第三章 『椴勝橋頭堡攻略戦』 6
白浪辰貴と銀嶺鱗・由路葉が療養除隊した頃の話である。
その頃は、まだ、そう寒くはなかった。
ダダガルザを経て再び二人が龍元の地を踏む頃には秋も深まっていた。
だが、着実にやってくる冬の気配に辰貴と由路葉は早めに厚手の外套を賄うことにした。
「……昔、姉の着ていた桃色の雨着をねだって喧嘩したこともありました」
閑散とした呉服店の軒先で、地味な色目の外套に袖を通した由路葉がそう言った。
空襲を受ける前の東宮は龍元の首都として、それでも人の波を作っていた。
先日に雨を降らしたばかりの雲を抱えた空は、行き交う人々の疲れた肩に確実に迫る敗戦の影を静かに落としていた。
戦争に疲れた人の波の中を、辰貴と由路葉は並んで歩く。
「東宮大学府に居た頃は、この三軒先の加利屋によく足を伸ばしたものです」
無理に明るく振る舞う由路葉は少しでも過去の自分を辰貴に伝えるのに必死だった。
遠く、大龍府を眺め、東宮の中心を流れる神蛇川に掛かる赤稲橋を渡る。
煉瓦を敷き、火精を繋いだ街灯が並ぶ町並みの中を鉄火車と馬車が行き交う。
雲助が引く人車を使えば、早くについたのだが辰貴にしろ由路葉にしろ人車に乗ることはしなかった。
「小学府に居た頃は、皆が軟磁の人形を持ってました。私は……姉のお下がりばかりを貰っていつも不満に思ってた気がします」
人形店の前で、誤魔化すように由路葉が言葉を継ぐ。
二人の顔にも、深く戦争の疲れが浮かび、それを見られるのがたまらなく嫌だったのだ。
「ホチという狛犬がこの近くに住んでました。今はもう、年老いて亡くなりましたが、童の時分は幾度か危ないところを助けられたこともあったりしました」
まるで到着するのを引き延ばすようにして歩き、二人は東宮の離れにある森にたどり着く。
「春先になると花をつけて綺麗なのですが……毛虫が出るので私は嫌いでした」
すっかり葉を落としたあぎの木が作る林道はいくつにも分かれて伸びる。
木々の間に見える大きな邸宅の門にはそれぞれ違う竜紋が描かれていた。
鎮竜伏杜と呼ばれる竜霊が住居を構える地区である。
時折、通る鉄火車の車窓から厳かな竜衣を纏った竜霊が覗き、並んで歩く二人はみすぼらしく見える。
やがて辿り着いた銀の鱗を象った竜紋を掲げた邸宅の前で、由路葉は白い息を吐きながら体を震わせた。
「……着いて、しまいましたね」
「ああ」
銀嶺燐の邸宅、つまり、由路葉の自宅である。
すがるように辰貴を振り向くと、辰貴は小さく頷く。
頷き返した由路葉はおそるおそる邸宅の門を開いた。
由路葉からすれば変わることのない庭を抜け、邸宅の表戸を叩く。
「……由路葉様、でございますか?」
「第三海軍を療養除隊し銀嶺燐・由路葉、只今、戻ったと竜主にお伝え下さい」
見知った使用人が驚いた様子で由路葉を迎え、中へ招く。
門の外からその様子を眺めていた辰貴は振り向く由路葉と僅かに視線を交え、ゆっくりと背を向けた。
「辰……」
あぎの木の森に消えてゆく辰貴の背を見送る由路葉は声をかけようとして、止めた。
由路葉は龍元という国の本当の歪さをまざまざと感じた。
――竜霊と庶民には大きな壁がある。
由路葉はかつての自室に通され、しばらく待たされた。
姉と共同の部屋であり、並べた文机に二人でふけった小説本がそのまま積まれている。
埃を被ることなく陽光を照り返す漆喰に、誰も居ないこの部屋を誰かが手入れしていることは明かだった。
姉と二人並んで映る絵写の赤焼きに幼き頃の自分の強ばった顔を見て、幾ばくかの間、この家で育った過去にふける。
思い出したように押し入れを開けると、かつてのままに仕舞われた玩具があった。
古ぼけた木箱の中に、姉と競って集めた装具がそのままに置いてある。
竜鱗を象った銅板を下げた真鍮の輪を取り、手の中で転がす。
窓の外にうずたかく積もったあぎの木の落葉を眺め、時計の針が時を刻む音に耳を傾ける。
とても、長い時間、そこでそうしていたように思えた。
「……帰っていたか」
伺うようにかけられた声に由路葉は振り向く。
「はい、只今戻りました」
由路葉は立ち上がり小さく頭を下げて懐かしい顔を見上げた。
銀嶺燐・伸鋭侯。
由路葉の父である。
白髪の交じり始めた短い髪に、灰色の竜衣を纏った精悍な体躯は壮年でありながら切れ者を思わせる鋭さがあった。
伸鋭は不機嫌そうに眉間に皺を寄せると娘の頭からつま先を見る。
「少し、痩せたか?」
「はい……父君にあられては壮健で何よりです」
伸鋭は一度、鼻を鳴らすと畳の上に座り込んだ。
「座れ」
由路葉は言われるまま、膝を折り伸鋭に向き合った。
父が、元来、言葉を多く語る人間では無いことは知っていた。
「お前は二度とこの家の門をくぐることは叶わぬ。去れ」
だが、久方ぶりに会ったばかりだというのに、いきなり去れと言われ、さすがに由路葉も驚き言葉を無くす。
「一月も前にな。死亡通知が来た。もうすでにお前は幽籍にあるものとなっておる。お前は既に銀嶺燐を無くした身だ」
――竜霊として死んだ身分である。
そう、父は告げているのだ。
「ですが、私はこうして……」
「竜として死んだ。銀嶺燐を名乗るのは許さぬ。がしかし、それでは非情なりというのもわかる。故に、銀嶺燐の銀燐二片くれてやる。質商に流せば口に糊する足しにはなろう」
伸鋭はそれだけ告げると、竜衣の袖から袱紗に包んだ銀燐を由路葉の前に投げた。
「……母上には」
「会うてはならん」
「今生の別れをば申す暇も無いと申し上げますかっ!」
声を上げた由路葉の頬を伸鋭は張った。
「……此の世にあるまじき苦境にあったのは推して知れる。がしかし、お前は竜霊たる誇りを捨て、庶子と通じたのであろう?」
伸鋭は鼻を鳴らし、子である由路葉を足蹴にした。
「彼は私の命の恩人です!それを貶めるような言い方はあまりにも……」
「情が移ったか!私はお前を下賤な庶子にくれてやるために喰わしてきた訳ではないぞ!」
「父上!それは侮辱にございます!それ以上はおやめ下さい!この身、今生に未だあるは浪代辰貴が尽力がございますればこそです。なればこそ、私は生きて再び父上のご尊顔を拝することが叶ったものでございます……」
平伏し、ただひたすらに許しを請う由路葉は当たり前に享受してきた竜霊の尊厳を前に不条理を感じずには居られなかった。
「墜ちたな。由路葉」
墜ちた。
そう問われれば、由路葉はただ暗く、自らのことを恥じるしかなかった。
「はい……」
伸鋭は悪意をもってして述べているのではない。
それが理解できぬ程、由路葉は愚かでも無い。
「庶世に落ちたのであれば、その責を負って生きよ!我は断じてお前など子として認めはせん!」
引きずり上げて、再度、由路葉の頬を張り、壁に打ち付ける。
――だがしかし、悪意が無くとも未だ幼い由路葉には受け止めがたい現実だったのだ。
力なく倒れた由路葉はじっと畳の上に投げられた袱紗を見つめていたが、しばらくして大きな溜息を落とすとともに、手を伸ばした。
「……わかりました……私は、只今を持って銀嶺燐の竜籍をお返し致します」
「早う行け」
「それでも……私は父上と母上をお慕いしておりました」
「早う行け」
「子女故の弱さとお許し下さい……墜ちたるとはいえ、父上と母上をお慕い続けますることをば、お許し、下さい……」
伸鋭は黙って俯いた。
許す、とは言わなかった。
立ち上がり、すれ違う父の背中がとても小さく感じた。
逃げるように屋敷を出て、門を潜り外へ出る。
垣根越しに屋敷を見れば、老いた母が俯き泣いていた。
父が由路葉を一瞥し、障子を閉め切り母を隠すと、由路葉はいよいよもって家に背を向ける。
歩き出した足は、やがて速くなり、いつしか駆け足になっていた。
弾む息にあわせ、胸が苦しくなり、それでも駆けることをやめられずにいた。
あぎの木の濡れ落ち葉に足を取られ、道を転がる。
買ったばかりの外套を濡れ葉に汚し、そこでようやく、由路葉は自分が泣いていることに気がついた。
「うぅ……うぅ……あぁ……」
堪えきれなくなった嗚咽が喉の奥から零れる。
握った落ち葉が手の中でくしゃりと歪み、潰れて零れる。
「ああぁぁっあぁっ!あぁぁぁぁああっ!」
地面を叩き、うずくまる由路葉は声を上げて泣いた。
自らの依って立つものがなくなり、世間に放り出されるには由路葉はまだ幼かった。
愛していた家族を失い、ただ、誰かに助けて貰いたくて、由路葉はひたすら泣いた。
「……竜霊は昔から、嫌いだった」
しゃっくりあげながら見上げれば辰貴が手を伸ばしていた。
期待はしていた。だが、それを期待していた自分が、とても浅ましいものであるのも由路葉は理解していた。
「私はぁぁ……ひぎぅっ!わた、し、わぁぁぁっ!……」
「喋るな」
だから、泣いた。
無理矢理肩を掴み上げられ、由路葉は地面から引き起こされる。
「この戦争は負ける。龍元は敗れる。そうなれば敗戦の責をアルメリアは竜霊に負わせるだろう。だが、それは事実だ」
すがりつくように辰貴の胸に顔を埋め、声を上げた。
「わがっで……ぐぅぅうっ!……わかっでばす!……」
ダダガルザの地獄でそうしたように、無力の中で不様にすがって泣きじゃくった。
「親が子を思い、親と離れて子が泣く。竜霊と人、どこに変わりがあるかよ」
震える由路葉の髪についた落葉を払い、撫でながら辰貴は遠く銀嶺燐の屋敷を見つめる。
「でもっ――うあぁああっ!でも――ああっ!あぁあああっ、ああ――」
僅かに開いた障子の先に、頭を抑える竜霊を見て、辰貴は天を仰いだ。
辰貴といえども、まだ、若い。
「わだしは……あうぁあっ!もう…あなだにしか…ひぐっ……あなだにじか…ああぁっ!」
だがしかし、腕の中で震える由路葉を前に若さを理由にはできなかった。
「それでいい。どこまでも背負っていくしか、あるまいさ」
胸の中で頷く由路葉はそれでもしばし泣いていた。
その日に見た夕日とよく似ていると思った。
薄くかかった雲の向こうに朱色に燃える朝日が昇っていた。
茫洋とする雲を貫いて燃える朝日の朱がとても眩しい。
葉の落ちた木々の梢の向こうに見える朱色の陽光に白く染まる吐息を重ね、辰貴は紫煙を胸一杯に吸い込んだ。
身を切るような朝の冷気の中、竜達が一斉に肺を震わせ唸り始めていた。
「辰貴」
白く息を弾ませた由路葉が辰貴を見つけた。
「行く」
辰貴は短くそれだけ告げて、中程まで残した煙草を投げ捨てた。
轟音を立てて飛竜が助走路を疾走し、上昇してゆく。
揺れる大気を背に受けて、辰貴は銀戒へ向けて歩み出した。