episode3~嵐の前の~
寝起き鳥の声が朝を告げ、空が白み始める頃。
城館の夜間警備を終えるクリスの元に、交代のランスとクラブがやって来た。
「じゃあ、後は頼むな。あと、昨夜はうるさくしてごめんな。お疲れ!」
「……いや、こっちこそ悪かった」
一緒に寝ずの番をした男を見送るクリスは、徹夜でも眠気など感じさせない、しゃきっとした顏をしていたが。その顏を見た瞬間、クラブは思わず、ぷっ、と吹き出した。
「よお、クリス。今日も相変わらずの不機嫌顔だな」
「……ちっ」
クリスは無愛想ではあるが、だからといって、別段、いつも仏頂面をしている訳でもない。むしろ、根は優しく、少々不器用なだけだという事は、彼と接していれば、すぐに分かる事だった。
クラブがわざわざそんな事を言ってくる理由を察したクリスは、眉間に皺を寄せて、それこそ不機嫌な顏になって、ぎっ、とクラブを睨み付けた。
「いいから、引き継ぐぞ。異常なし! 以上!」
「へいへい。おお、おっかねえ」
王宮の警備ともなれば、厳重な交代式も行われるが、ここでの交代は、何かあれば報告するだけの、いたって簡素なもの。よほど大きな事があれば別だが、今晩も平和なものだった。
不眠で神経を尖らせていたクリスの剣幕を受けて、おおげさに肩を竦めるクラブに、ランスが大笑いして、クリスの肩を叩いて労った。
「お疲れさん。まあ、ウェサマー様がまた嬢ちゃんを構い出したからって、そうカリカリしなさんな。男の嫉妬は、みっともないぜ」
「うるさい。黙れ。嫉妬なんかしていない。もう寝る!」
「ぶあっはっはっ」
楽しそうに笑うクラブたちを尻目にして、クリスは詰所へと戻って行った。
昨夜、頼んでもいないのにぺらぺらと話かけられた言葉が、耳の奥で蘇る。
仕事に集中して忘れていたのに、去っていく時の謝罪と、クラブたちの言葉で、思い出してしまった。
「なあ、聞いたか? ウェサマー様の話」
「……黙って仕事しろ」
「クリスは真面目だなあ。少しくらい、いいじゃんか。今夜も、静かで平和な夜だしさ~」
ため息と沈黙を返すクリスをまるで無視して、共に夜間の警備をする若い男は楽しそうに問いかけた。
「なあ、どうなんだよ、聞いたのか?」
「……聞いた」
「そっかあ。何があったか知らないけど、最近ウェサマー様から感じてた妙な壁、やっぱりあったけど、なくなったんだってな。一体、何があったんだろうな」
「さあな」
この所家臣がやきもきしていた、ウェサマーの様子。
傍目にも可愛がっていたハルを遠ざけ、家臣たちにもどこか距離を置き。
その幽鬼のように働く姿に、それに気付いていた者たちは、ウェサマーの身を案じていた。
しかし、今日。
それまでの疲れはまだ顏に残っていたものの。以前と全く変わらぬ、親しみの込められた、穏やかな表情で家臣に接してくれる主が、そこにいた。
家臣たちが感じていたのは、どことない違和感だったが、やはり以前と同じウェサマーに会えば、その与えられる安心感は、比べるまでもなかった。
その、どこか陰を残しながらも、晴れやかな表情に、ウェサマーを慕う家臣の皆はひとまず、ほっと胸を撫で下ろしたものだった。
同じように心配していた仲間に教えてやろう、と。
そんなウェサマーの様子は、家臣たちの間に、瞬く間に広がっていった。
「なんか、昨日は庭園で楽しそうに笑ってたんだってな。ディスト先生と、エリックと、ハルの奴と。良いなあ、ウェサマー様と一緒に過ごせたなんて。あー、もう、先生たちが羨ましい~!」
「声がでかい」
呆れたように、不機嫌そうに。
クリスは、うるさそうに顏を顰めると、仕事に入る前に耳に入ってきた話を思い出していた。
クリスもウェサマーを心配し、何かできる事はないか、と思っていたから、元気そうだと聞いて、喜ばしかったが。
「だってよ~。あっ。じゃあさ、これは? 今日聞いたばっかの、取れたてほやほやの話! ハルといえばさ、言葉の勉強、してただろ? ウェサマー様が教えてらしたっていう」
ぴくり、クリスの肩が揺れる。
「なんか、しばらくエアさんに代わってたらしいけど。今日からまた、ウェサマー様が教えて差し上げてるんだってさ。ああ~、くそ、ハルの奴。ウェサマー様とふたりきりだからって、ヘンな事すんなよな~!」
「ふたりきりじゃない」
ぴしゃり、と打ち消すように言うクリスの声は固く、冷え冷えとしている。
迫力に押されて、男は思わず、謝ってしまった。
「お、おお? なんか、ごめん?」
「もう、黙って、働け」
「……はい」
夜間警備に入るまでに、クリスの耳には、この日にあったハルの勉強時間――茶を運んだ使用人が同室を許され、その場の様子を伝えたもの――の話も入っていた。
曰く、ウェサマー様は甘く蕩けるような、それでいてどこか危うい色気を漂わせ、それはそれは眼福……、楽しそうでいらっしゃった、と。
寝具に身を委ねながら、クリスは目を閉じた。
きっとクラブとランスも同じ話を耳にして、交代早々、からかってきたのだと、クリスはすぐに見抜いた。
不機嫌そうな顔を見せたが、あの二人とのやり取りは、今のクリスにとっては、生活の一部になるほど馴染んでいた。
人見知りで中々馴染めない自分を、あの二人は少しずつ変えていってくれた。居場所をくれた。
あと三秒で眠りに落ちるクリスの瞼の裏には、きっかけをくれたハルの、出会った時の笑顏が浮かんでいた。
ハルの朝は早い。
クリスが眠りに落ちた、ちょうどその頃。
目を覚ましたハルは寝台から降りると、ぐっ、と大きく体を伸ばした。
「おはよう、ハル」
「おはよう、エア」
洗顔用の水桶など、朝の身支度の用意を持ってきた使用人のエアは、ふと、テーブルの上に置かれた、奇妙なぬいぐるみを見て笑みをこぼし、そっと手を入れた。
「ハル、おはよう、ケロケロ」
「ふふっ。おはよう、ケロタロウ!」
二人は笑い合い、エアはケロタロウをそっと外してテーブルへ戻すと、カーテンを開けて、花瓶を今日の物へと取り替えた。
ハルが積極的に働くのは、寝食の恩を返す為であって、無闇に人の仕事を奪ったりはしない。
エアは、ハルがやって来たあの日から、ハルの部屋の掃除や、身の回りの事を一手に引き受けている使用人で、ウェサマーの馴染みでもあり、最も身を案じていた家臣のひとりでもあった。
そして、同じく馴染みの家臣であるディストから、このぬいぐるみが、ウェサマーの笑顔を引き出してくれた事を聞いていた。
「ウエサマ、元気?」
「元気です。ケロタロウのおかげです」
「ケロタロウ、元気、カエルです。ウエサマ、元気、私、嬉しいです」
ぬいぐるみは、しばらく会わなくなったウェサマーが一度だけ、遠くから、切なそうに庭園を眺めているのに気付いたハルが、ウエサマ、元気ない? とエアに尋ねたのがきっかけで作られた。
ウェサマーの元気がない事を聞いたハルは、しばらく考え込んでいたが。嬉しそうに何か思いつくと、身振り手振りで、エアに必要な材料を届けて貰った。
器用にぬいぐるみを縫い上げていくハルに、エアは感嘆のため息を吐くばかりだった。
初めて見る姿かたちのぬいぐるみ。
間抜けな顏を見ていると、自然と肩の力が抜けてしまう。
それでいて手を入れて操ると、がばがばと口を開けたり、生地がよれて余計に変な顏になったり、小さな手が愛らしくぴょこぴょこと動いたりするものだから、笑いが止まらなくなって、たまらない。
元気は出るが、エアにとっては、ある意味、腹筋を全力で破壊にかかる、恐ろしい凶器でもあった。
「私、行きます。エア、朝、ありがとう!」
「いってらっしゃい」
ハルはてきぱきと着替えると、朝食の準備でてんやわんやの厨房へと向かった。
そんなハルを見送ると、エアは、ぬいぐるみを見つめた。
まさか、このぬいぐるみが、これほどの効果を発揮してくれるなんて、思いもよらなかった。
庭園から執務室に戻ったウェサマーが、ぬいぐるみを返す為に、言葉の勉強中のハルの部屋へ来た時の顏といったら!
「本当にありがとう、ハル」
エアは微笑を浮かべて、もういない部屋の主に心から感謝すると、その気持ちをあらわすべく、部屋の掃除を始めるのだった。
人の侵入を拒むように、鬱蒼と繁る、昏く深い、深い森。
いつもどこからか聞こえる唸り声。獣か鳥か、怪物か。何者かの視線がつきまとう。
けれど、森の一番奥の奥。
ぽっかりと空いた天井から、明るい陽の光が零れ落ち、樹の色を反射して、碧く、美しく染めあがっている空間があった。
優しい風が葉を揺らし、樹が、森が、さざ波のような音をたてて、何かを語りかけてくる。
そして、黒く輝く石を囲むように咲く、一面の可憐な花々も、一緒に揺れる。
それを守るように、ひときわ大きくそびえ立つドナッドの大樹の根本には、どこまでも澄んだ、透明な泉が、ハルと、ウェサマーの姿を映して、光を放っていた。
泉に触れていたカイルは、一言。
「頃合か」
と呟いた。
ぬいぐるみ、海外の方が初めて見たふ〇っしーへの反応みたいなものが近いのかもしれません。