取り残された姉と、死に損なった妹
《風花》
授業は淡々と進み、昼休憩の教室。
いつも通り私の周りには数人のクラスメイトの女子達が集まって弁当や購買で買ってきたパンなどを口にしている。
「体育の長距離、めんどかったねー」
「マジ疲れたー。んなもん体力有り余ってる男子だけ走らせとけよってかんじじゃない?」
「ねー、余計なもんも発散出来てちょうどよさそーだし」
そんなお世辞にも上品とは言えない話で笑っている。
正直こういった雰囲気は好きではないけど、郷に入っては郷に従えとも言うし、仕方がない。
「でも相変わらず風花はすごかったよねー」
話が自分に飛んできたのでサンドイッチに向けていた顔をあげる。
「全然平気そうな顔して走ってんのに陸上部の奴等よりもタイムよかったもんねー」
三時間目の体育の長距離走、私はクラスメイトの中で陸上部所属の女子三人を抜かしてトップのタイムを記録していた。
「まあ、運動は苦手じゃないし」
そう返すと、苦手なもんなんてあるの? と言われた。
正直、世間一般的なことで思い至る物はなかった。
「あの、季咲さん」
声をかけられて首だけで振り向くと、名字で呼んでくることからもわかる通りあまり親しくないクラスメイトが三人立っていた。
「ちょっといいかな?」
遠慮がちに声をかけられたので、なるべく優しく聞こえるように、なに? と返事をすると、先程数学の時間に前回の小テストの成績が悪かった生徒に配られたプリントを目の前に差し出された。
「どうしてもわからない問題があって……次回までに全問埋めて提出しないといけないし、間違ってたら再提出になっちゃうから」
「季咲さん頭いいし、教えてくれないかな、って」
こういうことは、たまにある。
そのたび少し、困ってしまう。
「ごめん、私人に教えるの苦手なんだ。答えは教えられるけど、解き方は教えられない」
私は人に物を教えるのが下手だ。
まず、どこがわからないのか、なにがわからないのかがわからない。
自分自身は家族関係以外では、一度たりともなにかに躓いたことがないからだ。
嫌な奴だと思われやしないかと思ったが、聞きに来た三人はすぐに納得してくれて、それなら自分達でもう少し悩んでみるからどうしようもなくなったらよろしく、と笑って去っていった。
「おー? 季咲、またサンドイッチ? たまには弁当とか持ってこいよ」
新たに声をかけられ顔を向ければ、そこには背の高い男子が一人両手におにぎりを持って立っていた。
ブレザーの代わりにパーカーを着ていて、髪をワックスでツンツンにたてている、明らかに校則違反の格好をしたその男子は、私に最近やたらと声をかけてくる。
確か、名前は和泉涼。
このクラスのムードメーカー的な存在で、いつも笑っているという印象が強い。
「そんなんじゃ、腹へらねえ? 俺のおにぎり一個やるよ。母ちゃんが作ったんだけど、塩ききすぎててちょっとしょっぱい分、具沢山だぜ! ちなみに、今日は牛肉のみぞれ煮が入っております」
冗談めかしてそう言いながら、右手のおにぎりを差し出してくる。
大きなおにぎりで、普通にコンビニなどで売っている物と比べて二周りほど大きい。
「ごめん、いらない。そんなに食べられないし」
私がそう言って断わったせいで周りからやーいフラれたーなどとからかいの言葉を浴びせられた彼は、わーんなぐさめてーなんて大袈裟な口調で返しつつ、近くにいた男子の胸に飛び込んでいって場を盛り上げていた。
悩みがなさそうで羨ましい。
放課後。
担任の教師に頼まれ社会科資料室の整理を手伝っていたらいつもよりかなり帰るのが遅くなってしまった。
一人で帰ろうと校門を出ようとしたところで声をかけられた。
「季咲! お前も今から帰んの?」
走って来たのは昼休憩にも声をかけてきた和泉くん。
「うん、和泉くんも?」
「おー、いつもはもうちょっと帰るの遅いんだけど、今日部活が早く終わってさ。まっすぐ帰って、実家の手伝いでもしてやろうかと思って」
「実家、なにかやってるの?」
「うん、寿司屋! けっこう老舗なんだぜ」
ということは寿司屋の跡取り息子か。
彼が寿司を握っている様が頭に浮かぶ。
よく似合いそうだ。
「途中まで一緒に帰らねぇ?」
断る理由は、特にない。
「べつにいいよ」
人気者の彼との間に角が立つのもよろしくないし、受け入れるのが無難だろう。
そういった理由で了承したのだけど、和泉くんは嬉しそうに笑って私の隣を歩き出した。
歩いている間中、和泉くんは喋っている。
部活のこと、友達のこと、家族のこと。
ひとつひとつ、とても楽しそうに。
――……犬みたいだな。
私の妹は警戒心の強い怯えた子猫のようだけど、和泉くんは人懐っこい大型犬みたいだ。
私はそんなことを考えながら、和泉くんの話を半分上の空で聞いていた。
正直私には、和泉くんの話は眩しすぎた。
和泉くんは笑いながら、幸せそうに語る。
それは、彼がみんなを大好きで、みんなも彼を大好きだからだ。
私はそのことにどうしても嫉妬してしまうし、虚しくもなる。
私は家族を愛そうとしているけど上手く愛することが出来なくて。
家族は私を、愛してはくれない。
その延長のように私は他人と深く関わることが出来なくなってしまった。
嫌われたくないから、優しさを装うくせに。
ふいに向けられる好意には怯える。
失われるいつかを想うと、怖ろしくてたまらないからだ。
悪循環は続いていて、断ち切るすべもわからない。
やがて和泉くんは自分のことをあらかた話し終えたのか、今度は私に問い掛けてきた。
「季咲はさ、なんでうちの高校に入ったんだ? お前頭いいんだから、もっとずっといいとこ行けたろ?」
今まで何度か他の人間にもされた質問だった。
そのたび適当にごまかしてきた質問でもある。
だけど今日は、朝から色々なことがあったからだろうか。
なんとなく、素直に話してしまってもいいようなそんな気がして、私は正直に話すことにした。
「うち、貧乏だから」
「え?」
「父さん、不器用な人で。仕事よくクビになる上に人にも騙され安くて。学費が安くて家から近い分通学費もかからない高校、ってことでうち以外に選択肢がなかった」
和泉くんは無言で、明らかに困った顔をしていて、しばらくしてからそうなんだ、と一言口にした。
だけどそれから少したつと復活して、また元気に話しはじめた。
いい人だな、と思った。
和泉くんは一言も私に謝ろうとはしないし、深く突っ込んで聞き出そうともしない。
ただ、楽しそうに話し続ける。
本当の気遣いの出来る、優しい人なのだろう。
そうして歩いていると曲がり角に差し掛かり、曲がった先にはよく知る人の姿を見つけた。
前方十数メートル先。
そこには、四人の女の子に囲まれ、鞄持ちをさせられている私の妹――夢見がいた。
「どうした、季咲?」
声を掛けてくる和泉くんに返事を返す余裕はなかった。
夢見達をじっと見詰める。
夢見も夢見を囲んでいる少女達もまだ私が見ていることに気が付いていない。
夢見を囲んでいる少女達は、夢見が着ている物と同じ、去年まで私も通っていた中学校の制服を着ている。
クラスメイトなのだろうか。
友好的な雰囲気は一切感じられないけれど。
私が見ている前で、夢見は肩を突き飛ばされた。
「きゃっ!」
建物の壁で背中を打ち、か細い悲鳴を上げる夢見。
先程も思ったが、やはり夢見は怯えた子猫のようだった。
伏し目がちで黒目がちな瞳はどちらかといえば子犬のようでもあるけど、いつだって通りの悪い小さな声と、細すぎるくらい細い小さな体は、子犬の丸っこさよりも子猫の頼りなさを連想させる。
実際、今夢見を囲んでいる同級生と思しき少女達と比べても頭一つ分は背が小さい。
そんな夢見を見下ろして、少女達は嘲笑った。
「だめじゃん、鞄落としたらー」
「あんた、鞄もまともに持てないのー?」
どうやら、持たされていた鞄を夢見が落としたらしい。
無理もない。
見た目同様力のない夢見の細い腕は、今も自分の分をあわせて五つの鞄の重さに耐え切れず、小刻みに震えているのが遠目にもわかった。
「イジメ、だな。どうみても」
隣で、苦々しげに和泉くんが呟いた。
ああ、そうだろう。
どこからどうみても、夢見はイジメられている。
そしてそれは、はじめてのことでもない。
夢見は昔から、よくイジメられていた。
あの子は自分からその事実を誰かに言うことはなかったけれど、私はそれを知っていた。
そして、
「ホントにどんくさいよねー、あんた。いいとこ全部、姉ちゃんに持ってかれちゃったんでしょ?」
その理由も。
「先生達、いまだに卒業したあんたの姉ちゃん褒めまくってるもんねー」
「きっとあんたは残りカスから生まれたんだよ!」
「あははははっ!」
夢見は、息を詰まらせて。
苦しそうな、でもどこか諦めたような顔をして俯いた。
私のせい、なんだ。
夢見がイジメられるのは。
背筋が震えて、てのひらに汗をかいた。
今すぐ、ここから逃げ出したい。
「……なあ、もしかして」
和泉くんが、小さな声で問いかけてきた。
「あのイジメられてる子、季咲の妹か?」
私はそれに返事が出来なかった。
だけど、和泉くんは無言を肯定ととったらしかった。
「俺が助けにいこうか?」
続けられた言葉は紛れもない彼の好意で、有り難いことだとは思ったけれど。
その言葉に頼り、彼に任せてしまったら、自分は最低な人間になってしまうような、そんな気がして。
私は一歩、踏み出した。
「やめて」
彼女達に近付き、強い口調でそう言った。
全員の視線がいっせいにこちらに向き、夢見の目が大きく見開かれる。
「は? あんただれ?」
少女達の中でも一際気の強そうな子が怪訝そうな目をして問いかけてきた。
「さっき貴女達が言ってた、その子の姉」
そう返してやると、みんな驚いた顔をして少し後退る。
「人の妹に、なにしてるの」
目を細めながら言葉を続けると、ごまかすように笑いながら少女の一人が言った。
「や、やだなあ。ちょっと遊んでただけじゃないですかー」
ざわり、と。
心がざわついた。
「どうみても、そんなふうには見えなかったけど?」
眉間にシワが寄るのがわかる。
きっと今、私はとてもひどい顔をしている。
「ほんとですってー。ね、夢見っ」
少女達に同意を求められた夢見は、無言で俯いていて、顔をあげようとしなかった。
その態度にいらついたのか、先程の一番気の強そうな子が「ちょっと、夢見!」と大きな声を上げ、
私の中で、なにかがブチリと音をたてて切れた。
「いい加減にして!」
久しぶりにこんなに大きな声を出したかもしれない。
場が、シーンと静まりかえった。
「さっき、貴女達も言ってたよね」
私は、声を低くして、ゆっくりと言った。
「私は、卒業してからも先生達に気に入られてる。なんなら、直接学校に行って私の口からこのことを先生達に話したっていい」
見るからに少女達は動揺して、目を見開いた。
「それが嫌なら」
私は手を伸ばし、少女達の間から夢見の腕を掴んで引き寄せた。
その拍子に夢見は自分の鞄と持たされていた少女達の鞄を全て地面に落とした。
私の手が触れた途端固くなる夢見の体。
その事実に鈍く胸が痛むのを無視して夢見を自分の背中に庇い、少女達に最後通告を伝えた。
「今後一切、夢見に手を出さないで」
少女達は悔しそうな顔の中に怯えを混じらせながら私の言葉に了承して、それぞれの鞄を拾うと連れだって帰って行った。
「……大丈夫?」
怯えさせないように気をつけながら夢見に問いかけると、視線はあわせてもらえなかったけど小さくうなずいてくれた。
「……おつかれー」
そこで、少し離れた場所でことの成り行きを見ていた和泉くんが近寄ってきた。
和泉くんは地面に落ちたままになっていた夢見の鞄を拾いあげると汚れをはらってから夢見に手渡そうとした。
夢見はまた怯えて萎縮し、受け取ろうとはしない。
「ごめんね、和泉くん。この子人見知りが激しいから」
私が謝ると、和泉くんは苦笑いを浮かべて「そうみたいだな」と言い、夢見の鞄を私に手渡した。
「んじゃ、俺は先に帰るわ」
「うん、ごめんね」
「いいっていいって!」
そんじゃまたなー、と和泉くんは笑いながら手をふって、小走りに駆け出した。
夢見と一緒に家路を歩く。
「……」
「……」
お互い口を開かず、無言。
なにを話せばいいのかわからないし、なにも話さないほうがいい気もした。
私がなにを口にしても夢見は縮こまるだけだろうし、先程のことを謝っても多分喜びもしない。
夢見が今なにを考えているのかちっともわからないから、正直怖いというのもある。
歩き続けるうち、ふと思う。
こうやって二人で歩くのは、いつぶりだろう。
考えるうち、もうずいぶんと昔、確か私が小学校中学年で、夢見が小学校低学年だった時のことを思い出した。
小学校の帰り。
電柱の影にぽつんと夢見が立っていた。
お世辞にも仲がいいとは言えない妹だが、私の妹だ。
無視をして帰る気にはなれず、その小さな背中に声をかけた。
「夢見?」
振り返った夢見は、途方にくれたような顔をしていて。
その腕には、真っ白い小さな子猫。
足元には、段ボール箱が置いてあった。
「捨て猫?」
夢見は、こくりとうなずいた。
「……これに、入ってたの」
夢見は物心ついた頃から滅多に自発的な意思表示を行なわない子で、話しかけてもうなずきが返ってくるだけでマシなほうだったのに、小さな声で途切れ途切れに話しはじめた。
私は夢見が言うことをなにひとつ聞き逃さないように、じいっと耳を澄ませる。
一声発するだけでも夢見にとっては大変なことなのだと、それくらいは理解していたからだ。
「お家に帰ろうと思って歩いてたんだけど、にゃーにゃーって、聞こえたから、見てみたら、この子がここにはいってて」
夢見の腕の中で、猫が一声鳴いた。
にゃーというよりも、みゃーという感じだなあと、そんなことを頭の隅で考えた。
まあ、にゃーでもみゃーでもとても可愛いことに変わりはないが。
問題はそこではなくて。
「……どうしよう」
困りきった夢見の言葉に。
「……どうしようか」
私は溜息をつきながら、子猫の小さな頭を撫でた。
段ボールに戻せなどとは言えないけど、母さんはあまり動物が好きではないし……うちの家に経済的余裕がないこともとっくに知っていたから飼うことを許してくれるとも思えなかった。
もう投げ出して帰りたくなってくる。
だけど。
夢見に頼られたのは、はじめてのことだったから。
なんとかしてあげたいとも思った。
「……とりあえず、うちに連れて帰ろう。一応飼えるか聞いて、断られたら今日だけうちにおいてもらえるようにお願いして、明日はちょうど休みなんだから一日使って一緒に貰い手を探そうよ」
私がそう提案すると、夢見は一拍おいてから、こくりとうなずいた。
私と夢見と子猫で家に帰ると、母さんは感情に乏しい顔をほんの少し歪めてどうしたの? と問いかけてきた。
私が事情を説明するとやはり飼うことは出来ないと断られた。
一晩家におくことさへ断られそうになっているところに父さんが帰ってきて、一晩だけならいいだろうと説得してくれた。
その晩夢見はずっと子猫を構っていて、私はそれが面白くなくて、明日には誰かにあげちゃうんだから、あんまり可愛がると離れられなくなっちゃうよ、なんて意地の悪いことを言った。
それに対して、夢見はわずかに目を細めて。
「……うん、わかってるよ。でも、だから」
「だから?」
「今ね、一緒にいるうちに。忘れないように、忘れられないように」
さみしいから、ね、と。
最後に夢見は呟いた。
さみしくなるのがいやだから、私は深く関わらないようにしていたのだけど、どうやら夢見は違うらしい。
さみしくなってしまわないようにしようとしているらしい。
やはり、私達は似ていないのだと思った。
翌日。
朝食を食べてすぐに私と夢見は子猫の貰い手を探すことにした。
まずは連絡網を使い、私と夢見のクラスメートにしらみつぶしに電話をかけて子猫を引き取ってくれないかと頼んだ。
もちろん夢見にそんなこと出来るはずもないので夢見のクラスメートにも私が掛け合った。
しかし結果は見事に全滅で、昼食を食べてからは直に足で貰い手を探しに出かけた。
ご近所中を訪ね歩き交渉し続ける私の後ろを、子猫を抱っこした夢見が静かについてくる。
たまに呑気にあくびをかます子猫が私は少し憎たらしくなって、子猫の額にデコピンをしたりした。
もちろん痛くないようにはしていたから子猫はさして気にもしていないようだったけど、そのたびに夢見は子猫の額を優しく撫でていた。
それを見て私は、可愛いなあ、と思った。
子猫もそうだけど。
夢見のことを、妹のことを、可愛いなあ、と思った。
口には出さなかったけど、そう思った。
夕方。
空が茜色に染まるまで歩き続けたのに貰い手を見つけることが出来ず、私と夢見は子猫を連れたまま疲れきった足を引きずりながら家路につこうとしていた。
このままでは、本当にあの段ボールに戻してくるしかない。
「……なんとか、もう一晩だけうちにおいて貰えるように頼もう。明日、学校まで連れていって、無理矢理にでも先生達にお願いして協力してもらえたら、飼い主だってみつかるかもしれないし」
私がそう言ったのは、子猫のためではなくて、夢見のためだった。
「……うん」
小さく返ってきた返事に、拳を握り締める。
今晩家に帰ってからも大変だろうし、明日だって大変だろうけど。
頑張ろう、と思った。
――……思っていたのに。
「あッ!」
夢見の腕から、子猫が跳び出した。
結局のところ。
私もただの子供だったのだ。
一日中、夢見に子猫を抱かせていた。
小学校低学年の女の子。
しかも、同じ年の子供達と比べても一際小さく、力も体力もない夢見にとっては、軽い子猫とはいっても一日中抱いていることは相当な負担だった。
私は、それに気付かなかった。
夢見は私になにも言わなかったけれど、それは理由にならない。
理由にしてはいけない。
何故なら、私は夢見の姉なのだから。
気付いてあげなければならなかった。
力の抜けていた夢見の腕から跳び出した子猫は、車道に真っ直ぐに走って行って。
「待って……っ!」
必死の夢見の声と指先も届かず。
最悪のタイミングで角を曲がって現れた車に轢かれて、グシャグシャになった。
夜。
陽も落ちて真っ暗になった公園に私と夢見はいた。
門限なんてとっくにすぎていたけれど、それがどうした、といった気分だった。
私は、公園の隅っこの草むらの土を石やら木やらで掘り起こしていた。
手も使った。
爪の間に土がびっしりと詰まっても気にしなかった。
汗が噴いて止まらなくて、土だらけの手で拭っているからきっと顔も泥だらけなのだろうけど、それだって気にならなかった。
ただ、掘り続けた。
掘れるだけ掘って、十分すぎる穴を掘り終えてから、私は背後を振り返った。
そこには、グシャグシャになった子猫を抱いた夢見が立っている。
子猫を抱いている両腕も服も血だらけで、スプラッタ映画みたいだった。
「夢見」
声をかけると、夢見は子猫の死体をゆっくりと穴に降ろした。
その後、二人で土をかけて埋めた。
埋め終わったら、その辺に生えていた花をつんできて供えた。
夢見は、泣かなかった。
目を潤ませてはいたけれど、一滴の涙も、こぼさなかった。
そこで気付いた。
夢見はいつもおどおどしているけれど、私は夢見の泣いているところは見たことがないことに。
だから。
私も、泣くことが出来なかった。
回想を終える頃、家に辿り着いた。
考え事をしていても、慣れた道というのは自然と歩けるものだ。
引き戸を開けてただいまと言いながら家に入ったけど、おかえりの言葉は返ってこなかった。
どうやら父さんはいないみたいだと私は思った。
母さんはいても返事をしてくれない。
夢見は無言で私の後に続き、玄関をあがった。
居間の前を通る時、私は驚いて立ち止まった。
何故なら、いないと思っていた父さんがいたからだ。
父さんは、私に対して愛情は持っていないけど、自分が親だという自覚はちゃんとある。
だから、おはようと言えばおはようと返してくれるし、ただいまと言えばおかえりと返してくれるのだ。
少なくとも、今まではそうだった。
不安になって、私は父さんに声をかけた。
「父さん!」
すると、父さんは俯けていた顔をはっとあげて私のほうを見た。
「……あ、ああ、帰ったのか。おかえり」
今気付いた、といったふうだった。
私はその様子に無視をされたわけではないのだと安堵しながらも、言いしれない不安のようなものも感じた。
「……うん、ただいま。母さんは?」
「ああ、買い物に行ってる。もうじき戻ると思う」
「……そっか」
だけど、結局確証のないそれを口にすることはなく。
私は先に自室に行った夢見にならうように自分の部屋に帰ると部屋着に着替え、夕飯の時間まで絵を描くことにした。
絵を描くのも一段落つき、時計を確認すると時間だったので居間に行くことにした。
私の家では食事が出来たことを伝えにくるものはいないけど、夕食はだいたい夜の七時半から食べることに決まっているのでその前には居間に集まる。
居間についてちゃぶ台の上を見た私は少し驚いて言った。
「なんか、今日の夕飯豪華だね」
経済状況の切迫している私の家では食生活はあまり豊かとは言えないのだけと、ちゃぶ台の上にはところせましとご馳走が並べられていた。
先に自分の定位置に腰を落ち着けていた父さんは小さく笑って、たまにはな、と返した。
父さんのそんな様子も珍しい。
そうこうしているうちに夢見が居間に入ってきて、私と同じように驚いていた。
私と違ってなにも言わなかったけど。
台所から母さんがさらにもう一品持ってきて、食事がはじまった。
美味しくて、よく食が進んだ。
一番に食べ終わり、ごちそうさま、と言って腰をあげようとすると、視界がぐらりと傾いた。
「え……?」
畳に転がる。
体が重くて、上手く動かせない。
意識が遠退いてゆく。
――……これは睡魔だ。
目の前で、まだ食べている途中だった夢見も私と同じ状態に陥っているのを見て、睡眠薬を盛られたのだ、と気が付いた。
この家には、私と、夢見と、父さんと、母さんしかいない。
夕食を作ったのは、母さんだ。
「ど……して」
なんで、こんなこと。
「すまない」
投げかけられた、謝罪の言葉。
思い通りにならない体に鞭を打って、顔をあげる。
息を呑んだ。
父さんが、泣きそうな顔で、微笑んでいた。
低い声を震わせながら、私に謝る。
「すまない、風花」
母さんが、いつも通りの感情に乏しい顔にほんの少しだけ悲しみを滲ませて続いた。
「……ごめんね」
どうして。
どうして、二人して、そんな目で。
「俺達は、もう駄目なんだ。でも、お前は」
「貴女は、私達とは、違うから」
なにが、違うというんだ。
鼻の頭が、ツンとした。
昔から、そうだ。
確かに、私は勉強が出来る。
運動も出来る。
なにをやらされても、どんなことでも、人並み以上にこなせる。
だけど。
だからって。
なんでいつも、私だけ――……ッ!
「じゃあな、風花」
父さんが、夢見を肩に担いで連れて行く。
「さようなら」
母さんが、私に背を向けて二人の後を追う。
私だけ、
「……てか、ないで」
私だけを、残して。
「おいていかないで!」
玄関の引き戸がガラガラと音をたてて開き、閉まる。
頬を伝う雫の温もりは孤独を心にしみこませて、私を完全に独りにする。
絶望と共に、世界が暗転。
意識は闇に沈んだ。
私は、届かなかった言葉と気持ちを抱きしめて、死のような眠りに、堕ちた。
目が覚めた時、私の周りには叔父夫妻と警察の人達がいた。
夢見と母さんを乗せて父さんが運転する車は、大型トラックに追突したらしい。
人生を悲観しての、一家心中。
私と夢見には知らされていなかったことだが、父さんはまた仕事先をクビになっていて、うちの家には借金もあったらしく、家も土地もすでに抵当に入っているそうだ。
どうしようもない状態で、父さんは仲の悪い叔父さんにまで頭を下げに行っていたらしい。
そう、父さんと叔父さんは、仲が悪かった。
それというのも、出来が違いすぎた。
父さんの実家は、みんな出来がいい。
医者だとか、弁護士だとか、世間一般で言うところの、勝ち組だ。
それがどうしてだか、父さんだけ、高校受験も大学受験も失敗。
どこに行ってもなにをやっても上手くいかず、職を転々とするうちに母さんと知り合った。
母さんはコミュニケーション能力が乏しくて、友人さえまともに作れない人だったけど、だからこそ、父さんは母さんを自分の伴侶にすることが出来た。
自分と比べて、劣等感を抱かなくてもすむから。
夢見は、まさしく、そんな二人の間に生まれた子だった。
それが。
どうしてだか、私だけ。
嫌われていたわけではない。
蔑ろにされていたわけでもない。
ただ、一つだけ余分な、形のあわないパズルのピースみたいに。
私だけ、家族という物の枠から、浮いていた。
「みんな、死んでしまったんですか……」
俯く。
涙も出やしない。
おいていかれた。
私だけ、
私だけ、
また、私だけ。
「いいや、みんなじゃない」
叔父さんの言葉に、顔をあげる。
「え……?」
常に眉間にシワを寄せたきびしげな顔に浮かぶ、苦い表情。
「頭を強打していて、いまだに意識が戻っていないし、目が覚めたとしても、体にはなんらかの後遺症が残る怖れが強いらしいが……」
その続きは、聞きたいのか、聞きたくないのか、よくわからなかった。
ただ、耳をふさぐことは出来なくて、私は叔父さんのぶあつい唇を見詰めていた。
その唇が動いて、続きの言葉を、紡ぎ出した。
「夢見は、生きている」
白い部屋。
病室。
個室だから、ベッドは一つ。
横たわっているのは、夢見。
私の、妹。
「……ボロボロだ」
全身包帯だらけで、もとから白い肌は、さらに白さを増していて。
固く閉じられた瞳は、二度と開かれることがないように思える。
父さんと母さんに、そっくりだ。
死体安置室で見た、もう二度と目覚めることのない、父さんと、母さんに。
「……叔父さんが、さ」
ベッドの隣にある粗末な椅子に腰かけて、小さな声で、話し出す。
病室には、私と夢見しかいない。
意識のない夢見に、私の話が聞けるはずもない。
だから、私の唇から紡ぎ出される言葉は、誰に届くこともなく。
「私のこと、養女にしたい、って」
誰に届くこともなく。
響きもせずに、空気に溶ける。
ああ、でも。
きっと、それは。
いつも通りのことなんだ。
私の言葉は、一度だって。
「叔父さん達、子供いないから。『あいつと違ってお前は優秀だから、ちょうどいい』って」
私の気持ちは、一度だって。
「……なにが、ちょうどいい、だ」
誰にも、届かなかった。
「あいつと違って、とか、言うなよ……ッ!」
頭を抱えて、背中を丸めて。
ぎゅっ、と瞳を閉じれば、そこは暗闇。
なんにもない、闇だ。
「……夢見は? って、聞いた」
闇は落ち着く。
この世に自分一人きりみたいで。
闇は恐ろしい。
この世に自分独りきりみたいで。
だから、瞼を持ち上げ、瞳を開いた。
「……っ!」
目が、あった。
右目からは色が失せ、左目もまだ、半分閉じたような状態だったけれど。
それでも、確かに。
夢見は目を覚まして、私を。
私だけを、見ていた。
「お前が望むなら、夢見も引き取っていい、って」
ああ。
口角が、つりあがるのがわかる。
いびつに。
眉間が、妙に、熱い。
「ねえ、夢見」
手を伸ばす。
夢見の頬にそえる。
夢見は、拒まなかった。
拒めないのだろう。
だって、もう。
私しかいない。
「私が、傍にいてあげる」
一人じゃ貴女は、生きていけないでしょう?
私が、必要でしょう?
ねえ?
いるよね、私が。
夢見は、なにも言わない。
触れた温もりも、酷く頼りない。
それでも。
それでも、伝わってきたから。
私は再び、瞳を閉じた。