この青海に死すとも
静まり帰った海。このどこまでも広がる空には、星々が輝いていた。一橋凌平は伊潜の艦橋で夜空を見上げていた。束の間の休息。昼間は潜航を続け、日が沈んでから浮上航行し、電池を充電する。その繰り返しだ。しかし、一橋が伊潜に乗り込んでいるのは別の理由だった。
一橋の肩を叩く者がいた。一橋は肩を叩いた男の顔を見て顔を綻ばせた。
「何だ。間宮か」
「どうしたよ、凌平。浮かない顔して」
「いや、何でもないよ」
「そうか。それならいいんだ。だけん、あまりよくないことを考えるなよ」
間宮忠彦。一橋の海軍学校からの同期だった。彼もまた、一橋と同じ目的で伊潜に乗り込んでいた。
「俺達はこいつで鬼畜米英の艦艇を沈めてやるんだからな」
間宮は後部甲板に固定されているものを指さして言った。一橋は人間魚雷「回天」を見つめた。
「俺が一番に戦果を立ててやるからな、凌平」
間宮の目は輝いていた。一橋はそんな間宮の目を注視することができなかった。死をも恐れない間宮に、一橋は何も言うことができなかった。
(何故そんなにも気持ちを高められるのだろうか)
一橋は唇を噛んだ。
間宮は一通り言いたいことを言うと艦内へと戻っていった。一橋はそんな同期の背中を見つめることしか出来なかった。
(俺は、死にたくない…)
ふと頭に生への執着、死への恐れが浮かぶ。一橋はそれを必死で振り払った。
(何を馬鹿なことを。俺はお国のために死ねるんだ。お国のために死ぬんだ)
一橋はもう一度星空を見上げた。手を伸ばせば届きそうなほど、星は近くで輝いているようだった。この空を、平凡な日常の中で見ることができたらどんなに良いか。一橋は一日吸うことができなくなる新鮮な空気を肺一杯に取り込んだ。
*
海は時化ている。それは潜っていても分かる。一橋は兵員室の吊り下げ簡易ベッドに横になっていた。
「今日は随分と時化てるようじゃの」
ちょうど通路を通りかかった川内が一橋に声を掛けた。
「そうみたいだな」
「艦内にいてこれだけ分かるんだ、出たらもっとだぞ」
どこか悪戯な笑みを浮かべた川内はそのまま艦首の方へ歩いて行こうとしたが、それを一橋の手が遮った。
「川内は何で志願したんだ?」
「そんなん、お国のために決まっとるじゃろ」
「そう、だよな…」
「そう言うお前はどうなんじゃ」
「俺か?」
川内は黙って頷いた。
「俺もお国のために…」
「そうじゃろう、そうじゃろう」
川内は満面の笑みで一橋の胸をばしばし叩いた。自然と一橋の顔も綻んでいた。
「それでこそ男じゃ」
川内は笑いながら、今度こそ通路を艦首の方へ歩いて行った。
「お国のためか…」
一橋は寝返りをうって通路に背を向け、眼を閉じた。
*
作戦海域に進入。一橋は他の乗員が話す声を聞いて目を覚ました。艦内が先ほどよりも騒然としている。発令所の方から怒号が聞こえてきた。一橋は咄嗟に発令所に走っていた。
発令所は物々しい空気が漂っていた。一触即発といった緊張感。どうやら艦長と専任下士官の意見が衝突したと見えた。いつもであれば、艦長命令が絶対であるはずが、長い航海と長時間の潜航、極度の緊張から判断能力に異常をきたしたらしい。一橋にはそのように映った。
「艦長は腰抜けだ!」
専任下士官が叫んだ。その声が艦内に反響する。艦長は黙って下士官を見つめていた。
「お国のために何も出来ない腰抜けだ!」
下士官の目は見開かれ、息は荒い。不安定になっているとしか見受けられなかった。
「貴様なんて…」
下士官が三言目を発しようとしたところで、突然水雷長が下士官を殴った。
「貴様はどれだけ艦内を混乱させるつもりだ。この艦は艦長の艦だ」
下士官は思わぬところから飛んできた拳に、状況整理が追い付いていなかった。不可思議といった顔で水雷長の顔を凝視している。
「これ以上おかしなことを言ったらこの海に放り出す」
発令所は沈黙に支配されていた。乗員の視線は専任下士官と水雷長に注がれている。明らかに困惑した顔の乗員の方が多い。一橋もまたその中の一人だった。
「各自持ち場に戻れ!」
水雷長の発した怒号で各員は跳ねられたように動き出した。一橋も発令所を離れ、兵員室に戻った。
回天搭乗員は潜水艦内ですることは限られている。一橋は簡易ベッドに戻り、何をするでもなく横になっていた。胸ポケットから手帳を取り出し、あるページを開く。そこには一枚の写真が挟まっていた。椅子に座った女性と、その傍らに立つ詰襟を着た青年。つい数ヶ月前の自分。一橋はその写真をじっと見つめていた。脳裏に数ヶ月前の光景が浮かんでくる。
*
一橋の家の近くには、毎年美しく花を開く桜の木があった。山の中腹あたりにある開けた場所に、根を下ろしている桜の巨木。
一橋はその日、家からそこまで登ってきた。そこで待つ一人の人に会うために。
その人は桜の木のすぐ下で、開きかけた花たちを見上げていた。一橋はその姿に、声を掛けるのを憚られた。これが最後の時となることが分かっているだけに、この時間を止めたかった。
彼女はすぐに一橋が来ていることに気付いた。一橋の方を向くと、小さく頭を下げた。咄嗟に一橋も頭を下げた。頭を上げた女性は一橋のところへ走り寄って来た。女性と言っても、年は一橋とそう変わりない。しかし、その姿は“女性”そのものだった。
「申し訳ありません。呼び出したのは私の方なのに」
一橋は走り寄って来た女性に頭を下げた。
「大丈夫ですよ。私もついさっき来たばかりですから」
女性はそう言って一橋に微笑みかけた。
「そのかわり、一緒に行ってほしいところがあります」
「別に構いませんが」
「それじゃあ、行きましょうか」
そう言って女性は一橋が来た道を下りだした。一橋もそんな彼女の後を追った。
彼女が一橋を連れてきたのは写真館だった。外観はどこか歴史を感じるような、そんな荘厳なたたずまいの写真館だった。
「お写真を、あなたと撮りたいのですが、だめでしょうか」
彼女はそう言って一橋の顔を覗き込んだ。
「私は構いませんよ」
「それは良かった。では、入りましょうか」
その後、一橋と彼女は並んで写真を撮った。最初で最後の二人揃った写真。それを一枚ずつ持つことにした。
「これで、あなたが遠くへ行っても傍にいられますね」
彼女は嬉しそうで、それでいて少し悲しそうな顔で俯き加減に言った。
一瞬一橋は呆然とした。
「どうして…」
「すみません。あなたが出兵することは聞いていたので。きっと今日が最後になるだろうと」
「そう…、でしたか…」
「お国のためとは分かっています。だけど、一つ約束してください。必ず、生きて帰ってくると」
一橋は言葉が出なかった。何も言うことができず、ただ俯くしかなかった。
*
写真を呆然と見つめていた一橋は、川内に発令所へ連れて行かれた。発令所には一橋、川内、間宮が揃った。回天搭乗員である三人が集められた。一橋はすぐに何が始まるか分かった。艦長が並んだ三人の前に進み出た。
「敵艦を発見した。これより回天による攻撃を開始する」
艦長の声はどこか沈んでいた。しかしその声とは裏腹に、川内と間宮は歓喜に燃えた。
「やっとこの時が来たか!」
「鬼畜米英をあの世に送る時が来たんですね!」
その一方で一橋は何ともやり場のない気持ちになっていた。
(どうして、そんなに死に急ぐのか…)
「凌平、やっとこの時が来たぞ! 俺達も佐々木さんみたいに戦果を立てよう!」
佐々木とは、数日前に一橋たちの乗る艦から出撃した回天搭乗員だった。佐々木の攻撃は成功したと考えられていた。しかし実際にはその戦果は不明だった。何故なら、確認をする間もなく、敵の駆逐艦からの攻撃に曝されたからだった。しかし、乗員は佐々木の攻撃は絶対に成功したと言った。それが単なる望みであっても。
「お、おう」
「これより諸君等に出撃してもらいたい」
「了解!」
「敵艦を見事沈めてみせます!」
「りょ、了解」
その後、一橋をはじめとした回天搭乗員は身支度を済ませた。その際、一橋は一枚の便箋に少しばかり書置きをしていた。そこには一筆『我天子様の御国のためにその身散らさん。この青海に死すとも、天子様、御国のためにこの身を捧げん』と記されていた。
回天の中は、何度乗っても息苦しさを覚えた。ここが最期の場所になる。一橋はそんなことが頭から離れなかった。連絡用通路に注水され、じきに回天は海中を走り出した。簡素な潜望鏡からは、外の様子はほとんど見えない。せいぜい大きな船体のようなものが見て取れるほどだった。その船影の航行速度を割出し、未来予想位置に舵設定をし、後は走らせるしかなかった。当たれば爆発し、敵艦に損傷を与えることができる。上手くすれば、沈めることができるかもしれない。
回天が海中を走る間、一橋は今までの人生を回想していた。幼かった頃から、海軍学校での日々。そして、あの女性と過ごしたほんの少しの時間。彼女との約束のことが頭を離れなかった。
(俺は、約束を守れなかった)
一橋は狭い棺桶の中で、ただひたすら、彼女の無事を祈り、自分のこれまでを考えていた。戦争がなかったら、自分はどんな人生を送っていたのか。自分がこの世に生を受けた理由は何なのか。一橋は、答えのない問いを繰り返していた。その、考える行為そのものが出来なくなるまで。
*
日本が終戦を迎えたのは、一橋がこの世を去った五日後だった。彼の遺品は家族の元へと届けられたが、多くは残されていなかった。残っているのは使っていた着替えと、筆記用具ほどだった。使っていた手帳も、遺骨も残されてはいなかった。
また、一橋の戦果も不明のままである。付近を航行していた連合国軍船舶への被害は秘匿されているとともに、母船であった伊号潜水艦でもまた、一橋搭乗艇出撃後の情報は十分に収集されなかった。ただ『敵艦に大きな損害を与えた』ということ以外は、何も分からなかった。他の川内、間宮両艇の戦果も同様だった。彼らの最期は結局分からず仕舞いである。
そして残された一枚の便箋は、向かうべき者の元へと向かった。しかし、その者も既にこの世にはなかった。一橋の彼女、時子もまた、空襲にあい行方不明となり、後日瓦礫の中から発見された。遺体発見は一橋がこの世を去った、一日後のことであった。遺体発見時の時子は、一枚の写真を握りしめていたという。