その『おめでとう』が痛い ~ステップ・バイ
6月。
征一郎は、会社を出る時間が以前より少しだけ早くなった。仕事に慣れてきたためだ、と自分では思っている。といっても、定時ぴったりに帰っているわけではない。
むしろ、周囲が帰り始めてからも1時間近くは残っている。メールを確認して、書類をまとめて、翌日の仕事を整理する。
やるべき事は、ちゃんとやっている。
けれど。
会社では、少しずつ空気が変わっていった。
「・・・ねえ、知ってる?」
少し離れた席から、声が聞こえた。
征一郎はパソコンの画面から目を離さなかった。
「何が?」
「皇さんって、芸能人なんだって」
「え?」
「アイドルグループのバックで踊ってたらしいよ。・・・さんが、ライブ行った時に見たって・・・」
小さな声だった。でも聞こえないふりをするには、少し近い。征一郎の指がキーボードの上で止まった。
一秒。
二秒。
それから、何事もなかったように再び動かす。
「へえ・・・そんな事してるんだ」
「でも、仕事中途半端になってない?」
「どうなんだろうね」
「急に休んだりする事あるんでしょ?」
「芸能界の仕事がある時は、って事?」
「それって、普通に考えたらどうなの?」
声が更に少しだけ低くなる。
「こっちは正社員として採用されてるんだよね?」
「まあ・・・そうだよね」
「なのに、芸能活動もしてますって」
そこで、別の人が小さく笑った。
「・・・贔屓されてるんじゃない?」
征一郎の手が止まった。今度は、はっきりと・・・マウスを握ったまま、動けなくなる。
贔屓。
その言葉だけが、しつこく耳に残った。誰かに特別扱いされた覚えはない。むしろ、仕事では普通に怒られる。ミスをすれば注意されるし、遅れれば謝る。
芸能活動を理由に、仕事を軽く扱ったつもりもない。
それでも。
外から見れば、そう見えるのかもしれない。
芸能人。
会社員。
どちらも本当だ。
でも。
その二つを同時に持っている人間を、周囲がどう見るかまでは、自分では決められない。
「・・・芸能人って、何かすごいよね。テレビにとかも出るのかな」
誰かが、半分冗談のように言った。
「普通の社員とは違うっていうか」
「でもさ」
別の声が続く。
「だったら、どっちかにすればいいのにね」
征一郎は、何も言わなかった。言い返そうとは思わなかった。「違います」と否定する事もできた。「ちゃんと仕事しています」と言う事もできた。
けれど、それを言ったところで何になる。誰かの疑いを、言葉だけで消せるわけではない。
それに。
自分自身が、一番よく分かっていた。
中途半端なのだ。
会社員として生きるのか。
芸能界の世界へ行くのか。
どちらも捨てきれないまま、二つの場所に足を置いている。
そして、どちらの世界でもまだ何者にもなれていない。
4月から、征一郎は正社員になった。
それまでは事務所に所属しながら、まだデビュー前の研修生と、会社では準社員という立場だった。
けれど、春からは正式に社員として扱ってもらえる事になった。
嬉しかった。ようやく、自分の足で立てる気がした。大学を卒業して、もうしばらくは・・・そう思ってきちんと就職せず、事務所に入ったまま働いて・・・でも、心の奥底ではもう無理だと諦めていたのかもしれない。正社員への打診をされた時、素直に頷いていた。
芸能の仕事だけで食べていけるほど、自分にはまだ何もない。
バックダンサーとして呼ばれたのも、4月からこっち2回。
ステージに立てた。
照明を浴びた。
多少はファンもついてくれている。
その時だけは芸能界を続けていける・・・と、思った。あの瞬間だけは、何者でもない自分が、ちゃんと何かになれた気がした。
けれど。
3回目の依頼が来た時、征一郎は断った。
会社の重要な会議と重なっていたからだ。
「今回は、すみません」
電話口でそう答えた。
『そう? じゃあ、また次ね』
事務所の人間は、特に気にした様子もなかった。
その言葉に、征一郎も「はい」と答えた。それで終わったはずだった。少なくとも、征一郎はそう思っていた。
その日の帰り。
征一郎は、いつもより遅い電車に乗った。最終電車に近い時間帯だった。
車内には、仕事帰りの人間がまばらに座っている。疲れた顔。眠そうに俯く人。スマートフォンを眺める人。
電車が揺れるたび、吊り革が小さく音を立てた。
征一郎は窓際に立った。暗い窓ガラスに、自分の顔が映っている。
髪は少し乱れていた。ネクタイを緩め、シャツの袖をまくっている。仕事帰りの、ただの会社員。
けれど。
窓の向こうには、もう一人の自分がいる。
ステージ衣装を着て、しっかりメイクをして、照明を浴びて、歓声に答えて、音楽に合わせて踊っている。
どちらが本当の自分なのか。
分からない。
ふと、さっきの会話を思い出した。
・・・芸能人なんだって。・・・仕事、中途半端になってない? ・・・贔屓されてるんじゃない?
暗闇の向こうから、その言葉が浮かんだ。
征一郎は目を伏せる。
「・・・贔屓、か」
小さく呟いた。
自分では、そんなつもりはない。
けれど。
周りからそう見える可能性がある以上、何かを決めなければいけないのかもしれない。
事務所に所属したまま、会社員を続ける。バックダンサーの依頼が来れば、仕事と相談する。有休を取る。
そうしているうちに、いつか何かが決まる。そんな風に、どこかで思っていた。
でも。
いつまで?
バックダンサーとして踊っていても、未だ研修生のままだ。正式なデビューが決まったわけではない。名前の付いたグループがあるわけでもない。自分の事を待っているステージがあるわけでもない。
ただ、可能性だけが残っている。
可能性・・・。
便利な言葉だった。
諦めなくていい。でも、何も約束してくれない。
電車が大きく揺れた。
窓ガラスに映った自分の身体が、少しだけぶれる。征一郎は、その姿を見つめた。
・・・そろそろ、けじめをつけないといけないのかもしれない。
そう思った。
会社を選ぶのか。
芸能界を選ぶのか。
どちらかを捨てるのか。
それとも。
まだ何も決まっていない自分を、もう少しだけ信じるのか。
答えは出なかった。
心の奥底では、もう答えは出ているのに、そこから目をそらし続けている事にも、気づき始めていた。
翌週の月曜日。
征一郎は、定時に仕事を終えると、そのまま事務所へ向かった。
駅から歩いて10分ほど。
何度も通った道だった。見慣れたコンビニ。チェーンの牛丼屋。ファミレス。何人かでよく行っていた。
交差点。
古いビルの角にある、小さな喫茶店。
いつもなら何も考えずに通り過ぎる場所なのに、その日は一歩進むたびに、足が重くなっていった。
事務所に来るのは、久しぶりだった。正確には、こうして一人で来るのは、いつ以来だろう。
レッスンを受けに来た時とは、空気が違う。あの頃は、何かを掴みたくて来ていた。
少しでも上手くなりたくて。少しでも認められたくて。いつか、ステージに立ちたいと思っていた。立てると思っていた。
それが今は・・・辞めるために来ている。
エレベーターの鏡に自分の姿が映った。仕事帰りのスーツ。ネクタイは少し緩めている。肩幅のある身体が狭い箱の中でやけに大きく見えた。
鏡の中の自分と目が合う。
「・・・何やってんだろうな、俺」
思わず、独り言が漏れた。勿論、答える人はいない。
エレベーターが目的の階に着く。
扉が開いた。
見慣れた廊下。
レッスン場から、微かに音楽が漏れている。
誰かが踊っているらしい。
低いビート。床を踏む音。笑い声。注意する声も聞こえた。
その音を聞いた瞬間、胸の奥が痛んだ。
続けたい。そんな気持ちが、一瞬だけ湧いた。
でも。
今日は違う。
征一郎は息を吐き、事務所のドアを開けた。
「お疲れ様です」
「あれ、征一郎?」
受付にいたスタッフが顔を上げる。
「今日レッスンだっけ?」
「いえ」
少し間を置いてから、征一郎は答えた。
「話があって来ました」
「話?」
「はい」
自分でも驚くほど、声は落ち着いていた。
スタッフが首を傾げる。
「担当、呼ぶ?」
「お願いします」
しばらくして、担当者がやってきた。
「お、征一郎。どうした?」
「すみません。少し時間いいですか」
「いいけど・・・珍しいな。仕事帰り?」
「はい」
「その格好だと、なんか新鮮だな」
担当者が笑う。
征一郎も、少しだけ笑った。けれど、すぐに表情を戻す。
担当者が、「こっち」と受付横のソファを指す。征一郎は促されるまま座った。
「・・・俺、事務所を辞めたいです」
言った。言ってしまった。
思っていたより、あっさりと口から出た。
担当者の顔から、笑みが消える。
「・・・え?」
「事務所、辞めさせてください」
「ちょっと待て」
向こうで、椅子を引く音がした。
「急だな」
「すみません」
「何かあった?」
「いえ」
「会社の方か?」
征一郎は少し考えた。
「・・・それもあります」
「それも?」
「会社では正社員にしてもらいました」
「聞いてる」
「仕事も、ちゃんと続けたいと思っています」
「うん」
「だから、芸能界の仕事と両立するのが・・・」
言葉が止まった。
何と言えばいいのか分からない。
両立できない。そう言ってしまえば簡単だった。
でも、本当は違う。
両立できないのではない。
怖くなったのだ。
どちらも中途半端な自分が。そして、このままデビューできていない自分をどこまで許せるのかが。
「・・・周りから、どう見えてるのかなって」
征一郎は、ゆっくりと言った。
「会社で、俺が芸能活動してることを知ってる人がいて」
「うん」
「別に、何か直接言われたわけじゃないんですけど」
一度、視線を落とす。
「・・・贔屓されてるんじゃないか、とか」
担当者は何も言わなかった。
「仕事が中途半端になってるんじゃないか、とか」
喉の奥が少し詰まる。
「そう思われても仕方ないと思って」
「征一郎」
「はい」
「それで、辞めるのか?」
その言葉に、征一郎はすぐに答えられなかった。周りにどう思われているのは気になる。けれど、それだけじゃない。自分がどう思うか・・・それを口に出そうと思えばできたが、何か違う気がした。
しばらく沈黙が続く。
壁時計の秒針だけが、やけに大きく聞こえる。
カチ。
カチ。
カチ。
やがて担当者が、ふっと息を吐いた。
「・・・オマエさ」
「はい」
「本当に辞めたいの?」
胸を突かれた。
「・・・分かりません」
正直に答えた。
「分からないけど」
「うん」
「このまま続けるのも、違う気がして」
担当者は腕を組んだ。腕を組み、征一郎をじっと見る。
「今年、バックダンサー、2回やっただろ」
「はい」
「3回目、断ったよな」
「・・・はい」
「なんで?」
「仕事があったので」
「それだけ?」
征一郎は黙った。
それだけではない。
3回目の話が来た時、スケジュールを確認して、会社の仕事と重なっていると分かった。その瞬間、ほんの少しだけ安心した自分がいた。
断る理由ができた。
そう思った。
その事を、誰にも言えなかった。
「・・・怖かったんだと思います」
「何が?」
「このまま続けても、何も決まらないんじゃないかって」
言葉にすると、妙に情けなかった。
「バックで踊るのは楽しいです」
「うん」
「ステージに立つのも好きです」
「うん」
「でも、俺はずっと研修生で」
そこまで言って、征一郎は苦笑した。
「いつまで研修生なんだろうって」
担当者の表情が、少し変わった。
けれど、征一郎は気づかない。
「会社では正社員にしてもらった」
「・・・」
「ちゃんと働けば、給料ももらえる。生活もできる。周りにも説明できる」
一つずつ、自分に言い聞かせるように話す。
「芸能界は・・・」
言葉が続かなかった。
夢。
そう呼ぶには、少し遠い。
「だから、そろそろ・・・」
征一郎は顔を上げた。
「終わりにしようかなって」
担当者が、しばらく征一郎を見つめていた。
そして。
「・・・ちょうどいい所へ来たね」
「え?」
征一郎が眉を寄せる。
いつの間にか、受付にいた人が横に来て、ファイルをテーブルに置いていった。
「オマエに話そうと思ってた事がある」
「・・・何ですか?」
「デビュー、決まったよ」
一瞬。
意味が分からなかった。
「・・・え?」
「だから、デビュー」
征一郎は瞬きをした。
「・・・誰が?」
「オマエが」
「・・・俺、ですか?」
「そう」
心臓が、一瞬遅れて大きく鳴った。
どくん。
身体の内側から響くような音だった。
「いや・・・」
征一郎は、言葉を探した。
「待ってください」
「うん」
「デビューって・・・」
「そのままの意味」
「・・・グループ、ですか?」
「そう」
頭の中が真っ白になった。
あれほど欲しかった言葉だった。
何度も夢見た。レッスンの帰り道だったり。ステージの映像を見ながらだったり。鏡の前で一人踊りながら。みんなとファミレスで喋りながら。
いつか、自分にもそんな日が来るのだろうかと。
何度も考えた。
なのに。
いざ目の前で言われると、信じられなかった。
「・・・本当に?」
「ああ」
担当者が笑う。
「ただし、まだ最終決定じゃない」
「・・・え?」
「一週間後、メンバーの顔合わせがある」
「・・・」
「そこで最終決定される」
征一郎は、何も言えなかった。
「一週間後?」
「そう」
担当者はファイルを閉じた。
「そこに来てもらう」
「・・・はい」
「連絡なしに来ない場合は、辞退したと思うから」
その言葉だけが、実に現実的だった。
夢の話なのに。最後に残ったのは、ひどく事務的な一言だった。
征一郎は、ゆっくり頷いた。
「・・・分かりました。よく考えます」
事務所を出た。
夜の街は、もう暗くなっていた。
駅へ向かう人の流れに混ざりながら、征一郎は歩く。
さっきまで、芸能界を辞めるつもりだった。
そのために、ここへ来た。
なのに。
「・・・デビュー、か」
呟いた声が、自分でも驚くほど小さかった。
嬉しい。勿論、嬉しい。嬉しくないわけがない。
胸の奥が熱い。
身体が軽い。
今すぐ誰かに言いたい。
けれど。
同時に、怖かった。
本当に自分でいいのか。
最終決定ではない。
まだ何も始まっていない。
それでも。
一度消そうとした夢が、目の前で突然、息を吹き返した。
その夜。
征一郎は眠れなかった。
翌日、月曜。
征一郎は、仕事中ずっと上の空。
デスクに座っていても、頭の中に昨日の言葉が浮かぶ。
・・・デビュー、決まったよ。
パソコンの画面に表示された数字を見ても、意味が頭に入ってこない。
「皇くんっ」
「はい!」
思わず背筋が伸びた。
「この資料、昨日中に確認してって言ったよな?」
「あ・・・」
手元の書類を見る。
確認欄が、空白のままだった。
「すみません。今やります」
「今やります、じゃないだろ」
「はい。すみません」
「最近ちょっとボーッとしてないか?」
「・・・すみません」
怒られている。分かっている。
なのに。
頭の奥では別の言葉が何度も繰り返されている。
一週間後。
メンバーの顔合わせ。
最終決定。
その三つが、仕事の隙間に入り込んでくる。
火曜日。
数字を一つ間違えた。
「皇くん、ここ違う」
「・・・すみません」
「確認した?」
「しました」
「じゃあ、なんで違うんだよ」
「・・・申し訳ありません」
水曜日。
コピーした資料の部数を間違えた。
「これ、10部って言ったよな?」
「はい」
「8部しかないけど」
「・・・すみません」
「大丈夫か?」
「大丈夫です」
そう答えながら。
自分でも分かっていた。全然、大丈夫じゃない。
芸能界を諦めるつもりだった。その決心をした日に夢の方から、突然やってきた。
それが嬉しくて。
怖くて。
頭の中から離れない。
そして、気づけば一週間は、あっという間に近づいていた。
土曜日。
朝から、部屋の中を片付けていた。正確には、片付けているつもりだった。テーブルの上に散らばったレシートをまとめて、洗濯物を畳んで、読みかけの雑誌を棚へ戻す。
けれど、数分もすると、また手が止まる。
視線が宙を彷徨う。
・・・一週間後。
メンバーの顔合わせ。
その言葉が、何度目か分からないほど頭の中を巡っていた。
征一郎はソファに腰を下ろした。
窓の外は、薄曇りだった。
休日の街は平日より静かで、遠くを走る車の音だけが、一定の間隔で部屋まで届いてくる。
スマホを手に取った。
画面を眺める。
連絡先を開く。
指を滑らせていく。
そこで止まった。
智哉。
その名前を見た瞬間、胸の奥が少しだけざわついた。
「・・・あいつに、連絡してみるか」
口にしてから、自分でも少し笑った。
何を話すつもりなのか。デビューの事を言うのか。それとも、ただ声を聞きたいだけなのか。
分からない。
でも。
話したかった。
智哉なら、きっと笑ってくれる。
「オマエ、やっとかよ」
そう言って、いつものように笑う。
そんな顔が、簡単に想像できた。
事務所に入ったのは、同じ年だった。
初めて会った日の事も、まだ覚えている。
レッスン場の隅。人より少し遅れて振りを覚えていた征一郎に、智哉が声をかけてきた。
「そこ、次こうじゃない?」
「あ?」
「振り。今のところ」
「・・・分かってる」
「分かってない顔してるけど」
「うるせえ」
「じゃあ、俺に聞くなよ」
そんなやり取りから始まった。
それから、ずっと一緒だった。
レッスンも。
帰り道も。
仕事の愚痴も。
将来の話も。
何度も同じステージを目指した。
そして、いつの間にか。
智哉のほうが評価されるようになっていた。
振り覚えが早い。表情がいい。人当たりがいい。スタッフ受けもいい。
事務所から声が掛かる事も多かった。
征一郎だって、それを認めていた。
悔しくないと言えば嘘になる。
でも。
智哉なら仕方ない。
そう思える程度には、近くで見てきた。
だから。
自分にデビューの話が来たのなら当然、智哉にも何か話がある。
そう思った。
むしろ。
自分より先に、智哉へ話が行っているのではないか。
そんな事すら考えていた。
征一郎は、意を決して通話ボタンを押した。
呼び出し音。
一回。
二回。
三回。
「・・・出ねえな」
五回。
六回。
そのまま留守番電話へ切り替わった。
『留守番電話サービスに接続いたします。発信音の後に――』
「・・・やっぱ、いいか」
切ろうとした。
その瞬間。
『・・・征一郎?』
指が止まった。
「・・・え?」
一瞬、聞き間違いかと思った。
少し掠れた声。
でも。
間違えるはずがない。
「智哉?」
『うん』
電話の向こうで、智哉が小さく笑った。
『久しぶり』
「・・・オマエ」
声が出ない。
胸の奥が、急に熱くなった。
懐かしい。
たった一言なのに。
何ヶ月も会っていなかった事が、嘘みたいだった。少し前までは毎日のように顔を合わせていたのに。
「元気?」
『まあまあ』
「何だよ、それ」
『征一郎は?』
「俺?」
『うん』
「・・・まあ、普通」
『そっか』
短い会話。
昔なら、こんなところからでも幾らでも話が続いた。
でも今日は。
なぜか言葉が見つからない。
「・・・なあ」
『ん?』
「オマエさ」
少し間を置く。
「今、何してんの?」
電話の向こうが、少し静かになった。
『仕事してるよ』
「そうじゃなくて」
言ってから、言葉を選ぶ。
「事務所、最近行った?」
『・・・ああ・・・』
その一言だけで。
何かがおかしいと分かった。
「・・・まだ、いるよな?」
沈黙。
数秒。
その数秒が、妙に長かった。
『征一郎』
「うん」
『俺、・・・もう事務所辞めたよ』
「・・・は?」
頭が止まった。何でっ。
「いつ?」
『4月』
「・・・4月?」
『うん』
「いや・・・」
征一郎は立ち上がっていた。
自分でも気づかないうちに、ソファから腰が浮いている。
「何でっ?!」
それしか出なかった。
『・・・何でって・・・』
「だって、オマエ・・・」
言葉が続かない。一緒にデビューしようって言ってたじゃないか。
何を言えばいい。
どうして辞めた。
何があった。
なぜ教えてくれなかった。
いろんな言葉が頭に浮かぶ。
でも、どれも口から出てこない。
「オマエの方が・・・」
声が震えた。
「オマエの方が、期待されてただろ」
電話の向こうで、智哉が息を吐いた。
『・・・そう見えてた?』
「見えてたも何も」
征一郎は苦笑した。
「俺より、オマエのほうが仕事も多かっただろ」
『まあ・・・そうかもな』
「スタッフだって、オマエのこと褒めてたじゃん」
『そうだったな』
「振り覚えるのも早いし」
『征一郎、それ昔から何回も言うな』
「だって本当だろ。ファンだって、オマエの方が多かっただろっ」
外から、電車が通過する音がやけに大きく聞こえた。
「・・・なんで辞めたんだよ」
今度は、はっきり聞いた。
智哉はしばらく黙っていた。
『・・・ちょっと疲れたんだよ』
「疲れた?」
『うん』
「それだけ?」
『それだけじゃないけど』
「じゃあ、何だよ」
声が強くなった。
自分でも分かっていた。
怒っているわけじゃない。
責めたいわけでもない。
ただ。
納得できなかった。
「俺、何も聞いてない」
『言わなかったからな』
「なんで」
『言ったら、オマエが気にするだろ』
「当たり前だろ!」
思わず声が大きくなった。
窓の外を走る車の音も聞こえる。
「ずっと一緒だったじゃん」
言った瞬間、自分の声が、思った以上に幼く聞こえた。
「事務所入ったのも同じ年で・・・」
喉が詰まる。
「ずっと、一緒にやってきただろ」
電話の向こうが静かになる。
智哉は、すぐには答えなかった。
『・・・そうだな』
その声は、優しかった。
それが余計に苦しかった。
『俺も、そう思ってたよ』
「じゃあ・・・」
征一郎は唇を噛んだ。
「もう少し、待てばよかったじゃん」
『何を?』
「・・・何か来たかもしれないだろ」
智哉が黙る。
「デビューとか」
言葉にした瞬間、胸が痛んだ。
「俺に来たなら・・・」
そこで止まる。
自分に来たなら。
当然、オマエにも。
そう思っていた。
「・・・オマエにも、来てたかもしれないだろ」
智哉が、小さく笑った。
『征一郎』
「ん?」
『おめでとう』
その一言で、胸が締め付けられた。
「・・・何で」
『何が?』
「何で、おめでとうなんだよ」
『だって、デビューするんだろ?』
「まだ最終決定じゃない」
『でも、話が来たんだろ』
「・・・おう」
『じゃあ、すごいじゃん』
智哉の声は、昔と変わらなかった。
悔しそうでもない。
妬んでいるようでもない。
ただ。
本当に嬉しそうだった。
それが、たまらなく嫌だった。
嬉しいはずなのに。
自分のデビューが決まった事は、夢だったはずなのに。
その瞬間から。
隣にいるはずだった人間の姿が、頭から離れなくなった。
「・・・俺さ」
征一郎は、窓の外を見た。
薄曇りの空。
まだ昼間なのに、街の色はどこか白く霞んでいる。
「オマエと一緒にデビューするんだと、ずっと思ってた」
電話の向こうで、息を呑む気配がした。
『・・・そっか』
「勝手にだけど」
『うん』
「俺だけ先に行くみたいで・・・」
言葉が続かない。
「なんか、嫌だ」
しばらく沈黙が続いた。
やがて智哉が、静かに言った。
『征一郎』
「うん」
『頑張れよ』
「・・・」
『本当に』
「・・・オマエ」
『応援してるから』
「・・・智哉」
『じゃあな』
「待て」
思わず呼び止める。
けれど。
『また連絡する』
「・・・おぉ・・・」
『じゃあ』
通話が切れた。
無機質な電子音。
征一郎は、スマホを耳に当てたまま動けなかった。
画面には、通話終了の表示。
たったそれだけ。
なのに。
胸の奥には、何か大きなものが抜け落ちたような感覚が残っている。
「・・・なんでだよ」
誰もいない部屋で呟く。
悔しかった。
嬉しいはずだった。
ずっと欲しかった。
ずっと目指していた。
それなのに。
いざ手が届きそうになったら、隣にいるはずの人間がいない。
「・・・もう少し待ってれば」
声が震えた。
「オマエにも、来てたはずだろ」
それは智哉に向けた言葉なのか。
自分自身に向けた言葉なのか。
征一郎にも分からなかった。
もう少し。
あと少し。
たった数ヶ月。
もし智哉が4月に辞めていなければ。
もし、あと少しだけ待っていれば。
自分が聞かされたデビューという言葉を、智哉も聞いていたかもしれない。
同じ場所で。
同じように驚いて。
同じように笑って。
そして。
「やっとだな」
そう言って、肩を叩いてくれたかもしれない。
想像しただけで、胸が痛んだ。
征一郎はソファへゆっくり腰を下ろした。
スマホを膝の上に置く。
しばらく画面を見つめていた。
さっきまで、デビューが、本当に嬉しくて仕方なかった。
今は違う。
眩しいはずなのに。
その光の中に、智哉のいない空白だけが、はっきり見えていた。
その約1ヶ月後、皇 征一郎は、STELLA-Rootsの1人として、デビューする。
読んでくださってありがとうございます(*_ _)
ポイントを入れてもらえると、嬉しいです。




