銀のスプーン
あくまでも全年齢ですので、分からない方がほとんどだと思いますが、ウエサマの頭の中が桃色です。どんな領主様でも大丈夫、というやさしい方へ。
「ウエサマ?」
ウェサマーは悶えていた。
不思議そうに首を傾げるハルに顏を背け、片手で覆い隠す顏はだらしなく緩んでいる。体は何かに耐えるように、ぷるぷると小刻みに震えていた。
「すまない。ハル。それは?」
ウェサマーを悶えさせた原因、ハルの持つ銀のスプーンを指さす。
ハルはにっこり笑ってスプーンをつき出し、自信満々に言った。
「しゅぷーん!」
「っ!」
うららかな午後のハルの部屋。ウェサマーは再び撃沈した。
カイルが滞在するようになり、危機感を募らせたウェサマーは、なんとかして時間を捻り出して、ハルに言葉を教えてやっていた。
この時間を作る為の執務の調整は大変なものだったが、ウェサマーにとって、苦労を補って余りあるほどの時間になった。
ハルの目の前には、温かいお茶とプリン。
こうしてお茶会をしながら会話し、身振りを交えて答えを合わせ、ハルは自然と言葉を覚えていった。
「イタダキマス」
ハルは食事の時、必ずこの言葉を話す。
言葉を教えてやれるのは楽しいが、ハルの世界の言葉を知るのは、より近くなれるようで、もっと楽しい。いつか、今度は自分が言葉を教えて貰おう、とウェサマーは想いを馳せた。
ハルは銀のスプーンに乗せたぷるんと震える生菓子を口に運ぶと、頬に手を添えて幸せそうに目を細めている。
菓子を味わうハルを見て、ウェサマーもまた、至福のひと時を味わった。
ただ、この時間。
この時間はお互いにとって有意義なものであったが、ひとつだけ難点があった。
ハルの反応ひとつひとつに、ウェサマーもまた反応してしまう事だ。
ひどい時は、老人のように背を丸めて悶えてしまい、授業が中断してしまう破目になる。
曲げていた腰を、何故か片手でとんとん、と叩くウェサマーの姿に、初めてみた時のハルは、もしや腰が痛いのか、とウェサマーの腰をさすってやったものだった。
しかし、ウェサマーがかえって石のように固まってしまい、直後、かなりの勢いで大丈夫! と連呼するので、今は不思議そうに眺めるに留まっている。
ハルはそうやって、大丈夫、を覚えたのだった。
お茶が減った今もまた、ウェサマーは体を震わせている。
言葉を覚えたばかりの、ハルの舌足らずな話し方がどうにもウェサマーの何かを刺激した。
ハルがしばらく黙って見守っていると、ウェサマーはよし、と気合を入れて顏を上げた。
「すまない。大丈夫だ」
「△□※……? ごめんなさい。大丈夫」
「よし、続けて。体、髪、頭、顏、手、足」
「続け、て? 続く……? □□? 続けて、ウン、〇△□。続けて! 体、髪、頭、顏、手、足……」
結局、カイルが本当にハルを喚んだ理由は分からない。冗談とも、本気とも、カイルのあの無表情から読み取るのはウェサマーでも困難だった。
ただ、いずれにしろ。この世界に馴染もうと、言葉を覚え、仕事を覚え、懸命に頑張るハルの姿はとても好ましい。
やさしくハルを見つめながら、ウェサマーは思わず、呟いた。
「偉いな、ハル」
「……えら、い? ◇*〇……? @@? 偉い?」
「ああ、偉い」
「……! ワカッタ!」
呟きに気付いて復唱するハルに、無意識に頭を撫でてやりながら繰り返すと、ハルは唐突に声を上げた。
ハルはいつも、言葉を理解した時や、何かを頼まれた時に、そんな言葉を言っていた。
難しい顏をしていたハルの顔がぱっと華やぎ、新しい言葉を覚えた嬉しさが伝わってくる。
「ウエサマ、ありがとう!」
「……っ!」
ウェサマーは、再び悶えそうになるのを必死で耐えた。
ハルからの満面の笑顔が、こんなにも嬉しい。
ウェサマーの頬は喜びでみるみるうちに染め上がっていく。また慌てて片手で顏を覆ったが、覆いきれない耳まで真っ赤に染め上がっていた。
これではハルの勉強にならない。
大きく息を吐き、落ち着け、と念じる。
そんなウェサマーを余所に、ハルは既に、少し離れた所にある、メモを閉まった机に向かっていた。
真剣に今の言葉を書き留めていたから、ウェサマーの様子など全く見ていなかった。ウェサマーが落ち着きを取り戻す間に、書き留めた言葉を一人で復唱し始めている。
「ありがとう、ごめんなさい、何? お手洗い、お風呂、ナイフ、フォーク、しゅぷーん、パン、みちゅ、酒、汁、肉、野菜、果物、うん、いいえ、しゅき、きらい、花、土、雑草、飯、食う……」
一生懸命に言葉を紡ぐハルに、ウェサマーは可愛くて仕方がなくなった。
もっと傍に行って褒めてやりたい。
だが歩き始めてすぐ、ハルの唇から零れる言葉が耳朶を打つと。思わず、ぎしっ、と動きを止めた。
「良い、嫌、らめ、大丈夫、働く、動く、しゅごい、続き、続けて、体、髪、」
「ハル」
言葉を続けようとしたハルを遮り、動きを止めていた事など感じさせないほど妙になめらかに、ウェサマーはハルの傍へ近寄った。
毎日庭園に行っているからだろうか。
ハルから僅かに感じる、土の香り。その奥からふわりと届く、花のような甘い、甘い香り。
ハルから漂う蜜の香りに、ウェサマーは酔ってしまいそうだ、と思った。
はたしてそれは、否。
ウェサマーはもうずっと前から、酔い狂わされている。
「ウエサマ?」
「ハル、駄目だ。もう一度」
「らめ? も、う一度?」
「ああ。今のを、最初から」
「……? ごめんなさい。何?」
「すまない。では、駄目、だけでも」
「……? らめ? ……?」
「っもう一度」
妙にすわった目つきで言葉を復唱させるウェサマーに、ハルは何故か背筋を冷たいものが走ったが、自分の言葉の何かがよほど駄目なんだろう、と請われるままに言葉を繰り返した。
何故かほんのりと頬を染め、目を閉じて聞き入るウェサマーに首を傾げながら。
その日、ハルは新たに、もう一度、を覚えたのだった。
読んで下さりありがとうございます。