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トライアングルと老婆

作者: 綾無雲井

「イヤーッ! 誰か、誰か助けて。変な女が勝手に私の部屋に!」

 ベッドで横になっていた老婆の細い喉が、若い女の声を作りだして必死に喚いた。佐代子はビクッと動きを止めそうになったが、辛うじてその衝動を抑えて隣の患者と見舞い人へのお辞儀もそこそこにベッドへと歩み寄った。警戒する老婆を尻目に「どっこいしょ……」と、パイプ椅子をひとつ発見して腰掛ける。最近は身体が重くなって、掛け声なしでは動けない。

 溜息を付いた隙を狙って負けじとナースコールに手を伸ばす老婆に気付いた佐代子は、慌ててそれを取り上げて、代償に花束を落とす羽目になった。

「ダメよ。病院で騒いじゃあ」

「アンタさん、私の遺産目当てか? こんな赤の他人になんか、くれてやらないからね」

「……何処で覚えてくるの、そういう台詞」

 花束を花瓶に添えながら呆れかえった佐代子を無視して、老婆は起き上がってベッドに座る。何をされても対抗できるようにという彼女の警戒態勢であった。週に二度は目にするその細ばった身体は今や小学生ほどの大きさだ。以前の面影を微塵も残さない母の寝巻姿。確かに、赤の他人のようだった。空々しい骨ばったその皮だけの背中を前に、思わず佐代子は手を伸ばした。

「――何するの!」

「はいはい」

 身体を強ばらせる母という名の他人に佐代子は苦笑を漏らした。皮肉な話ではないか。親孝行を先延ばしにしてきたツケが今目の前にある。いつだって佐代子は精一杯だったというのに。

 社会の荒波を乗りこなすために、会社の上司だった夫の事業を成功させるために、娘を一人前に育て上げるために実の両親への親孝行を後回しに身を挺して来たが、その結果独り立ちした娘に好かれたわけではないのは重々承知している。

 親孝行の時間が取れた頃にはもう父があっさりと死んだ後で、残された母は痴呆になり始めていた。

 背中を向ける老婆の警戒した挙動。拒絶されているのだと佐代子が感じた時、天井近くのスピーカーから面会時間終了30分前のアナウンスが流れた。

 拒絶されているのかもしれなかったが、佐代子は元々悩んでいられる性格ではない。看護士のアナウンスに促されて「ふん」」、と鼻で笑うと開き直ったように母の肩に触れた。

「ちょっ、触らないでよ」

「ぐだぐだ言わないの」

 身悶えする彼女にお構いなしに、掴んだ肩を軽快に揉み始める。残り30分を、親孝行に使ってみる気になったのだ。骨と皮だけの肩に居心地の悪さを感じながら、それでも両手の平を駆使して肩揉みを続行する。最初、抗っていた母も次第に抵抗を止めて気持ち良さそうに身を任せてくる。嬉しそうに振り返って笑った。

「あら、マッサージ屋さんじゃないですか。いつも貴方のお陰で助かってるんですよ」

 誰かと間違っているのだろう。部屋に不法侵入した財産目当ての人間からマッサージ屋に転職した佐代子は豪快に、「いいのよ。それが仕事なんだから」と言った。

「ふふ。マッサージ屋さんは良い人ですよね」

 笑顔を象りながらも佐代子を見ていない。そんな年老いた瞳を作ってしまった佐代子には自分が善人であるとは到底思えなかった。母の言葉に相槌を打つことはせずに今は少しでもマッサージに満足して欲しいと、面積のない背中に手を移して指圧する。口数の少ない佐代子に安心感を覚えたのか、構わず老婆は話し続けた。

「娘がね、居るんですよ。いっつも外で遊んでばかりでね、ちっとも家に帰ってこないんですけど、マッサージだけは一流。なんでだと思います?」

「え……」

「あの子ったら、小遣い稼ぎに私の御機嫌とってやがるんですよ。小賢しい娘ですからこう思ってしまうのも癪なんですけどね、……憎さ余って可愛いって言うんでしょうかねぇ。マッサージ屋さんの指圧には劣りますけど」

 そろそろ看護士が巡回に来るのだろう。隣のベッドの見舞い人は帰り支度を始めている。周りの様子を気にせずに、臆面もなく老婆は娘自慢をした。

 幼少の佐代子は変化することなく母の心に納まり、その一方で彼女自身の身体は老いていったのだ。身体を上回って皺だらけになった寝巻きに手の平を乗せて佐代子は幼少時を思い出していた。機嫌を伺ってさすった母の背中は広く温かく、今考えれば家庭を包み込んでくれていた。眼前の老婆の背中にそれを重ねて、手でお碗を形作りながら過去の背中を思い描いてさする。何度も何度も繰り返し。

 看護士の忙しない足音に混じって老婆の声が囁いた気がした。

「ありがとう。佐代子」

「……母さん?」

 休みなく動いていた手がピタリと止まった。

 耳を疑った佐代子が訊き返すが、老婆はぐったりと疲れたように何も喋らない。こんなに体力を使った日はなかったのだ。ベッドに倒れこんで遠い目をする母に、名残惜しくも佐代子はそっと布団を掛けた。そしてとうとう来た巡回に追い出されるように彼女は立ち上がり、白き空間を後にしようと荷物をまとめる。その時、老婆が枯れた声を上げた。

「マッサージ屋さん、また頼みますね」

 その微笑みに、佐代子はまた豪快な笑い声を響かせる。

「今度はプライベートで来ますよ」


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