変わらぬ愛
「ただいま」
寝室を覗くと彼女はベッドで横になっていた。
「あっ、おかえり」
俺に気が付き起き上がろうとする彼女を止めもう一度ベッドへ横にならせた。
「ごめんね……起きられなくて。ご飯の用意も出来てないの」
申しわけなさそうに目をふせて彼女は謝った。
「いいよ、大丈夫。あるもので済ませちゃうから。真咲妃さんは横になってて」
妊娠が発覚して以来、彼女はひどいつわりに悩まされていた。
食事も取れずほぼ一日中横になっており、一週間に一度は病院へ点滴をうちにいっている。
「つわりがあるってことは赤ちゃん元気って証拠なんでしょう?」
俺はベッドの横に座り目の高さを合わせて微笑み彼女を元気づけた。
彼女に付き添って病院に行った俺は医師に呼ばれ診察室へ入った。
「初期からの出血が続いています。安静の指示は出してありますが、検査の結果が思わしくないんです」
医師は難しい顔をしながらカルテを横に退けると重い口を開いた。
「子宮摘出の可能性がきわめて高いです」
「え?今なんて?」
俺は医師の言葉を頭の中で理解することが出来ずに続けて言った。
「まって下さい。真咲……妻のお腹には赤ちゃんが……やっと授かった命なんです!」
医師は何とも言えないような複雑な顔でカルテを覗いた。
「奥様は以前から生理不順ではありませんでしたか?」
「はい、確かにそうですが」
「不妊の原因はそこにありました」
「残念ですが赤ちゃんは今の状態では助かる見込みはありません。出産することは無理です。しかもこのまま放っておけば、奥様の命も危ないんですよ?」
奈落の底に突き落とされたようだった。
結婚8年目でせっかく授かった命なのに……
彼女もやっと授かった小さな命をあんなに喜んでいたのに。
「奥様にも危険性について少しお話ししてありますが摘出の件はまだ……。出血の量が多いので今週中にお返事を頂きたんです。奥様とよく相談して下さい」
「相談?相談ったって選択肢はないじゃないですか!」
俺は声を荒げ医師に言葉を投げつけた。
医師の申し訳なさそうな顔をみて俺はがっくりと肩を落とした。
病室のベッドの上では出血止めとつわりで失われた栄養剤の点滴をされた彼女が虚ろな目で天井を見つめていた。
ドアのところに立っている俺に気が付くと彼女の顔に笑顔が戻った。
「赤ちゃんは大丈夫?」
「うん」
「良かった」
彼女の笑顔に胸が締め付けられる。
これから残酷な話しをしないといけないなんて……、いえる訳ない。赤ちゃんの無事をこんなに喜んでいるのに。
「どうしたの?」
「え?」
いつもと様子の違う俺に彼女はベッドから手を伸ばして俺の腕に触れてきた。
「すごく辛そうな顔……」
「点滴痛そうだなって。俺、注射とか点滴苦手なんです」
「痛くないよ、弱虫だね一章は。赤ちゃんの為だったらどんなに痛いことでも耐えられるよ」
まだ膨らんでいないお腹をさすりながら微笑む彼女の手に俺は自分の手を重ねた。
「母親って強いんですね」
「一章だって父親よ。この子のパパはあなたなの。しっかりしてね」
ふと目が覚めた。
自分の隣に寝ているはずの彼がいない。
ベッドから起き上がり隣の部屋のドアを開けると、背を向けソファーに座っている彼の姿があった。
「一章……?」
声を掛けられ顔を上げた彼の頬に一筋の涙の光っていた。
「どうしたの?」
部屋に入ってきた彼女は俺の頬を流れる涙を指でなぞった。
「……っ」
彼女はこんなに頑張っているのに。
俺はどうしたら……。
ただ見守るしかないのか……。
「一章?」
戸惑う彼女の体を涙で濡れた頬のまま抱きしめた。
結局その後、真実を彼女に伝えることはできないままあの日を迎えてしまった。
仕事中携帯が鳴った。
着信は彼女からだ。
仕事中に電話をかけてくるのは珍しい。
何かあったのか?
俺は不安な気持ちで急いで廊下にでると通話ボタンを押した。
「一章!どうしよう!!」
電話の向こうの彼女はパニックになっていた。
「真咲妃さん落ちついて!なにがあったんですか」
言葉を詰まらせながら電話口で彼女が泣いている。
「血が……血が止まらないの。いっぱい出てきてる、どうしよう、一章……。赤ちゃんがっ……」
俺は電話を切ると机に置いてある鞄を引ったくるように取り廊下を走った。
「おい、どうした?真っ青だぞ」
通りかかった藤井が、様子のおかしい俺に声を掛けた。
「悪い藤井。急用ができた。部長に言っといてくれ」
エレベーターのボタンを押し階数の光をみた。が、すべてのエレベーターは来るまで時間がかかりそうな階にいる。
「くそっ!」
エレベーターのドアを拳で叩くと脇にある階段のドアを開けた。
途中階段を踏み外しそうになったが、どうにか十数階分の階段を駆け下り駅に向かって走った。
「————救急車を呼んだから家で待ってて下さい。真咲妃さん聞いてますか?」
「う……ん……」
「俺もすぐに病院に向かうから!」
会社をでる前に救急車の手配をし彼女にも折り返し連絡した。
病院に着くと自動ドアが開くのももどかしく、病院に駆け込み産婦人科の病棟へ走った。
「望月ですが妻が救急車で運ばれて……」
「ねえ一章。もし赤ちゃんが出来て万が一の事が起きて、どっちかしか助けられないってなったら赤ちゃんとあたしどっちを選ぶ?」
いつだったか、随分昔にこんな話をした。
「随分と縁起の悪い話ですね。そんな事にならないように俺は真咲妃さんの傍を離れませんよ」
「もう、万が一の話よ。そんな事一生のうちで起こる可能性は低いけど。一章はどっちを選ぶ?」
「俺はどちらも選ばない。絶対に全力で二人とも守りますよ」
「ふふっ、一章だったらできそうだね」
彼女は俺に寄り添いながら続けてしゃべった。
「あたしはね、赤ちゃんを助けてほしいな。だってやっとできた赤ちゃんだし、やっと一章が赤ちゃんを抱けたのにそれを奪うことはできないな。そしてあたしは空から二人をずっと見守ってるの」
彼女は俺を見上げて
「でもそんな事にならないようにしないとね」と笑った。
まさかその『万が一』が起ころうとは夢にも思わなかった。
緑色の手術着を着た担当医が奥から現れ、処置室の隣の部屋に案内された。
そして『同意書』という紙を机の上に差し出した。
彼女は既に手術室に入りこの同意書のサイン次第で手が始められる状態で待機しているらしい。
「望月さん、奥様の体はもう限界です。開けてみないとわかりませんが、全摘出を考えています。残念ですが赤ちゃんはあきらめてください」
担当医は俺が平静を保てるように静かな口調で説明をした。
「温存方法は無理ですか?」
俺は藁にもすがる思いでインターネットでいろいろ調べた結果『温存方法』という方法があることを知ったのだ。
「真咲妃……妻はまだ若いんです。子宮を取ってしまったら……病気が治った後もしかしたらまた子供が出来るかもしれない」
「望月さん、お気持ちはわかります。奥様もまだ若い。しかし先ほども言った通り開けてみないとわからないんです。残せるものなら残してあげたいと私も思ってます」
俺は震える手で目の前の紙に署名した。
「お願いします」
「分かりました。それではお預かりします。手術が終わりましたら声をかけますのでこちらでお待ちください」
担当医はその紙を手に部屋を出て行った。
「うっ…くっ……」
部屋に一人残された俺は声を押し殺しながら涙を流した。
どんな神様でもいい。
彼女と彼女のお腹にいる小さな命を救ってくれ。
俺は普段信じてもいない神に祈った。
ここはどこだろう?
どこかの遊園地?周りにはカップルや家族連れと思われる人達が行き交っていた。
覚えのない場所に立っているあたし。
気が付くと小さな女の子があたしの手を握っている。
「あれ?迷子?」
あたしは自分の手を掴んでいる女の子を見た。目のクリクリしていて可愛らしい子だった。
女の子の目の高さに合わせて座ると「パパやママは?」と聞いた。
女の子はにっこりするだけで何も言わなかった。
どうしよう?迷子だよね……
相変わらずニコニコと笑っている女の子に「お姉ちゃんと一緒にパパとママ探そうか?」と声をかけて歩き始めた。
しばらく歩いていると
「あっ呼んでる」
と女の子が急に手を離して走っていった。
「あっ。あんまり走ると危ないよ」
走る女の子に呼びかけると、その子はくるっと振り向いてまたあたしの元に走ってきた。
「あんまり泣いちゃあだめだよ。パパが心配するから」
「え?パパ?」
あたしが聞き返すとニコッと笑い女の子は走っていってしまった。
「ちょっと待って……」
女の子はあたしの質問には答えず走っていってあっという間に人ごみの中に消えてしまった。
女の子が去った後には何故か彼と同じ匂いが残っていた。
——ここどこ?
ぼやける視界がはっきりしてくると白い天井が目に入った。
確か部屋にいたとおもったけど……。
目を覚ましたあたしは自分が酸素マスクをしている事に気が付いた。
そして誰かに手を握られていることも。
そのまま頭を巡らせると彼がいた。
彼は自分の手を両手で包み込むようにしてうつむいていた。
ピクッと手を動かすと彼が顔をあげた。
「真咲妃さん」
その目は泣きはらしたかのように真っ赤だった。
「かず……あ…き」
マスクをしたままで彼の名前を呼ぶ。
声が小さすぎて聞こえないと思ったがしっかり聞こえていたみたいだ。
微笑む俺につられて彼女も弱々しく微笑んだ。
「赤ちゃんは?」
その一言に俺はつい目をそらしてしまった。
手術後担当医から説明があった。
開けてみたところ思った以上に状態が悪かったらしく、全摘出はやむを得なかったと説明を受けた。
子宮と一緒に赤ちゃんは摘出された。
16週と5日だった。
赤ちゃんを失ったどころか、今後二度と子供を身ごもる事も出来なくなってしまった。
こんなこと今は言えない。
「ダメだったんだ……」
俺の態度で彼女は赤ちゃんがいなくなった事を悟ったらしい。
すると彼女の目からは大粒の涙が流れてきた。
「ごめんっ」
彼女の目から涙が溢れ出てきて止まらない。
「なんで謝るんですか?真咲妃さんは何も悪いことしてませんよ」
「うっう……だって、赤……赤ちゃん……がっ」
彼女は点滴の刺さっていない自由な方の手で顔を隠しながらむせび泣いた。
「やっと……一章にあ、赤ちゃん抱かせ……てっ、あげられるっ……っておも…………たのにぃ……ううっ」
まだ麻酔の効いている彼女は摘出手術の傷の痛みを感じていない。赤ちゃんがいなくなっただけだと思っているだろう。
しかし傷口の消毒の時に疑われるだろう。
なぜ傷があるのかを。
赤ちゃんがいなくなっただけではこんな傷跡は付かない。
医師や看護師にいわれる前に俺の口から言った方がいいのか?
「ま、真咲妃さん……」
泣いている彼女を前にして、次の言葉が喉の奥から出てこない。
「実は…………」
やっぱりダメだ……言えない!
俺は一体どうすればいいんだ……。
翌日、朝一番で彼女に会いに行き昨日言えなかった『悲しい事実』を彼女に伝えた。
「真咲妃さんごめん。昨日言えなかったけど実は……」
「……うん……。分かった…………赤ちゃんがあたしを守ってくれたんだね」
彼女は涙を見せずに真実を受け入れた。
それから入院中、彼女は赤ちゃんを失った悲しみを一切見せず常に笑顔だった。
退院し家に帰った二人はテーブルを挟んで何気ない話をしていた。
「——でね……」
突然話が切れ俺は正面の彼女を見た。彼女はうつむき微かに肩を震わせていた。
「真咲妃……さん?」
「一章っ……」
顔を上げた彼女は肩を震わせて泣き出した。
「やっぱり悲しいよ。ねえ一章。赤ちゃんいなくなっちゃったよー!」
お腹に手を当てながら彼女は嗚咽をもらした。
俺はテーブルの向こう側に駆け寄ると泣いている彼女を何も言わずきつく抱きした。
そして俺の目からも涙が流れ落ちた。
俺たちはお互いの気が済むまで抱き合いながら泣き続けた。
そして夜はお互いの体の温かさを確かめるように抱き合って寝た。
そんな日が続いて数ヶ月が経ち、術後数回の定期検査ののち夫婦生活の許可がおりたが俺達が身体を交わすことはなかった。
「愛ちゃん見てるかな?」
「愛ちゃん?」
「うん。空に帰っていったあたし達の赤ちゃん。絶対に女の子だったと思うんだ。あたし赤ちゃん女の子だったら女の子らしい名前つけたかったんだ」
あれから数ヶ月たち、彼女の心と体はゆっくりと回復していった。
よく晴れたある週末、俺達は久しぶりに遠出をし景色の良いホテルに泊まった。
そして久しぶりに身体を重ねた。
その晩は月が美しく、月光に照らされた彼女の身体は前にも増して美しかった。
次の日、近くにある広い公園をゆっくりと二人で散歩した。
足元には色づいた葉がカサカサと風に吹かれて飛んでいく。
空を見上げながらゆっくりと歩きながら彼女は俺を見た。
「『愛ちゃん』ってかわいいでしょ?あたしと一章の愛でできた子だよ。いいでしょ?愛ちゃんって呼んでも」
「そうですね、『愛』か……。かわいらしいしキレイな名前ですね」
「愛ちゃーん、聞こえてる〜?パパとママはここにいるよ〜」
彼女は空に向かって両手を広げて叫んだ。
俺は知っているよ。
こんなに元気そうに気丈に赤ちゃんの事を語る彼女が、あの日以来エコー写真が入った小さなアルバムを抱きしめて毎晩泣いていることを。
一生消えない傷を作ったのは俺だ。
ごめん。
何度謝ってもその傷が癒えないことは知っている。
俺たちふたりは今回のことでお互いにもう謝らないと決めた。
どっちが悪いというわけではないんだから……と。
ゆっくりと歩く彼女の足が止まった。
俺は少し歩いたところで足を止め後ろを振り返った。
「真咲妃さん?」
彼女はなんとも言えない顔をしながらつぶやいた。
「ねえ…、あたしこれからも一章の隣にずっといていいの?」
「なんで?」
俺は立ち止まる彼女の元に行きちょっと冷たい彼女の手を握った。
「だって……赤ちゃん……もう無理だし……」
うっすらと涙目になっている彼女の手を引っ張って俺は彼女を胸に抱いた。
「俺、結婚する時に言いましたよね、真咲妃さん?」
「うん、覚えてる」
「じゃあそんな事言わない!俺はだれでもない、いま俺の前にいる望月真咲妃が一番いいんです。どんなになっても、共に白髪になっても絶対に離しませんから」
俺の胸に顔をつけたまま彼女は「うん」と小さくうなづいた。
俺は更に強く彼女を抱きしめる。息もできないくらいにぎゅっと。
そして彼女の耳元でこうささやいた。
「真咲妃愛してる。俺が守る。一生離さないから」
「うん、ありがとう嬉しい。あたし一章と出会えてよかった」
風が吹き木々の葉を揺らすし葉が風に舞う。
彼の匂いに包まれその温かい胸に抱かれながらつむっていた目を開くと、小高い丘の向こうから見覚えのある女の子が走って来るのが見えた。
走ってきた女の子はすれ違う瞬間あたしと目があった。
そして少女はニコッと微笑み走り去っていった。
「何?どうかした?」
彼に話し掛けられ一瞬目を離した隙に女の子はいなくなっていた。
振り返ってもあの女の子はどこにもいなかった。
「ううん、なんでもない」
彼の腕に自分の腕を絡ませ歩き始めた。
揺らされた木々の音に混じって小さな女の子の笑い声がした気がした。
ママ泣いちゃあだめだよ。パパが心配するから…………