第三章 『椴勝橋頭堡攻略戦』 8
勝白川の上空を三竜の飛竜が飛翔する。
切り立った岩盤が作る渓谷の中を、清流が流れる。
生い茂る木々が清流の放つ水霊の作る霞の中で、静かに揺れていた。
むき出しの岩盤から縦横無尽に生えた木々が一種の荘厳さをもって渓谷を形作っていた。
「間もなく降下。各竜士、よろしいか?」
先頭を飛翔する『銀戒』の竜座で由路葉が精霊珠を握る手に力を込める。
「フン、誰に尋ねておる。遅れれば置いてゆくは我ぞ」
『紅閃』の竜座で暮羽が不敵に笑った。
「ゆくるか」
『黎泉』が降下態勢に入り、他の二竜も首を下げる。
降下、加速する飛竜の竜翼が水霊を励起し、白い蒸気を引く。
「竜誇飛竜隊から、導慧。竜翼、山水」
『銀戒』を先頭に飛竜達が渓谷に飛び込む。
狭い渓谷に伸びる木々が腕を伸ばせば手の届く位置に見える。
猛る風霊に軋む木々を後ろにして疾走する。
矢継ぎに迫る渓谷の岩壁を目の前に操竜桿を持つ手が震えていた。
呼吸をする暇も無い。
一呼吸する間にも次の岩壁が目の前に迫り、背筋に嫌な汗が浮かぶ。
すぐ横を流れていく岩壁、体を押しつける強い重圧、僅かにも操作を間違えれば死ぬという緊張。
それらが一斉に意識を逼迫し、絶え間なく加減を間違えれば死ぬ操竜を要求する。
殴りつけるような重圧と、加速する地面に恐怖する。
先頭を飛翔する『銀戒』の後ろについた天穿は、その軌道を追うので精一杯だった。
『黎泉』が『紅閃』を追い越し、その翼が岩壁から群生する樹木を掠める。
「各竜、縦列隊形を維持。銀戒が道を示す」
大きく揺れる『黎泉』を前に、減速した『紅閃』の中で暮羽が鼻を鳴らす。
「……天穿、疾くと駆け」
霧耶は小さく息を吐き、操竜桿でもって応えた。
恐怖を直視し、四肢の感覚を飛竜の装甲の先端まで広げ、飛ぶ。
臆病と勇猛がせめぎ合う心を広げ、尖る意識を丸め、全てをあるがままに受け止め自分を一段高い場所へと置いて現実をねじ伏せる。
紅閃が狭い渓谷内を翻り、勝白川の水面を切る。
白い飛沫が跳ね上がり『黎泉』と『銀戒』を抜き去った。
「先導をするは一番隊の勤めぞ!銀戒、黎泉、我に続け」
暮羽はそう言い捨てると竜肺の火精を爆ぜさせた。
――天穿霧耶は己の中の臆病を生かし、暮羽に応える為に勇猛に飛ぶ。
「はは!活気、竜の如しか」
芽李が僅かに微笑み、その後に続いた。
笑う芽李にも余裕は当然、無い。
臆病さを持ち、そのままに勇猛であることを選ぶ矛盾を受け止められる者だけがその現実をねじ伏せることができるのだ。
銀戒はその後ろにつくと、静かに操竜桿を手繰る。
暮羽が急かすように竜肺を爆ぜさせ、それを先回るように竜を操る。
『黎泉』も『銀戒』も、『紅閃』に続く。
互いに他者を慮ることなどできない領域に踏み込み、並ぶ。
「間もなく敵の索敵範囲に入ります。高度、留意!」
「承知、憧臨関を捕らえた。抜け!」
――紅閃の目前に、切り立った断崖がせり出して居た。
『紅閃』が減速し、羽毛のように姿勢を傾け、加速する。
その後ろから、まるで曲芸飛行をする編隊のように黎泉、銀戒が続こうとした。
「――辰貴ッ!敵感っ!?上っ!?」
由路葉が悲鳴のような声を上げた。
憧臨関の岩壁に精霊槍が刺さり、爆風と岩礫をまき散らす。
紅閃が竜肺を爆ぜさせ駆け抜け、黎泉が翻り岩礫を避けた。
「晶慧発起散眼粋意ッ!」
辰貴が吠え、銀戒が岩礫の雨の中を走る。
臍下丹田に落とした精気を爆ぜさせ、僅かの間、活を得る。
――視界が真っ赤に染まる中、辰貴はほんの僅かに遅くなった時の流れに乗る。
竜肺を小刻みに爆ぜさせ、操竜桿を手早く手繰る。
降り注ぐ岩石の中を右に左にと銀戒が翻り、駆け抜ける。
翼膜が小さな岩石を跳ね上げ、傾いだ竜首が勝白川の水を飲む。
吹き上げた竜肺が水面を蹴散らし、粉塵の中を裂いて銀戒が『黎泉』の後ろに追いつく。
「敵襲!?どこだっ!」
「上っ!」
暮羽が上を向くと、そこには彼女の見たことの無い白い飛竜が一糸乱れぬ編隊飛行をしていた。
「何を思って、二人が飛んでいたかと思えば……」
勝白渓谷の上空で、『銀戒』の飛行を見たコメットは舌を巻いた。
「見たな?あれが我々の敵だ。どれもが我々を苦しめたオレンジラインと同等かそれ以上と思え。狙いは明らかだ。奴らに『ガングニール』を潰されてなるものか!かかるぞ!」
「了解した。これより追撃に入る」
光卓騎士団が降下態勢に入り、渓谷に侵入する。
最後尾に付いた銀戒をその精霊槍の精策に納め、トリガーを引き絞る。
放たれた精霊槍を銀戒がぎりぎりで横転し回避する。
「天穿ッ!引き離す。ついて参れッ!目に物見せてくれるわッ!」
「応ッ!」
『紅閃』が竜肺を広げ、火精を広げる。
広がった火精は『紅閃』の第二の翼のように広がり、羽ばたき、押し上げる。
加速する『紅閃』に合わせ、霧耶が操竜桿を目にもとまらぬ早さで手繰る。
音を越えて加速する飛竜に追従するように『黎泉』、『銀戒』がその速度を上げた。
「紅麗翼ッ!」
「侮り怯むなッ!血路を開くは我らが牙誇ぞ!遅れるなや!アルメリア飛竜如きに遅れはとるまいやッ!」
『黎泉』の竜肺が吠え、『銀戒』も一拍遅れて竜肺を膨らませた。
加速する三竜に『リュケイン』のコメットは驚愕を押し殺し、微笑を浮かべた。
「まさか……この地形で加速するのかっ!?」
『リュケイン』の竜肺が青白い燐光を放ち、その体躯を押し上げる。
次々と迫り来る、岩壁を避け、『銀戒』らに追いすがった。
大きくせり出した二枚の背翼が傾ぎ、『リュケイン』を細やかに旋回させ、渓谷を走る。
コメットを先頭とした『リュケイン』の編隊はその後に続くのがやっとだった。
マクレガ・アンバスは次々に迫る岩壁を前に、ほんの、そう、ほんの僅かに現実を失う。
高速で迫る岩壁を避けるために絶えず操竜桿を手繰り、渓谷を抜ける。
絶えず強いられた緊張に、その光景がほんの一瞬、嘘のように思えた。
次の瞬間、竜首が岩壁にめり込んでいた。
目の前に岩壁が見えたと思った瞬間には、固定帯が胴を引きちぎり、痛みを感じる間もなく竜眼膜にその頭部を叩きつけられ絶命する。
それらを全て飲み込むように、潰れた竜肺から溢れた火精が風精を飲み込み練金装甲をも飲み込む爆炎と変わる。
バルツ・メインスはその爆風を避ける為、機首を上げ、上空に逃げる。
背後を取られぬように周到に張り巡らされた味方の精策がこれを敵と見なし、対空精霊槍を放る。
青白い燐光が白い『リュケイン』の練金装甲を貫き、爆ぜると同時にバルツ・メインスは家族の写真を貼った竜座とともに爆発四散した。
「マクレガッ!バルツ!……くそ」
コメットが舌打ちする中、三竜は更に加速してゆく。
「光卓騎士よ!我に続け!暁の星が困難多き道より汝らを照らす光明とならん!」
挫けそうになる士気に喝を入れ、竜鐙を踏み込む。
縦列に隊形を組み直した『リュケイン』は猛然と辰貴らに追いすがる。
銀戒の背後に迫ったコメットの『リュケイン』が再び、槍の射程に納めた。
「辰貴!補足されたッ!」
「銀、殿を替われ。叩く」
芽李の『黎泉』が速度と高度を僅かに落とす。
すかさず銀戒が加速し、狭い渓谷内で入れ替わった。
その直後だ。
コメットは信じられないものを見た。
芽李は操竜桿を倒し、竜鐙を踏む足を力一杯踏み込み、竜肺内の精気を一度だけ全開にする。
その直後、つま先で竜鐙を跳ね上げ、竜肺内の精気を空にした。
爆発的な加速度の後、失速、下げられた竜首が風霊に押さえつけられる。
『黎泉』は宙返りをしたのだ。
真正面に『黎泉』の竜首を見たコメットは味方に警告を出す暇も無く、とにかく操竜桿を倒した。
次の瞬間、『黎泉』の竜首から放たれた弐号竜咆が火を噴き、コメットの『リュケイン』の背中を焼いた。
だが、その背後に居た『リュケイン』は違う。
目前で隊長であるコメットの『リュケイン』が降下したと思った瞬間、竜咆の炎に貫かれていた。
縦列隊形を組んでいた『リュケイン』の三竜が貫かれ、練装の剥離する淡い燐光を残し爆散する。
竜咆の反動を利用して再度、進行方向を向いた『黎泉』はすかさず、銀戒の背を飛び越え紅閃の背後につく。
その所業に辰貴も由路葉も思わず舌を巻いた。
「やる」
「すぐに迎鋭谷だ。落ちるなや?」
先導する『紅閃』の正面で渓谷が急に狭まり、小さなアーチをいくつも作っている。
隆起した地面がその洞穴の入り口を半ば塞ぐようにせり上がっており、進路を狭める。
躊躇無く、『紅閃』が飛び込む。
一つ目の隆起を越えた先にアーチが迫り、隆起が下がる。
絶え間ない急下降、急上昇を強いられるが暮羽は速度を緩めることをしなかった。
『黎泉』『銀戒』ともについていくのがやっとで、コメットの『リュケイン』が僅かに遅れを見せ始めていた。
だが――
「天穿ッ!」
『紅閃』が再度、急加速した。
眼前に迫った渓谷の継ぎ目に衝突する直前で飛竜を操り、竜座に締め付けられる重圧で天穿は胸から息を絞られる。
その直後、『紅閃』の背後に、白い糸が張り巡らされた。
「『鬼蜘蛛』かッ!」
――アルメリア工作霊獣『ジャイアントスパイダー』
霊鋼糸を編み上げた粘性の糸を張り巡らせる工作霊獣だ。
渡河用の簡易架橋用工作を主な用途とし、橋頭堡設置の工作霊獣としても使われる。
龍元では『鬼蜘蛛』の通り名で知られていた。
『黎泉』の翼端が糸に触れ、大きくバランスを崩し岩壁に衝突しそうになる。
竜肺を噴かし、竜脚を広げ岩壁を蹴り、腹を隆起した岩山に擦りながらも『黎泉』はかろうじて僅かな間隙を抜ける。
『銀戒』が羽毛のように翻り、糸の間を抜けた。
だが、その一拍で迫った『リュケイン』の竜咆が 『銀戒』の尾翼を掠めていた。
暮羽も天穿も、振り返らずとも、背後の状況は把握していた。
眼前には幾重にも張り巡らされた鋼糸の網が行く手を阻む。
「暮羽」
「切り抜けるッ!」
『紅閃』の飛竜刀が閃き、鋼糸を断ち切る。
断ち切られ、力を無くして舞う鋼糸が地面に落ちる前に『黎泉』『銀戒』が続き、追従する風霊で吹き飛ばす。
迎鋭谷の隆起を飛翔し、張り巡らされた霊鋼糸に飛竜刀の赤い精燐が翻り、進路を作る。
迎鋭谷の最後に火精礫咆を構えた『ジャイアントスパイダー』が『紅閃』にその砲身を向けていた。
――高速で回転し火精を蓄えた石礫を投擲しはじめる。
『紅閃』は二本の飛竜刀を突き出し、その切っ先で石礫を切り進む。
噴き上がる竜肺の炎が『ジャイアントスパイダー』の火精礫の砲身を炙り、暴走した火精が砲身の中で爆発する。
迎鋭関を抜けた『紅閃』に『黎泉』『銀戒』が、爆風を裂いて続き、『リュケイン』がその後を追う。
コメットは悠然と飛翔する三竜に恐怖を覚えた。
「これがヒノモトの飛竜」
追いすがり、槍を放ち、竜咆を放つが最後尾の『銀戒』は狭い渓谷で旋回を繰り返しながら避ける。
崩れた岩壁が巻き上げる粉塵がコメットの視界を覆うが、それでも攻撃の手を緩めることはしなかった。
「……銀、いけるか?」
比較的直線の続く渓谷の形状に操竜に余裕ができた芽李が尋ねる。
「はい」
由路葉は絶え間なく姿勢制御を繰り返しながら、短く、力強く応えた。
「すぐさま竜閃関に入る。紅の、油断するなや?」
先頭の『紅閃』の正面には既に切り立った断崖が壁となり、勝白川がごうごうと音を立てて鋭角に曲がり、流れていた。
「この程度ッ!誰に物を言って――」
『紅閃』が竜閃関に飛び込んだその瞬間だ。
竜閃関に炎が広がった。
暮羽が一瞬、呆気に捕らわれる中、天穿が操竜桿を倒し、飛竜を下降させる。
『黎泉』が横転しその炎を避け、『銀戒』が翻り、上昇する。
『銀戒』の竜首と、炎の主の瞳が間近で交錯する。
「――『炎騎士』」
黒い、天馬が炎の翼をはためかせて飛んでいた。
「――ランディかっ!」
コメットは窮状に現れた増援に喜色を浮かべた声を上げた。
飛竜より一回り小さな体躯を練装で固めた黒い天馬『ハイペリオン』。
取り回しが効く小さな体躯に見合わず、大霊力を放ち飛竜を越える加速度を持つ。
コメットの『リュケイオン』とすれ違った直後、『ハイペリオン』はほぼその場で反転すると炎の翼を爆ぜさせ、『リュケイオン』に並んだ。
「――『炎の騎士』。待たせるじゃないかッ!」
「追う」
ランディが短く告げ、ティアは高速詠唱を始める。
炎の翼を大きく広げた『ハイペリオン』が加速し、三竜に追いすがる。
狭く、鋭角に曲線を描く渓谷を飛翔する三竜の後ろにつくや、『ハイペリオン』はその炎の翼を更に広げる。
広がった翼が渓谷の岩盤を貫き、瓦礫をまき散らす。
「まさか!?」
『ハイペリオン』が『銀戒』と『黎泉』を追い抜きざまに霊剣を振り下ろす。
回避軌道に入った二竜の上から炎の翼が崩した瓦礫が降り注ぎ練装を叩く。
「きゃぁあっ!」
「由路葉!蹴るっ!」
激しい振動に悲鳴を上げる由路葉の姿勢制動が乱れ、壁面に衝突しそうになる『銀戒』。
辰貴は副霊珠を掴み、竜脚を広げ岩壁を蹴り、操竜桿を倒し、反対側の岩壁に腹を擦りつけると鋭角に曲がる竜閃関の渓谷を走る。
「……避けるか」
『ハイペリオン』が先頭の『紅閃』を捕らえ、横転し炎の翼を振るう。
ほんの僅かに減速し、竜の鼻先で炎の翼を躱し、『紅閃』は『ハイペリオン』に飛竜刀で返す。
切っ先が練装を掠め、『ハイペリオン』を襲う振動にランディは僅かに舌打ちする。
『ハイペリオン』が上を向き、宙返りしながら霊剣を振るう。
飛竜刀がそれと交錯し澄んだ音を響かせながら燐光をまき散らす。
竜閃関を抜け、これまでより切り立った断崖が多くなった勝白渓谷に出る。
「由路葉。『空爆咆』!やれ!」
「はぁ……はっ、はい!」
辰貴の問いに憔悴しきった由路葉が唾を飲み下し応える。
由路葉はおぼつかない指先で竜珠に式を刻み、精器管制を書き換える。
辰貴は操竜桿を固定し『銀戒』を直進させる。
「……速度が落ちた。刺すッ!」
「ティア、下がるぞ」
コメットはこれを好機と捕らえ、ランディは危険だと判断した。
減速した『ハイペリオン』を追い越し『リュケイオン』が飢狼のごとく『銀戒』を追う。
――次の瞬間だ。
竜肺を止めた『銀戒』が翼の制動だけで反転する。
顎が開き、細い一号竜咆が開いた。
『リュケイオン』の竜咆も一拍遅れて開き、火を吐く態勢に入る。
――『銀戒』の竜首の前に式で組まれた円陣が現れた。
『銀戒』から吐き出された竜咆が円陣を貫くと同時に湾曲四散する。
広がった竜咆が『リュケイオン』を貫き、『ハイペリオン』の翼を焼く。
背後から遅れてやってきた『リュケイオン』のことごとくを貫き、渓谷を精気爆発の燐光が埋め尽くした。
「――ッ!?」
暁の星と呼ばれた南海の撃墜王、コメット・レツンエイムはその最後に翻る銀翼を網膜に焼き付け、精燐の渦に意識を焼かれて死んだ。
「……『エアーボムブレイズ』」
ランディは震える声でそう呟く。
「構成式こそ若干違いますが、我々が使う物と酷似しています」
複座に座るティアが静かに告げた。
竜咆の射程、初速こそ極端に落ちるが式陣を通過させることによりその霊力を圧縮、分散させることで至近距離での破壊力を求める。
元は対置用竜咆破壊式術として構築されたものを対空用に改良した式術だ。
「追いますか?」
「ああ」
ティアが伺うように尋ねるが、ランディは淀みなく応えた。
『ハイペリオン』が再度加速し、『銀戒』を追う。
次第に狭くなる渓谷を風霊が岩盤を抉る速度で疾走する飛竜に天馬は遅れるどころか追い越さんとする速度で疾走した。
『ハイペリオン』の炎の翼が逆巻き、火球を生み出す。
渦を巻く炎が伸びて火球を撃ちだし、撃ち出された火球は炎の尾を引きながら『銀戒』に迫る。
『銀戒』がくるくると回る。
至近でもって爆発する火球の爆風を翼に受け、翻る木の葉のように避け、『銀戒』は飛翔する。
白く眩しい爆発の閃光をその練装に燻らせ、踊る『銀戒』の瞳に執念のような強さをランディは感じた。
――気圧されはすまい。
本当の地獄から戻った人間の強さを知るランディはそう自らに言い聞かせると、辛抱強く攻撃を重ねる。
そのことごとくを避け、爆炎の中に輝く銀翼をその網膜に焼き付ける。
「天穿ッ!銀砂利をやらせるのも小癪だ。浮厳滝、疾駆する!竜翼開陣ッ!」
『紅閃』の竜肺が放つ炎が鋭角の翼を象る。
先導する『紅閃』がさらに速度を上げ、練装を撫でる風精に飛竜が激しく震える。
龍元が保有する飛竜最速の速度を持つ『紅閃』はその持てる速度の最速でもって勝白の渓谷を飛翔する。
竜肺の容量で劣る『黎泉』が遅れ始め、『銀戒』も引き離される。
「竜翼を開くか紅の。なれば我らも続くぞ、銀」
『黎泉』の竜肺が青白い炎精を灯し、加速する。
練装の先端から弾かれた風霊が勝白川の水面を抉り、川底をあらわに白い飛沫をまき散らす。
遅れて『銀戒』の竜肺が吠え、青白い精燐を散らす。
「離されるな」
「フゲンで追いつけます」
ティアに言われ、ランディは少し熱くなっている自分を見つける。
冷静を思い出したランディは操獣桿から手を離し、ティアの髪を僅かに撫でると小さく告げた。
「すまない」
「引き下がることで失う熱もあります。どうか、あなたのままで」
気を遣わせる自分の若さを呪い、ランディは操獣桿を再び握る。
既に『紅閃』は浮厳滝を目の前としていた。
狭い渓谷の上からいくつもの川が支流として流れ込む。
椴勝山脈にいくつも存在する清流が集まり、ここで勝白川の本流にぶつかる。
深く掘り下げられた渓谷の岩壁は鈍色に輝く霊銀でできており、何千年もの間、滝に打たれても決して、削られることがない。
落ちる滝が中空で交わり、一本の水柱と成り、霊銀の岩壁に跳ね、飛沫を散らし噴霧を作っていた。
霊銀の光沢が噴霧の中に煌めく幻想的な光景が広がるが、その中には視認し難い滝がいくつも存在している。
「天穿、怯むなや?」
『紅閃』が炎の竜翼を広げ、浮厳滝に飛び込んだ。
真っ白に染まる視界の中、ほんの僅かに見える水柱。
避けた際に手に感じる風霊とは違う、水霊の多い空を飛ぶ重い手応え。
意識を広げ、違う操竜の感覚を瞬時に体に刻もうとする。
『紅閃』の翼端が水柱を切り、水に翼を叩かれた『紅閃』が瞬時に横転する。
制動を僅かに失い、何度も滝に触れ、横転を繰り返しながらも天穿は操竜桿を手繰った。
上空に逃げたい気持ちを押し殺し、比較、水の密集しない渓谷の上部、高度限界に逃れる。
「ランディ、今」
『ハイペリオン』の翼から火球が一斉に撃ち上げられる。
上昇した火球は上空で弧を描き、浮厳滝にめがけて降下する。
「天穿ッ!下が――」
暮羽が警告を飛ばした時には、火球は爆散していた。
浮厳滝に充満した水霊が火球に圧縮された火精と相克し、ほんの僅かに混ぜられた雷精でもって励起する。
耳を貫く爆発音に意識が飛びそうになるのを必死に堪え、水霊の充満する低空へと逃げる。
その傍らを『黎泉』が腹を滝に擦りながら飛び、『銀戒』が滝の間を縫うようにひらひらと飛ぶ。
竜肺を空にし、再度爆ぜさせて無理矢理姿勢を制御すると『紅閃』は勝白川の水面を弾き、上昇した。
『ハイペリオン』の霊剣が滝を切る。
真っ二つに割れた水が霊剣の燐光に遮られ、宙に渦巻く。
『ハイペリオン』は次々に滝を切り刻み、『紅閃』に迫った。
――振り上げられた霊剣に暮羽は死を覚悟し、天穿は抗う。
渓谷を越える高度まで逃げると、途端に対空防護精策に捕らわれた警告音が竜座に響き、緊張が心臓を締め上げる。
遠く飛翔してくる精霊槍を見つめ、空中で翻ると、再度、浮厳滝に飛び込む。
浮厳滝をなぞるように螺旋を描き、『ハイペリオン』に飛竜刀を振り降ろしながら迫り、地面に激突する直前まで下降する。
霊剣で飛竜刀を弾いた『ハイペリオン』が滝の間に逃げ込み、降り注ぐ精霊槍が地面に刺さる直前の『紅閃』に追いすがる。
『紅閃』はそこで、竜肺の吸精口から火精を噴く。
飛竜が竜首を地面に向けたまま、後方に大きく跳んだ。
急激な加速からの停止、そして高速後退。
操竜する天穿も無事ではない。
暗転する視界、固定帯に絞られる激痛、それらを吐き出しそれでも、飛ぶ。
精霊槍が地面に突き刺さり、青白い燐光を上げる中、竜肺の精気を整え、噴かし、加速すると『銀戒』らを追う。
「『バックブーストムービング』かっ!」
ランディは『紅閃』の軌道に、苦笑した。
――強い。
死を経験するほど、人は強くなる。
死の淵を見ることで、臆病になり、その境界を踏み越えない限界を知ることで至れる境地があることは理解し、実践していた。
だが、長くに渡ったアルメリアとヒノモトの戦争がまさか、これほどの勇士を作っていたとは思いもよらなかった。
浮厳滝の中を速度を上げて飛んでゆく『紅閃』を見つめ、胸の中にもたげたものを認めた。
「まだ、負けた訳ではありません」
意地になるティアに、苦笑を返す。
引き下がれば失う熱もある。
がしかし、それを認めなければ先に進めないのも確かなのだ。
「下がるぞ」
『ハイペリオン』が浮厳滝を引き返す。
「いいのですか?」
「強固な意志で固められた鎧は堅い。敵を倒し、鎧を脱いだ時に一気に刺す」
「ランディ?」
「……騎士の誇りを見せてコメットは散った。俺は誇りを戦場の骸の影に落ちていた命を拾った時に捨てた。ならばせせこましく殺しても何も問題はなかろう」
ティアは下唇を強く噛んだまま、黙った。
浮厳滝を抜ける三竜を一瞥すると、ランディは小さく微笑んだ。