滝に落ちるように
珍しい黒髪の娘があらわれて三日が経っていた。あらわれたその日の内に老いてなお皆から信頼されるディスト医師から身体上は異常なしと診断されたが娘は眠り続けていたのだ。
その間ウェサマーは執務の合間を縫っては毎日欠かさず娘の部屋へ行き、まだ見ぬ娘の瞳や声、仕草はどんなものかと想いを馳せていた。娘の髪を優しく撫でるその目は、まるで恋人を見る様に甘く蕩けていた。
だが三日目。いつまでも目を覚まさない娘に流石に心配になってウェサマーは眉間に皺を寄せ苛立ちを隠すことなくディスト医師に尋ねた。
「まだ、目を覚まさないのか」
「そうですなあ。いつ目を覚ましても良い健康体ではありますが……。叩き起こしますかの?」
ふぉっふぉっふぉ。と笑いながらディスト医師は、いつも柔和な笑顔を見せる領主にしては珍しい表情だ、とからかい半分で冗談交じりに応えた。
女性を大切に扱うウェサマーが無理やり起こそうとなどしないと分かっていてそう応えたのだったが。
予想に反して、そうか。と呟いたウェサマーが娘の肩に手を置いた。まさか本当に叩き起こすつもりかとディスト医師は目を丸くする。三日も待っていた意味がなくなってしまうではないか。この三日間、ウェサマーが只管娘を愛でていた事をディスト医師も知っていた。
その時。あらわれた時と同じように唐突に、娘が目を開いた。
珍しい黒髪と同じ、珍しい黒い瞳。
状況が掴めないのだろう。誰もが彼女の故郷を疑問視する瞳が、ぼんやりと焦点の合わないままぐるりと周りを見渡している。
「気分はどうだ? 痛いところはないか?」
娘の肩に手を置いたまま、ウェサマーは優しく問いかけた。声に反応して、娘がゆるゆるとウェサマーの方を見る。――視線が、ぶつかる。
その間、……秒。
一瞬の刹那か。或いは押しつぶされそうな程の長い長い時か。
「シージー!」
どちらともいえない時間が流れて先に動き、動けなくなったのは娘の方だった。一瞬で顏を真っ赤に染め上げ、一言だけ発すると再び眠りの世界へ旅立った。
「……大丈夫ですか?」
一方、動けなくなっていたウェサマーは問いかけたディスト医師にぎぎぎ、と音がしそうな程無理やり体を動かして短くああ、と応えた。
娘の輝く瞳を見た瞬間。彼女のそれはまっすぐに彼を心ごと射抜いた。突然胸に灯った激しい炎に、ウェサマーは戸惑い混乱しぴきり、と体を固めて動けなくなってしまったのだった。
これは何だ。と自問自答する。答えは分かり切っていたがまさか、と認められず必死に見ない振りをした。だが娘の発した言葉が気にかかってならない。もう一度娘に起きて貰おうか。
「一度目を覚ましたのです。今度はすぐに目を覚ますでしょう」
心を読まれたのかと思う様なタイミングで紡がれたディスト医師の言葉に、娘に延ばされた手が止まる。
そのままウェサマーは今まで経験したことのない胸の内の炎に焼かれながら、執務へと戻っていった。その背中に一瞬何か黒い靄が漂っているのが見えたディスト医師は目を丸くし、老眼がすすんだかな……と頭を振った。
季節は、春。
にぎやかな春になりそうだ、とディスト医師は眠る娘をやさしく見つめたのだった。
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