三日月は見ていた
「ヴェルグ、調子はどう……!」
ウェサマーが多忙の合間を縫って、腰を悪くしたという庭師の様子を見に行くと庭園には言葉が通じず正体不明、唯一名前だけは分かった娘――ハルがいた。
「ウエサマ!」
にかっといつもの色気のない笑顔を向けるハルに、それでもウェサマーの胸は高鳴る。
彼女に一目で虜になり日毎に焦がれながらも、執務に追われ顏を見る事すら叶わない多忙の日々であった。
思いがけず会えた事に歓喜し、ウェサマーは勢いよく右腕をくの字に曲げ、ぐっと拳を握り込んだ。顏は紅潮し喜びが滲み出ている。
ウェサマーのそんな姿を、庭園に舞う蝶に目を奪われていたハルは全く気づく事もなかったが、ばっちり見ていたヴェルグは嫌そうに顏を顰め、これまた嫌そうに口を開いた。
「ふん。腑抜けた顏して何しにきやがった」
「もう分かっているんだろう? 今朝、お前の孫から返事が届いた。早々にこちらへ向かうと書いてあったから、そろそろ来るだろう」
「ちっ」
素早く頭を切り替えたウェサマーに大きく舌打ちをしたヴェルグは、ゆっくりと庭園のベンチに腰を降ろすと、痛む腰を撫でて主の仕事の早さを呪った。
医師に口止めをして騙しだまし仕事を続けてきたが、ウェサマーに見抜かれ庭師を降ろされるのは時間の問題だと思っていた。これほど早いとは思わなかったが。
じっくりと、己の手がけた庭園を眺める。
人と関わる事が極端に下手な自分を恥じた事はなかったが、やはりどうしようもなく寂しさが募る事もあった。だがここはどんな時でも暖かく迎え、癒し続けてきてくれた。
ここが、生きる場所だと思っていた。
「マーサ……お前の奥方も心配している、と書いてあった」
「……ふん」
マーサは、王都に居た頃先代が引き合わせ、唯一愛する事ができた女だった。ヴェルグの性格を鑑みれば奇跡と言っていい。
二人のやり取りを隅で大人しく見守るハルが気になるだろうに、ヴェルグに真摯に向き合う主を見返す。
先代にしろ、ウェサマーにしろ。いくら腕があろうとただの庭師、それも人間嫌いな自分を、理解し、好きにさせてくれていた。
医師も、看護婦も、使用人も。……最愛の妻や家族も。
馴染みとなった者達は、人の中にも温かさがあるという事を、教えてくれていた。
余計な軋轢を生む自分が傍に居ればいらない苦労をかけるから、と妻と離れて暮らしていたが、生きる場所を変えるのも、そう悪くないと思えた。
態度を変える事はなかったが、長い時や穏やかな場所が、己を変えていってくれていた。
「坊」
卒去する直前の先代にも口にした、滅多に言わない言葉を伝える為、ヴェルグは大きく息を吸い込んだ。
吐き出す。
今この時ばかりは、いつもの頑なな心も一緒に庭園の穏やかな空気に紛れていった。
「ありがとう」
「……! ああ」
言ってすぐに照れくさそうにそっぽを向いて咳き込むヴェルグに、ウェサマーは楽しそうに苦笑した。
それから、一息だけ休んだヴェルグは、庭の土運びをしようと立ち上がった。
「あまり、無理はするなよ。じきに孫が来るまで休んでいたって良いのだから」
「一日休んだだけでどれだけの雑草が増えると思ってやがる。孫が俺の代わりだってんなら、なおさら余計な仕事を増やしておいてたまるかっつの」
「だからそれまでは代わりに人を……使うくらいならとっくに使っているな」
「分かってるじゃねえか」
苦笑するウェサマーにヴェルグがふてぶてしく笑う。しかし手は無意識に腰を擦っていた。
すると、それまで庭園の花々を見ていたハルがさっと近寄り、ヴェルグの服の袖を子供のように引っ張った。
「ヴェルグ、ヴェルグ」
親しげにヴェルグを呼ぶハルの姿に、ウェサマーは瞠目する。
「いつの間に名を……?」
「ああ? ああ……。ちょっとな」
その顏に浮かぶ微笑みを見て、ウェサマーはその身に雷が落ちたのかと思う程の衝撃を受け、これ以上ない程大きく目を見開いた。
あの、人間嫌いのヴェルグが傍に寄っても振り払わないどころか、ハルに微笑みを向けている。
今すぐ、嵐がやってくるのではないか。
ウェサマーは、もしくは自分は幻覚を見ているのではないかと大きく頭を振ったが光景は変わらなかった。
ヴェルグの微笑みを受けたハルは笑顔で頷くと、荷台に乗った土を運び始めた。既に運ぶ場所は分かっているらしい。
ハルの嬉しそうな笑顔を、再度雷に打たれたかの様に動きを止めて呆然と見ていたウェサマーは一人慌てて頭を振り、ゆっくりと座り直すヴェルグに問いかけた。今更真面目な顏をしても全く締まらないが、指摘など面倒だったヴェルグはあえて黙って聞いてやる事にした。
「そういえば、ハルは何故ここに?」
「少し前からだ。俺が土運びしてる最中に腰やっちまった所見られてな。動けねえでいたらディスト先生呼びに行って、勝手に俺の続きの土運びを始めやがったんだ」
「あんなに重いものを……」
「場所も分かんねえくせに荷台持ち上げてじっと見られちゃ、こっちは動けねえし、しゃあねえから身振りで指示してやったんだ。そうしたら毎日来る様になりやがって」
迷惑そうに言いながらもヴェルグの口元には穏やかな笑みが浮かんでいる。
視線をハルへ向ければ、腕をプルプルさせながらも一生懸命に土を運んでいた。その姿に思わず顏を綻ばせ紅潮させたウェサマーは、直後ぶんぶんと頭を振った。頭を振りすぎて髪が乱れている事に全く気付いていない。
「手伝わなければ」
「やめとけ」
「何故止めるんだ。彼女が自発的にやっているとはいえ女性にあんな……」
動き出そうとしたウェサマーを制止するヴェルグの小さくも強い声に、ウェサマーは眉間に皺を寄せて振り返った。
穏やかになっていった自分とは反対に、ハルが来てから――恋をしてからというもの、ずいぶんこいつは怒りを表に出す様になったもんだ、と内心面白がりながら、ヴェルグは告げた。
「求めてるんだよ」
「……?」
「俺と同じだ。だから分かる。手を出さねえ方があいつの為だ。見てりゃ分かる」
名前しか分からず言葉も通じない彼女が、何を考えているのかなど分かりようもない。だが、居場所を求め彷徨う心を知るヴェルグには、彼女がここに居る理由を欲している事が手に取るように分かった。
得体の知れない人間であるとは今でも思っているが、腰を痛めた自分を心底心配し、気遣い、どうにか助けになりたいと取った行動は本物で、ヴェルグの心を揺さぶった。
先代やウェサマーがくれたように。彼女にも居場所を与えてやりたくなった。
「……楽しそうだな」
「ふん」
ハルを見て自身も楽しそうに呟くウェサマーに鼻を鳴らし、ヴェルグもハルを眺める。
おそらく始めは心配して様子を見に来ただけだったのだろうが。仕事を与えてやると、どこか安堵したように嬉々として働く姿を見て、己の判断が正しかった事を悟った。
ウェサマーもヴェルグのそんな思いを感じとり、無理に踏み込む事はせず、庭園の小さな泉の淵に腰掛けてちょこまかと動き回るハルを優しく見守った。
その晩、久しぶりに想い人に会う事ができたウェサマーは目を瞑る度に瞼に浮かぶハルの笑顔に翻弄され、なかなか寝付く事ができず何度も寝返りを打った。
カーテンの隙間から部屋を照らす三日月だけが、そんなウェサマーを見守っていた。
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