第36話 吸血姫の願いと、禁断の星位解放
最初に異変を感じたのは、恒一自身だった。
ここ数日、空間操作の訓練を続けていたせいか、頭の奥に重い疲労が残っている。固有異空間の制御も、以前よりわずかに安定してきたとはいえ、まだ長時間維持できる状態ではなかった。
それでも、少しでも早く自分の力を理解したい。仲間たちと肩を並べて戦えるようになりたい。その思いから、恒一はつい無理を重ねていた。
「……っ、まずいな……」
頭の奥が軋むように痛んだ。
視界が揺れ、床が傾いたように感じられる。恒一はとっさにテーブルへ手を伸ばしたが、指先が縁を捉える前に、膝から力が抜けた。
「恒一!」
リゼリアの叫び声を最後に、恒一の意識は暗闇へ沈んだ。
◇
「恒一さん! しっかりしてください!」
最初に駆け寄ったのはセレスだった。
彼女は恒一のそばに膝をつき、呼吸と脈を確かめる。目立った外傷はない。しかし、呼びかけても返事がなく、顔色も悪かった。
「生命に関わるような外傷は見当たりません。でも、ひどく疲弊しています……。最近、無理をしていませんでしたか?」
「空間操作の訓練を続けていたわ。固有異空間のことも、ずっと調べていたもの」
リゼリアは恒一の手を握りながら答えた。
「私たちが止めるべきだったのかもしれないわね……」
「リゼリアさんのせいではありません」
エレナは不安そうに恒一の顔を見つめた。
「恒一さんは、いつも自分のことを後回しにしてしまいますから……」
「やだよ、恒一。起きてよ……」
コハクは獣耳を伏せ、そばで拳を握りしめた。
「あたし、まだ一緒にやりたいことがいっぱいあるんだから……」
フィリアも、いつもの好奇心に満ちた表情を消していた。恒一が最近使ったスキルと、訓練の内容を思い返している。
「空間固定を使うたびに、集中力をかなり消耗していたはずよ。固有異空間への出入りも、まだ精神的な負担が大きい。疲労が積み重なって、限界を超えた可能性があるわ」
「では、まず休ませる必要がありますね」
セレスは静かに頷いた。
「治癒魔法で身体の状態を整えることはできます。でも、精神的な疲労そのものを一瞬で消すことはできません。十分な休息が必要です」
リゼリアは恒一の手を、そっと両手で包み込んだ。
「わかったわ。ここで休ませましょう。目を覚ますまで、私たちがそばにいる」
彼女の声には、いつもの余裕がなかった。
恒一が自分の力を理解しようと努力していることは知っている。仲間を守りたいと願っていることも。
だからこそ、彼が自分自身を壊すほど無理をする姿だけは、見たくなかった。
◇
恒一が次に目を開けたとき、柔らかな寝具の感触があった。
宿の部屋のベッドだった。
窓から差し込む光は穏やかで、部屋の中には静かな空気が流れている。そして、すぐそばにはリゼリアが座っていた。
「……リゼリア?」
「おはよう、恒一」
彼女は安心したように微笑んだ。
「もう丸一日近く眠っていたのよ。心配させてくれるわね」
「そんなに……?」
「ええ。セレスが身体の状態を確認してくれたわ。今は落ち着いているけれど、まだ無理は禁物よ」
「みんなは?」
「元気よ。あなたが目を覚ますのを、ずっと気にかけていたわ」
「そっか……よかった」
安心した途端、恒一の身体から力が抜けた。
リゼリアは彼の肩を支え、枕の位置を整えた。
「今は起き上がらないで。無理をしたら、また倒れるわ」
「でも、みんなに心配をかけたし……」
「だからこそ、今は私の言うことを聞いて」
いつになく真剣な声だった。
恒一が黙ると、リゼリアは少しだけ表情を和らげた。
「……ねえ、恒一。少しだけ、こうしていてもいい?」
「どうしたんだ?」
「私だって、怖かったのよ」
彼女は視線を伏せた。
「あなたが目を覚まさなかったらどうしようって。そんなことを考えてしまったわ。あなたはいつも、何かあると自分で何とかしようとするでしょう?」
「……悪かった」
「謝ってほしいわけじゃないの」
リゼリアは恒一の手を握り直した。
「ただ、あなたが苦しいときくらい、私にも頼ってほしいの。最初に契約した相手だから、というだけではないわ。私は、あなたのそばにいたいのよ」
恒一はゆっくりと腕を伸ばした。
「ありがとう、リゼリア」
彼女は一瞬だけ目を見開き、それからそっと恒一の胸元に身を寄せた。
恒一が背中に腕を回すと、リゼリアも彼を抱きしめる。
「……本当に、無茶ばかりするんだから」
「これからは気をつけるよ」
「その言葉、忘れないでね」
二人はしばらく、そのままでいた。
やがてリゼリアが身を離そうとしたとき、恒一は彼女の表情に、いつもとは違う不安が残っていることに気づいた。
「リゼリア」
「なに?」
「心配してくれて、ありがとう。君がそばにいてくれてよかった」
リゼリアの頬が、ほんのりと赤くなる。
「……そういうことを、平気で言うのね」
「本当にそう思ったんだ」
「わかっているわ。だから、困るのよ」
彼女は小さく笑い、恒一の額にそっと手を当てた。
「まだ熱っぽさも疲れも残っているわ。今日は休むこと。食事も睡眠も必要よ。みんなが交代で様子を見に来るから」
「わかった」
「よろしい」
リゼリアは満足そうに頷いた。
そのとき、恒一の意識の奥で、何かがかすかに反応した。
魔力が増えたわけではない。傷が瞬時に治ったわけでもない。ただ、リゼリアの手の温もりを感じながら呼吸を整えていると、張り詰めていた意識が少しずつ落ち着いていく。
視界の奥に、淡い文字が浮かんだ。
《契約者:リゼリア》
《共鳴反応:微弱》
《精神負荷:緩和傾向》
「……これは?」
「どうしたの、恒一?」
「いや……君と一緒にいると、少し気持ちが落ち着くみたいだ」
「ふふ。それなら、しばらくそばにいてあげるわ」
リゼリアは優しく微笑んだ。
その言葉に、恒一の胸が温かくなった。
◇
翌日から、他の仲間たちも交代で恒一の様子を見に来た。
エレナはベッドの脇に座り、静かに手を握った。
「恒一さん……。もう、無理をしないでくださいね」
「気をつけるよ」
「約束ですよ?」
普段なら言葉を選ぶ彼女が、その日はなかなか手を離そうとしなかった。
「恒一さんが倒れたと聞いたとき、本当に心配したんです。だから……元気になったら、また一緒に訓練してください」
「ああ。無理のない範囲でな」
エレナはほっとしたように微笑んだ。
コハクは遠慮なく椅子を引き寄せ、元気づけるように恒一の肩へ手を置いた。
「元気になったら、いっぱい遊ぼうね! あと、おいしいものも食べよう!」
「それは楽しみだな」
「約束だからね! でも、今はちゃんと休むこと!」
いつもの元気な声だったが、尻尾は心配そうにゆっくり揺れていた。
セレスは恒一の身体の状態を確認し、必要に応じて治癒魔法を施していた。
「今は身体を休めることだけ考えてください。皆さんを守ることばかり考えて、ご自分を後回しにしないでくださいね」
「……わかった」
「本当に、わかっていますか?」
いつも控えめな彼女が珍しく強い口調で言うので、恒一は苦笑した。
「今度こそ、気をつけるよ」
「その言葉を信じますね」
フィリアは、恒一がこれまでに記録していた空間操作の訓練記録を確認していた。
「研究者としては、今回の疲労とスキルの使用回数を詳しく分析したいところだけれど……」
彼女は記録用紙を閉じた。
「今は研究より、あなたの回復のほうが大切ね。調査は、あなたが元気になってからでも遅くないわ」
「助かるよ、フィリア」
「その代わり、回復したら訓練記録を一緒に整理してもらうわよ」
「ほどほどに頼む」
「努力はするわ」
フィリアは少しだけ笑った。
仲間たちの思いやりが、恒一の心を支えていた。
疲労がすぐに消えるわけではなかったが、十分な睡眠と食事を取り、セレスの治癒魔法で身体の状態を整えていくうちに、少しずつ体力が戻ってきた。
数日後、恒一はようやく自力でベッドから起き上がれるようになった。
そのとき、意識の奥に淡い表示が現れた。
《空間操作:制御状態を記録》
《空間固定:使用後の精神負荷を確認》
《固有異空間:初期領域》
《領域規模:極小》
《入退室:確認》
《領域維持:不安定》
《解析:継続中》
見慣れた表示だった。固有異空間は相変わらず小さな灰色の部屋で、ベッドと明かりがあるだけだ。自由に広げられるわけでも、仲間を招き入れられるわけでもない。
しかし、その下に、見慣れない一行が浮かび上がった。
《星位解放:潜在反応を検出》
恒一は眉をひそめた。
「星位解放……?」
初めて見る言葉だった。
星位――それは、十五歳で授かる★ランクに関わるものだ。通常、授かったランクが生涯にわたって変わることはない。それが、この世界の常識だった。
恒一は表示を確かめようと意識を集中させた。しかし、文字はすぐに消えてしまった。
「……気のせい、じゃないよな」
何か重要なものに触れたような感覚だけが残っていた。
だが、今の恒一には、その正体を調べるだけの余力がない。彼は深追いせず、再びベッドに腰を下ろした。
まずは回復すること。それが先だった。
◇
さらに数日が過ぎ、恒一はようやく普段に近い生活を送れるまでに回復していた。
六人は宿の一室に集まり、今後の訓練と装備について話し合っていた。
「まずは、今ある装備を見直しましょう」
フィリアが机の上に資料を並べた。
「これまでの戦闘で、私たちの連携には改善の余地があるとわかったわ。新しい装備を一度に作るより、今の武器や防具を確認して、必要な部分から改良するほうが現実的ね」
「武器だけじゃなく、防具もだな」
恒一は頷いた。
「強い敵と戦うなら、攻撃力だけを上げても意味がない。回避できなかったときに、命を守れる装備が必要だ」
「その点は任せて。まずは重量や扱いやすさ、耐久性を記録して、どこを改善できるか考えてみるわ」
フィリアは資料に目を落とした。
「魔石についても、すぐに装備へ組み込むのではなく、性質を調べてからにしたいわ。未知の反応があるものを安易に使うのは危険だから」
「弓も、もっと扱いやすくしたいです」
エレナが資料を指差した。
「弦の張りや矢の安定性を確認できれば、今の武器でも命中精度を上げられると思います」
「私の短剣もお願い!」
コハクが勢いよく手を挙げた。
「軽くて、扱いやすくて、長い時間動いても疲れにくいのがいいな!」
「セレスは?」
恒一が尋ねると、彼女は少し考えてから答えた。
「私は、治癒と防御の支援をもっと素早く行えるようにしたいです。杖の扱いも含めて、戦闘中に落ち着いて動けるよう訓練したいと思います」
「装備だけで解決しようとせず、使い方も含めて考えるべきね」
フィリアはすぐに書き加えた。
「リゼリアはどうだ?」
「私は今の剣でも十分に戦えるわ。ただ、恒一の空間操作と連携するなら、互いの動きをもっと理解する必要があるわね」
彼女は紅い瞳を細めた。
「武器を変える前に、まずは二人で連携を試してみたいわ」
「そうだな。俺の《空間固定》はまだ使える範囲も短いし、無理に合わせようとすれば、また精神的な負担が大きくなる」
「だからこそ、少しずつ練習するのよ。倒れるまで頑張るのは禁止」
「……はい」
恒一が素直に答えると、リゼリアは満足そうに笑った。
「よろしい」
こうして、全員の装備を点検し、訓練内容を見直すことが決まった。
派手な新装備も、すぐに使える未知の力もない。それでも、今の自分たちにできることを一つずつ積み重ねる。それが、次の戦いに備えるための確かな一歩だった。
恒一は、倒れている間に気づいたことを思い返した。
自分は仲間たちを守りたいと思っている。けれど、仲間たちもまた、自分を支えようとしてくれている。
その事実が、以前よりもはっきりと胸に刻まれていた。
◇
その夜。
恒一は宿の部屋で一人、今日までの出来事を振り返っていた。
五人との出会い。それぞれとの信頼。そして、まだ使いこなせない自分の能力。
星位解放。
生涯変化しないとされる★ランクに関係する力なら、この世界の常識を覆す可能性がある。
もし、その存在が知られれば、王族や貴族、ギルド、魔法研究者たちが、自分を利用しようとするかもしれない。
仲間たちまで巻き込まれる可能性もある。
「……今は、まだ誰にも話せないな」
恒一は小さく呟いた。
もちろん、まだ確かなことは何もわかっていない。あの表示が何を意味するのか、星位にどんな影響を与えるのかも不明だ。
だからこそ、軽々しく口にするべきではない。
恒一が考え込んでいると、背後から声がした。
「何を考えているの、恒一?」
振り返ると、リゼリアが立っていた。
「少し、これからのことをね」
「そう」
彼女は隣に腰を下ろし、そっと恒一の手を握った。
「でも、一人で抱え込まないで。あなたが私たちを支えてくれるように、私たちもあなたを支えるのだから」
「ああ。ありがとう」
リゼリアは満足そうに微笑んだ。
「それに、何か隠していることがあるなら、話せるようになったときに教えてくれればいいわ。無理に聞き出すつもりはないもの」
「……助かるよ」
「その代わり、無理をして倒れるのは二度となし。これは譲れないわ」
「わかった。約束する」
恒一が頷くと、リゼリアは彼の手を優しく握り直した。
その瞬間、恒一の意識の奥で、あの文字が一瞬だけ浮かび上がった。
《星位解放:潜在反応》
《契約者:リゼリア》
《共鳴条件:未確定》
恒一は、その表示に気づかなかった。
まだ、何が起きるのかは誰にもわからない。星位解放が本当に発動するのか、それが何をもたらすのかも、すべては謎のままだ。
ただ一つ確かなのは、恒一が一人で進んでいるわけではないということだった。
仲間たちとの絆を深めながら、彼は少しずつ自分の力と向き合っていく。
そして、遠くない未来に待つ武具迷宮への挑戦に向けて、六人は再び歩き始めようとしていた。




