嫉妬
付き合い始めてから一章は店に来なくなった。
「誰にでも優しい真咲妃さんをみてると嫉妬してしまいそうだから」と。
初めて一章に抱かれた時には、とても優しくてとろけるような言葉をいっぱい囁き夢のような時間を過ごした。
会えない時間が二人を熱くさせそれからは会う度に体を重ねた。
しかし、ある時二人の関係に事件が起きた。
二人は食事を済ませ真咲妃の部屋へ。玄関を入ると一章がすぐに背後から抱きついてきた。
「ちょっと……どうしたの?」
一章は真咲妃の胸をまさぐり始めスカートの中にも手を入れ太ももや臀部も触り始めた。
「ねえ、ちょっと!一章!」
真咲妃は身をよじり逃げようとするが一章は後ろからがっちり掴み真咲妃を離さない。
玄関を入りすぐに真咲妃を求める事は今までなかった。
どんな時でもちゃんと寝室へ行きベットで真咲妃を優しく抱く。
今日の一章はいつもと違う。
一章は何も言わずに激しく抱き、真咲妃は苦痛に涙を流した。
数分後、苦痛でしかない行為が終わった。
「うっ、ひどいよ…っ……どうして?なんで?一章も他の人と同じなの?一章は違うって思ってたのに!」
真咲妃は床に座り込んで泣きながら訴えた。
「ごめん」
肩で息をし、家に入ってから初めて一章が口を開いた。
「自分が思った以上に嫉妬してたみたいです……真咲妃さんは何も悪くないのに。本当にごめん」
自分でも信じられない行動に一章は立ち尽くした。
目の前で真咲妃が泣いている。
泣かしたのは自分だ。
泣いている真咲妃に手を伸ばし身体に触れた時、真咲妃はビクッと身体を震わせ、その反応に一章は伸ばした手を引っ込めた。
「で……って、出てって!」
真咲妃ははだけた洋服を胸の前でかきあわせ、自分を抱くように腕を体にまわして叫んだ。
バタン
ドアが閉まった。
もう終わり。
これでいいんだ……。
どうせそのうちこうなる運命だったんだ。お水のあたしに普通の恋なんて最初っから無理だったんだ。
「うっうっ……」
真咲妃はこらえきれず泣きだした。
「一章……かずあ…きっ」
口に当てた手の間から嗚咽が漏れる。
こんなにも一章を愛していたのに。
「行かないでよ…」
その後、次の出張の時まで二人はお互いに連絡をしなかった。
約1ヶ月後、『ムーンナイト』に常連となった一章の同僚がやってきた。しかしやはり一章の姿はなかった
いつもながら指名された真咲妃は後輩と共にテーブルにつき挨拶を交わした。
「前に一緒にきていた背の高い人、最近こないんですね」
後輩が何気なく同僚達に尋ねた。
「一章?」
真咲妃はその名を聞いて一緒手が止まったが誰も気がつかなかった。
「そうそう、あのかっこいい人」
「あれ?俺たちはかっこよくないの?」
そんな会話をしながら作ってもらった酒のグラスを持ち上げて乾杯をした。
「ちょっと見ないうちにアンナちゃん痩せた?」
以前よりもだいぶ細くなった腕を見て同僚がいった。
「ダイエットしてるんです」
「ダイエットなんかしなくてもアンナちゃんは充分ん可愛いじゃないか」
「誉めてもらうと嬉しい」
真咲妃は笑顔で返した。
「アンナさんここ1ヶ月くらいで急になんですよ。みんなも心配してるんです」
横から後輩が口を挟んできた。
「沙樹ちゃん、お客様が心配になるような事はいっちゃだめよ。あたしは大丈夫ですよ。目標まで来たからこれ以上は無理しません」
「はい、すみません」
真咲妃が沙樹をたしなめると沙樹は謝った。真咲妃も先輩として後輩の失言を謝った。
しかし沙樹が言った通り、真咲妃はこの1ヶ月で5キロ近く体重が落ちてしまった。
あの日からぽっかりと胸に穴があいたようになり、食事が喉を通らずどんどんと体重が減っていったのだ。酒を飲む仕事なので極力仕事の前にはお腹に食べ物を入れているがあまり食べる事はできなかった。
「1ヶ月っていえばここ1ヶ月、一章もなんだかおかしいよな」
同僚のその言葉に真咲妃は反応したがやはり誰にも気づかせず平静を装って仕事を続けた。
「ああ、そうだな。落ち込んでたと思ったら急に怒り出したり。俺たちあいつと付き合い長いけど、あんな一章見たことないな」
「この間なんてひどかったよな……」
「ああ、あん時ね」
同僚二人はタバコの煙を吐きながらため息混じりに話した。
「なにかあったんですか?」
目を輝かせ興味津々に沙樹が食いついてきた。
「沙樹ちゃん」
真咲妃はまたたしなめたが、「大丈夫だよ」と同僚に言われ口を閉じた。
「前の出向開けに向こうに帰って飲んだ帰りだったんだけどさ……——————」
「——————おい一章、お前飲み過ぎじゃねーか?」
いつもよりかなり速いペースで酒を飲む一章に同僚達は声をかけた。
「あ?ほっとけよ!」
二人はお手上げと言うように肩をすくめ一章を見ていた。
その帰り道、やはり酒を飲み過ぎたのか自分たちと同じ様なサラリーマンが絡んできた。普段は相手にせず通り過ぎるはずだか、一章はそのケンカを買ってしまった。
酒場が多く集まる場所の道の真ん中で、一章は絡んできた俺を殴り倒した。
加勢してきた俺たちにも殴りつける有り様だった。
3対1のケンカだったが、目に見えて一章の方が圧倒的に強かった。
誰かが通報したのか、遠くから警官がやってくるのが分かった。同僚二人は暴れる一章を無理やり羽交い締めにし警官が到着する前にその場を後にした—————————。
「あん時の一章、完全に目がいってたよな」
同僚二人は顔を合わせて頷いた。
「その後もさ、週明け会社にくるたびに痣とか傷つくってきてさ。さすがにおかしいって思って、理由を聞いても『何も変わってない』の一点張りでさ……」
「最近はだいぶ落ち着いてきたけど。今日も一緒にこっちに出てきてるから誘ったのに「いい」って一言で片付けてさっさと帰るし。最近付き合い悪いよな…。あいつどうしちまったんだろう」
目を輝かせながら聞いていた沙樹は得意げにこう言った。
「きっと失恋したんですよ。大失恋を」
その言葉に真咲妃の表情一瞬は暗くなった。
「失恋?あいつ彼女いたっけ?」
「さあ、しら……」
同僚の言葉を遮り、またもや沙樹が口を挟んできた。
「彼女じゃなくても片思いだったとか?」
沙樹は鼻息を荒くして「絶対に失恋だ」と自分の意見を全面にだした。
会社の昼休み、いつもの三人は昼食後ののんびりした時間をすごしていた。
「ああそうだ」誰に言うでもなく1人が口を開いた。
「昨日のアンナちゃんさ、すげー痩せちゃってたよな。ダイエットって言ってたけどあれはちょっと痩せ過ぎじゃないかってぐらいだったぜ」
「だよな。アンナちゃんの手前、『ちょっと痩せた』なんて言ったけど元から細い子だったもんな」
「そんなに?」
コーヒーを飲む手を止めて一章は同僚達の顔をみた。
「ああ。なんだよ、気になるんだったらお前も今日行くか?」
一章の耳には同僚の声が聞こえていなかった。
就業の時間がくると一章はさっさと机の上を片付け、足早に廊下を歩いていった。
「おい一章!今日行くんじゃなかったのかよ!?」
「悪い、用事が出来た」
一章は半身で振りかえり手をあげると階段を駆け下りていった。
真咲妃はとりあえず食べられる物だけ口に入れ支度を整えると玄関を出た。鍵をしめヒールの音を響かせ歩いて行くと目線の先に一章を見た。
「一章……」足を止めていると一章が歩いてきて声をかけた。
「ちょっといい?」
一章は真咲妃の手首を取るとその細くなった手首にびっくりしながらもゆっくりと歩き出した。
少し歩いた先に小さな広場かある。夏の間は子供達を遊ばせる親子でかなり賑やかだが、冷たい風が吹くこの時期のこの時間、誰一人この広場にはいなかった。久しぶりに見る真咲妃は同僚が言った通りかなり痩せてしまっていた。掴んだ手首を離さず真咲妃に向き合うとためらいながら口を開いた。
「真咲妃さん……久しぶり」
真咲妃は久しぶりに見る一章の姿と掴まれた手の感覚、久しぶりに聞くその低い声に『逢いたかった』という感情が溢れ出し、涙が出そうになったが下唇を噛み涙が出るのを堪えた。
うつむき目を合わせない真咲妃。掴んだ手を離したら消えてしまいそうでその手をつかんだまま話しかけた。
「ごめん……本当に。自分のした事が許せなくて、しばらく頭冷やしてた。ごめん、ごめん……今更謝っても許してくれないってわかってるけど」
一章は何度も謝った。
自分を掴んでいる手が小さく震えている。
少し顔を上げるとうつむき加減の一章の頬に一筋光るものがあった。片手でそれを拭うと意を決したように顔を上げると重い口を開いた。その目は赤かった。
「見たんです……。先月やっと仕事が終わった時にはすっかり日は落ちて暗くなってた。同僚達に誘われて遅めの夕飯を食べに歩いていた時店の近くを通って……」
そこまで一気にしゃべると掴んだ手にグッと力が入った。
「店の外で客の男が真咲妃さんに触れるのを。そして頬にキスするのを」
握りしめた拳が怒りで震えていた。
「あれは仕事のうちだと自分に言い聞かせてました。だけど真咲妃さんが俺以外の男に触られたかと思うと……理性が保てなかった、自分が制御出来なかった!俺はなんて心の狭いヤツだって思った」
堪えていた涙が頬を伝い泣きながら真咲妃はボソッと言った。
「やっぱりあたしの仕事が原因なんだね。彼氏と別れた子はいっぱいいるし、あたしも例外じゃないけど。仕事辞めろって言ってきたり、時には暴力もふるわれて……みんなそう。だからあたしはこの仕事している限り彼氏は作らないって決めてたの。だってあたしこの仕事が好きなんだもん。嫌な客もいるけど、暗い顔して店に入ってきたお客様が『楽しかった。ありがとう』って笑顔で帰るとき、あたしこの仕事してて良かったって思うの」
一気にまくし立てるように真咲妃の口は止まらなかった。
「嫌でしょう?仕事とはいえ知らないところで知らない男に触られてる女なんて……」
真咲妃は顔を上げて初めて一章の顔を見た。その顔には薄い痣があり治りかけの傷もあった。
そして無理に笑顔を作ると一章に言った。
「……別れよう。ちゃんと別れよう」
そうが言うと一章は悲しそうな顔をし、真咲妃は顔を背けた。これ以上一章の顔を見たら決心が揺らぐから。
「俺がわるいんだ。真咲妃さんがそう言うなら、俺は真咲妃さんの前から消えるよ」
そういって掴んでいた手を離した。その瞬間急に空気の冷たさが身にしみてきた。
「ごめんね、今までありがとう……さようなら」
何度も真咲妃の事を『好きだ』と言った声。変わらぬその声で別れの言葉を告げられた。目の前が真っ暗になるように真咲妃微動だにしなかった。横を通り過ぎる一章から変わらぬ彼の匂いがした。
その瞬間、真咲妃はせきを切ったように泣き出した。泣いても泣いても悲しみは一向に減らず涙が止まらなかった。
「か、一章……」
立っていられなくなり座り込んだ真咲妃の身体を、一章が後ろから抱きしめた。
真咲妃は体を震わせ再び号泣した。
「俺の事許さなくてもいい、真咲妃さんがいやと言うなら俺は真咲妃さんの前から消えるよ。だけど、俺には真咲妃さんが必要なんだ」
「あたしだって、一章がいないともうダメだよ」
真咲妃はゆっくりと振り返って、微かにタバコの匂いがする一章の胸に飛び込んだ。
「別れたいなんて嘘。離れたくない!離さないで、お願いだから」
一章の体をキツく抱きしめ泣きながら懇願した。
「俺だって離したくない。離れたいって言っても絶対に離さない」
そう言うと一章は真咲妃の身体をきつく抱きしめ「ごめん、ごめん……。真咲妃さんごめん」また何度も何度も一章は謝った。
二人はしばらく何もいわずに抱き合った。顔は涙でぐちゃぐちゃだった。
「……ひどい顔してますよ」
だいぶ落ち着いた真咲妃に一章が笑って言った。真咲妃が涙を拭くとつけまつげがポロッと落ちた。それをみて二人は顔を合わせ笑った。久しぶりに見る大好きな一章の笑顔。嬉しかった。止まったはずの涙がまたこぼれ落ちた。
真咲妃は店に電話をし今日は休みたいと申し出た。ここ最近の真咲妃の様子を心配していたママは快く引き受けてくれた。
二人は手を繋いで真咲妃の部屋へ行き、離れていた時間を埋めるようにしばらく立ったまま無言で抱きしめあった。
「痩せたね……さっき手首を掴んだときびっくりした」
「あたしダメね。一章がいないとご飯も喉を通らなかった」
「何か食べる?」
「何もないの……食べられなくて買い物にも行ってなくて……」
一章はカバンからチョコレートのスティックバーを取り出した。
「こんなのしかないけど食べる?」
真咲妃は手渡されたスティックバーを少し口に入れ「おいしい」と微笑んだ。
「真咲妃さんからの罰は何でも受けます。なんでも言って下さい」
一章が真咲妃の目を見て言った。
「じゃあ、抱きしめて。優しく。あたしがいいよって言うまで優しく抱いて離さないで」
「分かりました」
一章はニコッとすると、真咲妃をお姫様抱っこし寝室へと消えた。
久しぶりにしたキスはチョコレートの甘い味がした。