砂を噛むような
オヤダカーニ領。ウェサマーは自身が治めるその地を、華やかな王都から離れた辺境であり長閑で平和な地で、人々は慎ましくも穏やかに過ごしていると思っているが過去は異なっていた。
そもそも国境でもあるこの地は、容易には越えられない切り立った山脈と麓に広がる暗く深い森が他国の侵入を阻むとはいえ、有事ともなれば美しい田園風景など燃え盛る火の海と化してしまう危険地域でもあった。
大地は肥沃だが度々河川が氾濫し、加えて山脈や森には魔物が潜むとも言われ、好奇心で入った者はまるでそこが別の世界への入り口であったかの様に誰ひとりとして帰って来る者はいなかった。
かつて森を焼き払おうとした者もいたが、拒むような突然の強い嵐に翻弄されて森の入口にすらたどり着けず、皆奇病にかかり苦しみ抜いた後に帰らぬ人となった。
元の領主や役人は王の目が届きにくいのを良い事に私腹を肥やす事に躍起で、重い税を課せられた人々は疲弊しきっていた。
そんな元領主達を王から命を受けた先代が裁き、先代が亡き後もウェサマーが河川の治水や税の見直し、治安を回復し人々を守る為の警備兵の配備などなど、挙げればきりがない程に尽力した結果人々はようやく穏やかな暮らしを手に入れたのだった。
今日も今日とて、ウェサマーの机には処理を済ませた書類が山の様に積み重なっている。
その書類の山に目をやり、ウェサマーは思わず苦い顔をして大きなため息をついた。初恋の君――ハルに会いに行けない事が思いの外寂しい。
ウェサマーが執務に虚しさを感じるなど初めての事だった。だが、人々の顔を思い出し、ハルの笑顔をかなり努力して頭の箪笥に仕舞い込むと残りの書類を猛然と処理するのだった。
「入って、よろしいですかな?」
静かな室内にディスト医師の声が届きウェサマーは顏を上げた。手元には山脈の国境を越えた隣国の王子ポンタタンの来訪の日程を伝える手紙がある。
本来はウェサマーの関わる事ではないのだが、かつて海を渡って留学に来ていたポンタタン王子と当時は王都にいたウェサマーが旧知の仲となり、両国にとってもこれまでにない良好な関係を築くきっかけになっていた。
その為彼が来訪すると王都へ呼ばれるのはいつもの事で、ウェサマーは手紙を特に隠す事もなく入室を促した。
「お忙しい所申し訳ないですな。少々、お伝えしたい事がありましての」
「構わない。丁度一段落ついた所だ。しかし、そんなに神妙な顔をしてどうしたんだ?……まさか、ハ」
「ハル殿は今日も元気いっぱいですのでご安心下され。本日は別の方の事でご相談があるのです」
ウェサマーと馴染みの深いディストにとっては、遅い初恋にウェサマーがあたふたしている事などまるでお見通しで、彼がいつもの様に冷静でいられるように、とあえて素早く言葉を被せた。
領主が身元不明の女性へ想いを寄せるなど、許される事ではない。しかし想う事は自由だ、とディストをはじめ馴染みの者は微笑ましく見守っていた。
「っ。そうか。別の……というと、もしかするとヴェルグの事か?」
「やはり気付いておいででしたか。彼には固く口止めをされていたのですが、もう限界でしょう」
「腰か?」
「ええ。彼自身が強く希望されているとはいえ、これ以上仕事を続けては日常生活に支障が出ます」
「そうか……。早急に代わりの者を検討しよう。……随分長い間、甘えてしまっていたな」
「ふぉっふぉっ。なあに。甘えていたのは案外彼の方かもしれませんぞ。自分の居場所を自分で作る事は、簡単なようで中々難しいものですからな」
「……それでは尚のこと、酷な事をしてしまうな」
小さくため息をついたウェサマーにディストは柔和な笑みを浮かべ、その分会いに行かれるとよろしいでしょう、と言って退室していった。
それでは嫌がらせになるんじゃないか、とウェサマーは苦笑を浮かべ、若いながら庭師として良い腕を持つヴェルグの孫に手紙を書き始めるのだった。
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