焔のごとく
ウェサマーが執務の合間を縫って、ハルのいる庭園に行くようになってから久しい。
この日もウェサマーは、足取りも軽く、庭園に踏み入った。
見渡してすぐに、体をひねってほぐしているエリックと、すぐ傍で草むしりをするハルを見つけた。ふたりは、ウェサマーには気付いていない。
遠目にも、ハルがにこにこと、楽しそうに仕事をしているのが分かる。自然、ウェサマーの顏にも笑顔が浮かんだ。
その時だった。
「おおう」
ハルが、何かに驚き体を仰け反らせた。拍子にバランスが崩れ、よろけてしまう。
ウェサマーが思わず駆けだそうとした視線の先で、しかし、傍にいたエリックが、「大丈夫?」と、ハルを支えてやっていた。声まではウェサマーに届いていなかったが。
彼がハルのやわらかい体に触れたとて、当然、下心など何もないだろう。
けれどそれを見たウェサマーは、足がその場に縫い付けられたかのように、動けなくなった。
エリックに体を預け、照れくさそうに頭をかくハル。口元が、「ありがとう」と返している。
とても可愛らしいのに。それを向けるのは、ウェサマーではない。
ウェサマーは、思わず、自分の胸をぎゅっと掴んだ。
いまさら。
本当にいまさら。ハルが、エリックに――誰に恋をしても、不思議ではないことに気がついた。
エリックがハルと会うのは仕事の為であって、彼にも、下心を感じないから許容していたが。
あまり会えないウェサマーよりも、ハルと長く過ごし、ウェサマー程に、身分差もない。エリックの方が、ハルとの距離はきっと、近いだろう。
信頼するヴェルグの孫で、真っ直ぐにウェサマーを慕ってくれるエリックを、ウェサマーもまた、好ましいと思っていた。だから、ハルが彼に笑顔を向けていて。いくら苦しくても、耐えていられた。
けれど、今の姿を見て思う。自分ではなく、ハルの、幸せを。
いつか、彼女も恋をするとしたら。それは、自分ではなく、エリックのように、近しい男だろうか。
その男は、今のように、彼女を支えてやるのだろうか。
体だけでなく、心までも。
そう、想像しただけで。鋭利なナイフがウェサマーの胸を何度も突き刺し、心臓がずきずきと悲鳴をあげた。
しかし、ウェサマーにとっての受難は、これだけではなかった。
エリックに助けられて、ハルが体を起こそうとすると。
びゅおおっ、と風が舞い、ハルが「ぎょわえええ」と雄叫びをあげながら、空に舞い上がった。
そして、そのまま落ちてくると。
どこからあらわれたのか。幽霊屋敷の調査を終えたカイルの腕の中に、ぽすん、と収まった。
「ハル……っ」
ウェサマーは、目の前の光景を見て、自身の身が焔に包まれるのを感じた。
頭を撫でてやる事しかできない。
どうしてだか、それ以上触れてはいけない気がして。
けれど、本当は。
いつだって、愛しくて、触れたくて、たまらない。
その彼女が今。
嘘か真か、彼女に恋焦がれているという男の胸に、横抱きにされていた。
ぎゅっとにぎり込むこぶしが、ぶるぶると震えている。
ウェサマーは、勢い良く焼かれていく理性の糸を総動員させて、その場に割って入るのを、ひたすら耐えた。
今入って行ったら、何を言い出すか自分でも分からなかったからだ。
カイルがハルにちょっかいを出すのは、今に始まった事ではない。
初めて会った日のように、口づけまではしないまでも。ウェサマーとはまるで正反対で、ことあるごとに、ハルにベタベタと触れようとする。
親しい者には素直に見せているが、ウェサマーは、感情を表情に出さない術を身に着けている。例え気に入らなくても、ただのイタズラにも見える今の行動までなら。せいぜい無表情になるくらいで、ここまで怒りを顕わにする事はなかっただろう。
しかし、ウェサマーが見ている事に、唯一人気付いていたカイルは。
まるで見せつけるように、ハルを抱き込み。一瞬、ウェサマーに向かって、口の端を上げたのだ。
明らかに、ウェサマーの気持ちを分かっていて、からかっている。
隠そうともせず、カイルの瞳に滲み出ている、愉悦。
それを見た瞬間、日ごろ燻らせていた胸の内の炎が、一気に燃え上がってしまった。
それは焔となってウェサマーの身をごうごうと焼き、いつか泉に映っていたように、ウェサマーの瞳を昏く濁らせた。
ハルが愛しい。誰にも、触れさせたくない。彼女に触れていいのは、自分だけだ。
そんな狂おしい想いが、ウェサマーの身を焦がす。
だが、擦り切れそうなくらいの、ほんの僅かに残っていた理性が、ウェサマーをその場から離れさせた。少しでも、冷静になる為に。
いつも人々の幸せを願ってきたウェサマー。彼にとって、自分の幸せだけを願う事は、心の根の部分が許さなかった。
彼女を、どこかに閉じ込めてしまいたい衝動にかられていたとしても。ハルの幸せを想っていた。
その根すら、じわじわと焼かれていっていたのだが。
去っていくウェサマーに、カイルはつまらなそうに鼻を鳴らし、ぽかん、と見ているエリックに向き直った。ハルに触れるな、と牽制しながら。
その美しい顏に、ハルの渾身のデコピンが炸裂するまで、あとわずか。