抱きしめたのは
《風花》
あれから半年近く経ち、季節も秋になった。
放課後、私は登下校の為に毎日乗車している電車を途中下車して、病院へと向かった。
叔父さんの家から通える大学の付属高校に転校手続きをとって、編入試験にも無事に合格し、私の新しい生活は、新鮮味を失い、慣れ親しんだ物に変わろうとしている。
それでも、まだ。
夢見は、病院から退院出来ていない。
「あら、今日も来てくださったんですね。妹さん、きっと喜びますよ」
中年の優しそうな看護婦さんに、そう声をかけられた。
「今日は、学校帰りですか?」
制服のブレザーを見て、感心した顔になる看護婦さん。
この近辺では有数の名門校の制服だからだろう。
「はい、そうです」
「ああ、やっぱり偉いわ。とても妹さんを大切になさってるんですね。さすが、出来のいい人は違います」
好意でそう言ってくれているのだろうけど。
「……」
なんて返せばいいのかがわからなくて、小さく、会釈をした。
看護婦さんに背を向けて廊下を進み、辿り着いたエレベーターの三階ボタンを押す。
305号室。
夢見の病室。
状態が安定しても個室のままなのは、両親を一度に失い、自らの命も危険にさらされた夢見に対する、心のケアのひとつらしかった。
「……」
コンコン、とノックして、ガラリと扉を開ける。
夢見は、ベッドで上体だけを起こして、茜色の差し込む窓の外を眺めていた。
「……夢見」
声をかけると、夢見はゆっくりと振り返り、私の顔に視線を移した。
もともとは、伏し目がちで黒目がちな瞳を持った子だった。
だけど今は、右目だけが色を失い、白濁としている。
頭を強打した影響で、夢見は右目の視力を失った。
「なにしてたの?」
問いかけながら扉を閉めてベッドの傍に寄り、椅子に腰かける。
「退屈だった? ……だったよね」
なにせ、一人では散歩をすることすら困難なのだから。
手を伸ばし、布団越しに夢見の足に触れた。
すると夢見は、動かない足の代わりに、ビクッと肩を震わせる。
夢見の足には麻痺が残り、もう思い通りに動かすことが出来ない。
リハビリをしても、効果はほとんど期待できないらしい。
「暇つぶしに、なにかいい物があればいいんだけど」
片目だけでは、読書をし続けるのにも限度があるし、テレビだって、日中ずっと面白い番組はやっていないだろう。
「とりあえず、これ」
鞄からお土産を取り出して手渡す。
小説が三冊と、漫画を二冊。
「……あ、あ……り」
受け取った夢見は、唇を開き、懸命に言葉を紡ごうとするけれど、それは叶わなかった。
失語症と違って、言葉を忘れてしまっているわけではない。
上手く、話せなくなってしまっただけだ。
だから、私には夢見が言いたかったであろう言葉が、きちんと理解出来たのだけど。
だからこそ、なんて返せばいいのかがわからなくなってしまった。
「……」
私はその日、ただ俯いて、面会終了時間まで椅子に腰かけたまま、じっとしていた。
夢見も、ほとんど物音ひとつたてなかったけど。
時折、こちらに視線を向けているのが、気配でわかった。
小学生の頃。
こたつで、みかんを食べていた。
父さんの膝には夢見が座っていて、私はその正面に座っている。
母さんは洗い物をしていて、居間には三人だけだった。
「あ、これで最後だな」
籠の中のみかんは、あと一つ。
父さんはそれを手に取ると、私の前に置いた。
「これは風花が食べなさい」
嬉しかった。
みかんを食べられることではなくて、最後の一つを私にくれるという、その行為が、私のことを思ってくれているという証のような気がして。
大袈裟かもしれないけど、本当に嬉しかった。
「あ、ありが……」
その気持ちのまま、お礼を言おうとした。
だけど、
「夢見」
父さんは、私の方は向いていなくて、話も、聞こうとはしていなくて。
「お前は、父さんのを半分こにしような。」
そう言ってみかんを剥いて、夢見に食べさせてあげていた。
私は、それが。
どうしようもないほど、羨ましかった。
だけど、そんなことは日常茶飯事で。
そのたび、私は胸が痛くて。
夢見になりたいと、思った。
だからある時、わざとテストで悪い点をとった。
これを見たら、父さんも母さんも、私を自分達と違う、なんて思わない。
夢見みたいに頭を撫でてもらえると、そう考えると、期待で鼓動が速くなり、顔には笑みが浮かぶ。
最低の点数がつけられた答案用紙を、宝物のように胸に抱いて、私は家路を急いだ。
だけど。
私のその行動は。
「なんだ、これは……」
父さんを、ひどく傷付けた。
「馬鹿にするなっ!」
父さんは、答案用紙をビリビリと引き裂いて床に叩きつけた。
父さんに怒鳴られたのは、それが最初で最後だった。
母さんは、消極的にではあるけれど父さんをなだめてくれて。
でも、なんでこんなことをしたのかと、私に聞こうとはしなかった。
夢見は。
部屋の隅で、なにも言わずに、こちらを見詰めていて。
私と視線が合うと、逸らした。
電車の中。
居眠りをしていたらしい。
目を覚ますと、嫌な汗をびっしょりとかいていた。
病院に寄る為に降りる駅は、とっくにすぎている。
頭を抱えて、溜息をついた。
ズキズキと、頭蓋骨の奥から痛みが押し寄せる。
「夢見……」
今は、顔を見たくないと……見ることが出来ないと、そう思った。
だから、病院には寄らず、叔父さんの家にまっすぐ帰ることにした。
家に帰って、シャワーを浴びた。
髪を乾かし、服を着替えて、宿題をする。
宿題をし終えると、予習復習。
優秀だから、という理由で引き取ってもらえたのなら、優秀でなければ必要ないということだ。
成績を落とすわけにはいかない。
もっとも、そんなことなどまずないと断言出来るけれど。
私は、父さんや母さんと違って、優秀だから。
「……はあ」
溜息。
本日何度目だろうか。
どうやら、電車の中での私の判断は、間違いだったらしい。
――……夢見は今頃、どうしているのだろう。
時計を見る。
病院の面会終了時間は八時だから、急げばまだ間に合う。
「……しかたない、か」
このままでは、気になって今夜は眠れそうにもない。
私は財布と携帯を鞄に突っ込み、スニーカーを引っかけると、家を後にした。
「……ついてない」
電車を降りると、雨が降っていた。
小降りなんて物じゃない。
結構な量だった。
傘を買おうかと、売店に目をやる。
同じことを考えた人達で、列が出来ていた。
「……」
売店に背を向け、歩き出す。
何故だか、そうしなければならない気がした。
雨が体を叩くのが、急げと急かす手のようで。
私は、歩調を速め、ついには走り出し、病院へと急いだ。
病院に着く頃には、私は全身ずぶ濡れだった。
見かねた受付の看護婦さんが、タオルを持ってきてくれた。
お礼を言い、頭と体を拭く。上着は乾かしておいてくれるとのことだったので預けた。
その間も、気持ちは急いていた。
病院内を走るわけにはいかないから、大股の急ぎ足で病室へと向かう。
やっと辿り着いた扉の前。
深呼吸をして、いつも通りノックをしようと、軽く拳を握り、腕を持ち上げる。
だけど、
どさっ!
と、中から大きな音が聞こえたので、驚きに一瞬動きを止めてしまった後、急いで扉を開けた。
「夢見ッ!」
夢見が、ベッドから落ちてうつぶせに倒れていた。
「なにやってるの!」
急いで駆け寄り、抱き起こす。
頭から、血の気がひいていくのがわかった。
もし、打ち所が悪かったら、どうしよう。
夢見まで。
夢見にまで、おいていかれたら――……。
「お……ね……」
夢見と、目が合う。
白濁した右目と、黒目がちな左目は、潤んでいた。
「ぉね……ちゃ」
夢見が、上手く言葉にならない声で、私を呼んだ。
「なに、ゆめ……ッ」
夢見は私の腕を、弱い力で、それでも今出せる精一杯の力なのだろうと、そうわかる力で、縋り付くように握り締めて。
ボロボロと、涙をこぼした。
私は、夢見が泣いているところを、はじめて見た。
「……か……ぃで」
真っ赤に染まった頬を、くしゃくしゃに歪めて。
もう中学生なのだけど、もっと幼い、子供のように。
「お、ってか、で!」
なにを。
なにを言っているのか、すぐにわかった。
『おいていかないで』
あの日の。
「……ッ!」
あの日の自分の姿が、重なった。
次の瞬間、私は、思いきり夢見を抱きしめていた。
「……おいていかない」
細い肩と、華奢な背中に腕をまわして、力の限り。
「おいていったり、しない!」
声が震える。
視界が滲む。
だから、目を閉じた。
今は。
「おいてなんか、いかないから……」
この温もり以外、いらない。
「傍にいて」
後になって、考える。
この時私が抱きしめたのは。
夢見じゃなくて、私自身だった。