで、ナイフのように鋭い、そんな笑みで警官を圧倒。流石に警察が逮捕になれば不味いと思ったのか「まあ……本人がそこまで言うなら」と素直に引き下がった。可愛くて、優しい口調なのに何処か威圧的な彼女。確かにこんなに美しい人にそう言われれば警官だって男だし、下心も働くというものだろう。これがもし雅彦ではなく、本当の凶悪犯だったとしたら嘆かわしい限りだが、今は感謝。



 すみませんでした、と頭を下げてから一先ずその場を離れる事に雅彦と麻希奈は成功する。噴水方向へと足を戻しながら、暑さのあまり、ネクタイを緩めた。



 しかし、麻希奈は此方を見据えると不気味な笑みを浮かべた。これは嫌な予感。額を流れる単なる汗とも冷や汗ともつかない滴を制服の袖で拭った雅彦を見届けて、口を開く。


「雅彦様。もし雅彦様が私をメイドにして下さらないなら今の警官方に『実は脅されて、そう言うように言われていたのです』と伝えて来ます」


「……はい?」



 色々ちょっと待ってくれ。さっきも似たような事を言われて絶句したのを覚えているが、今度は何か余計な言葉がおまけで付いている。そもそも俺は人を従わせるような人間では無いし、そんなことしたら否が応でも目立ってしまう。つまり星屑の力が目立ってしまうのと同じだ。俺にそんな大それた事は出来ない。



 瞬時に雅彦の思考は低迷するが、麻希奈はそんなことは知らない、とでも言うように未だ笑顔。焦った雅彦はやっとの事で言葉を吐き出した。


「ちょっと待ってくれ、俺は君の御主人様になれるような器じゃないし、それに――」

「あら。私に勝ったじゃありませんか。それだけで十分ですわ。心配なさらなくてもこれからは朝から晩まで雅彦様のお世話をさせて頂きます」


 陶酔したかのような麻希奈はどさくさに紛れて雅彦のネクタイを直すその手を払う。「ネクタイとか触らなくて良いから!」「いえ! 雅彦様の心身共に私が管理させて頂きますわ」。猫の取っ組み合いのようにしてると今度は何処からか今は最も会いたくない人の声が響いた。絹のような黒髪を靡かせて、不機嫌な表情を浮かべる彼女。最悪以外の何物でもない。


「……月野雅彦君。あなたは先程まで敵対してた筈の人と何をなさっているの?」

「う、うええ……ほ、穂乃……」


 噴水の方面からゆっくりと歩いて来た幼馴染みが見えた。見られたのは紛れもなく雅彦が麻希奈にネクタイを直して貰っていた所。それを一瞥すると穂乃は「……サイッテー」とだけ評し、その場から去ろうとしてしまう。そういえば此処に居たのも穂乃と待ち合わせしていたからだった。すっかり失念してしまってた。


「あ、ちょっと! 穂乃待って――」

「雅彦様! 未だネクタイを整えておりませんわ!」


 穂乃を追いかけようとすれば、麻希奈にまたネクタイを掴まれて、動けない。一体今日は何なんだ。噴水のように止めどなく溢れてくる事態を脳内で整理する暇も無く、雅彦は叫びだしたい衝動に駈られた。だがそんな雅彦の心境等気にする事無く、麻希奈は優雅な立ち振舞いと共に笑う。



「これから宜しくお願い致します。雅彦様」



 仲原麻希奈。



 これが彼女との出会いで、雅彦の本当の物語の始まりだったのだ。大通の観衆の中で、熱い光を浴びながら雅彦は苦笑。


 ――なんか、疲れた。


 呆けたような顔で幼馴染みの背中を見つめながら、溜め息をつく。隣にはずっとニコニコとしているメイド服の女。今度女難の相が出ていないか占って貰った方が良いかもしれない。今日から占いという物を少し信じてみよう。


 六月の空は、いつの間にか真っ赤に染まっていた。

 







『こんな世界はおかしい!』

      序章 完







 というわけで序章が終わりました。

 色々複雑な物語がこれから始まりますが、どうぞよろしくお願いいたします笑

 変なところとか、感想とかあれば御待ちしております。辻宮でした!

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