平面上の幸福
「風花は、すごいな」
幼い頃。
父さんにそう言って褒めてもらえるのが、すごく嬉しかった。
だけど。
「夢見は、ドジだなあ」
頭を撫でてもらえるのは、いつも妹だった。
それがとても、寂しかった。
《風花》
五月二十三日、六時三十分。
目覚ましが鳴る三十分前に目が覚めた。
寝直すような気にもならず、布団から身を起こす。
薄いカーテンと立て付けの悪い窓を開き、陽射しに目を細めながら大きく一つ深呼吸。
朝の空気はひんやりと冷たくて、体が清められる気がするから好きだ。
布団を押し入れに片付け、小物入れから髪を括るゴムを一つ取り手首にはめて、寝間着の代わりに着用しているトレーナーのまま自室を出る。
築四十年の我が家は歩く度にキィキィと床が音をたて、うるさい。
だけど、私はその音が嫌いではなかった。
確かに、私はここにいるのだと、そう思えるから。
狭くて急な階段を降りると、居間で父さんがちゃぶ台の前に胡座をかいて湯呑みでお茶を飲んでいた。
母さんは台所で朝食の用意をしている。
「おはよう」
声をかけると、父さんは一瞬だけこちらを向き、「ああ、おはよう」と返事を返してくれた。
母さんは背を向けたまま、返事をしてくれなかった。
いつものことなので気にしないことにして、歩を進める。
便所で用を足してから洗面所に行くと、先客がいた。
小さな背中。
片口で切り揃えた、色素の薄いやわらかそうな髪。
顔を洗ったのだろうが、水で濡れて目が開けられないようで、洗面台の上においてあるタオルを手探りで探している。
黙って見ていたが、その手は空振ってばかりいるので、肩越しに手を伸ばしてタオルを取り、手渡した。
「おはよう、夢見」
「っ!」
夢見――私の一つ下の妹は、私が声をかけた途端、その細い肩を大きく震わせて息を詰まらせた。
怯えたみたいに壁に背を張り付けて、タオルを顔に押し当てる。
「夢見は、起きるの早いんだね」
声をかけるけど、返事は返ってこない。
これもいつものことなので、気にしないことにして洗面台の前に立った。
歯磨きと洗顔を終えて振り向くと、まだ夢見がいたので少し驚いた。
「夢見?」
名を呼ぶけど、夢見は下を向いたまま、目をあわせてはくれない。
しばらく待ったけどなにも口にしようとしないから、私は夢見に背を向けて洗面所から一歩踏み出した。
「――……とろい、から」
か細い声が、背中越しに届いた。
振り返らずに足だけ止めると、言葉は続く。
「わたし、とろい、から、早く起きて準備しないと、遅刻、しちゃうから……」
小さい上に途切れ途切れの掠れた声で、聞き取りづらかったけど、それは先程の私の言葉に対する返答だった。
一応、会話とよんでもよさそうな言葉のやり取り。
それが夢見と出来たのはいったいいつぶりだろうか。
お正月にあけましておめでとう、と言い合って以来かもしれない。
思わず振り向くと、夢見と一瞬だけ目が合った。
すぐにばっと勢いよく反らされてしまった。
だから私も言葉に詰まってしまい、前を向くと「……そっか」とだけ口にして、自室に戻った。
高校の制服に着替えると、部屋においてある鏡の前で、括っていたゴムを解いて背中までのばしている髪を軽く櫛ですく。
私の髪は癖のない真っ直ぐな黒髪で、寝癖なども滅多につかない。
身支度も滞りなく済み、時計を見ると時間にはまだ余裕がある。
朝食はいつも通り昨日の残りの味噌汁を温めたのとスーパーで買ってきた漬物、あっても目玉焼きくらいの物だろうし、うちの家は全員揃って食卓に着く習慣もないので、もう少し部屋にいようと思った。
早く居間に降りても、楽しい家族の団欒などは期待出来ないのだし。
勉強机に手を伸ばし、机の上に置いたままにしていたスケッチブックを手に取る。
適当に広げてペラペラとめくると、どのページにも笑顔がある。
父さん。
母さん。
夢見。
私が描いた、私の家族。
自然に、口元が歪むのがわかった。
こんな綺麗な笑顔。
本当は一度だって、私は見たことがない。
――……絵を描くのが、好きだった。
真っ白い紙面に、黒鉛の黒を走らせて。
私のこの手で、平面上にならばいくらでも幸福を生み出せる。
でも。
それは所詮、絵にすぎない。
私の、願望でしかない。
描き続けるうちに、そういった考えはどんどんと強まっていき。
気付けば私は、絵を好きな気持ちと同じくらいに、絵を嫌いだとも思うようになっていた。
それでも。
「……」
椅子に座り、スケッチブックの白紙のページを机に広げ、鉛筆を手に取り。
今日も私は私の願望を描く。
抑え切れない衝動に任せて、言葉に出来ない物を紙の中に封じ込める。
十分後。
描き終えたそれを見る。
綺麗な、綺麗すぎて作り物のような笑みを浮かべた夢見の顔。
また、笑みが零れる。
当たり前だ。
実際には見たことのないものを描いているのだから。
私はスケッチブックをパタリと閉じて椅子を立ち、通学鞄を片手に部屋を後にした。
居間に入ると、母さんは台所で自分と父さんが使ったであろう食器を洗っていて、ちゃぶ台の前には父さんと夢見が座っていた。
父さんは、映りが悪いと小さくぼやきながら手を伸ばし、テレビを軽く叩いている。
うちのテレビはとても古い箱型の小さなもので、誰から見ても買い替え時なんてとっくにすぎていた。
ノイズが飛び交う画面に溜息をついたところで私の存在に気がついた父さんは、テレビに伸ばしていた手を引っ込めて取り繕うようにお茶を一口啜った。
父さんの行動で私に気が付いた夢見も、一瞬私に視線を向けた後、慌てるみたいに食べている途中の朝食に目を戻す。
私は用意されている自分の分の朝食を確認してから台所の隅においてある冷蔵庫まで行き、麦茶を片手に居間に戻ると夢見の隣に座った。
小さく肩をびくつかせた夢見に溜息を零しそうになる。
同じ家に住んでいて、毎日同じような行動を繰り返しているのに、そのたびにそんな反応しないでほしい。
朝食を着々と食べ進める。
美味しいとも思わないけど、慣れ親しんだ我が家の味。
ふと隣を見ると、私より先に食べ始めていたはずの夢見の食器にはまだ私と同じか少し多い量の朝食が残されていた。
夢見は、食べるのが遅い。
口に運ぶ手はスロー再生をかけたみたいにゆっくりだし、一度に口に入れる量も少なくて、噛むのものろい。
「あっ」
おまけに不器用で箸をきちんと持てないからよく零す。
私は無言で夢見がちゃぶ台に落とした漬物を拾いあげると邪魔にならないように自分の食器の端に置き、同じくちゃぶ台の上に飛び散った醤油を台拭きで拭いた。
夢見はあたふたしながら私を見ていたが、私が何事もなかったかのように食事を再開すると自分ものろのろと食べ始めた。
そこで父さんが口を開く。
「二人とも、最近どうだ、学校とか」
父さんが自分から話題をふってくるのは珍しい。
特に私に対しては。
一瞬だけ戸惑ったので、一拍おいてから私は返答した。
「なにも、問題ないよ」
一言。
それだけで十分だと思った。
案の定、父さんはお前ならそれが当然だな、とでも言いたそうに一つ頷いた。
続いて夢見も、私のほうを控えめに何度かちらちらと窺ってから、父さんのほうに視線を向け口を開こうとし、やっぱり俯いて話出した。
「……う、ん、わたしも大丈夫だよ。勉強も、なんとか」
蚊の鳴くような小さな声だった。
夢見は、嘘をつくのが下手だ。
父さんは、目を細めて多少眉を下げながら、そうか、と言った。
悲しそうにも見えたけど、どこか嬉しそうでもあった。
夢見の返答もその真実も、きっと当然のことだと思っているのだろう。
やはり俺の娘だと、そう思っているのだろう。
私は会話の間も食べ進めていた朝食を終え、ごちそうさまと言って食器を持つと立ち上がった。
夢見は私の姿を視線で追うと壁掛け時計がさしている現在の時刻に気が付き、慌てたように食べるスピードを早めた。
それでも通常の人の食事ペースに届くか届かないか、といったところなのだが。
早く起きたとはいっても流石にゆっくりしすぎたようで、そろそろ出ないと下手をすれば遅刻する。
私は食器を流しに浸けるといってきますと口にして玄関に向かい、指定の革靴を履いて引き戸を引き、家を出た。
陽射しは強いのによく風の吹く朝だった。
疲れるんで少しずつ掲載していきます。