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ステップ・バイ

その『おめでとう』が痛い ~ステップ・バイ

作者: 時司 龍
掲載日:2026/08/11

 6月。

 征一郎(せいいちろう)は、会社を出る時間が以前より少しだけ早くなった。仕事に慣れてきたためだ、と自分では思っている。といっても、定時ぴったりに帰っているわけではない。

 むしろ、周囲が帰り始めてからも1時間近くは残っている。メールを確認して、書類をまとめて、翌日の仕事を整理する。

 やるべき事は、ちゃんとやっている。


 けれど。

 会社では、少しずつ空気が変わっていった。

「・・・ねえ、知ってる?」

 少し離れた席から、声が聞こえた。

 征一郎はパソコンの画面から目を離さなかった。

「何が?」

「皇(すめらぎ)さんって、芸能人なんだって」

「え?」

「アイドルグループのバックで踊ってたらしいよ。・・・さんが、ライブ行った時に見たって・・・」

 小さな声だった。でも聞こえないふりをするには、少し近い。征一郎の指がキーボードの上で止まった。

 一秒。

 二秒。

 それから、何事もなかったように再び動かす。


「へえ・・・そんな事してるんだ」

「でも、仕事中途半端になってない?」

「どうなんだろうね」

「急に休んだりする事あるんでしょ?」

「芸能界の仕事がある時は、って事?」

「それって、普通に考えたらどうなの?」

 声が更に少しだけ低くなる。

「こっちは正社員として採用されてるんだよね?」

「まあ・・・そうだよね」

「なのに、芸能活動もしてますって」

 そこで、別の人が小さく笑った。


「・・・贔屓されてるんじゃない?」


 征一郎の手が止まった。今度は、はっきりと・・・マウスを握ったまま、動けなくなる。


 贔屓。

 その言葉だけが、しつこく耳に残った。誰かに特別扱いされた覚えはない。むしろ、仕事では普通に怒られる。ミスをすれば注意されるし、遅れれば謝る。

 芸能活動を理由に、仕事を軽く扱ったつもりもない。

 それでも。

 外から見れば、そう見えるのかもしれない。

 芸能人。

 会社員。

 どちらも本当だ。


 でも。

 その二つを同時に持っている人間を、周囲がどう見るかまでは、自分では決められない。


「・・・芸能人って、何かすごいよね。テレビにとかも出るのかな」

 誰かが、半分冗談のように言った。

「普通の社員とは違うっていうか」

「でもさ」

 別の声が続く。


「だったら、どっちかにすればいいのにね」


 征一郎は、何も言わなかった。言い返そうとは思わなかった。「違います」と否定する事もできた。「ちゃんと仕事しています」と言う事もできた。

 けれど、それを言ったところで何になる。誰かの疑いを、言葉だけで消せるわけではない。


 それに。

 自分自身が、一番よく分かっていた。


 中途半端なのだ。

 会社員として生きるのか。

 芸能界の世界へ行くのか。

 どちらも捨てきれないまま、二つの場所に足を置いている。

 そして、どちらの世界でもまだ何者にもなれていない。



 4月から、征一郎は正社員になった。


 それまでは事務所に所属しながら、まだデビュー前の研修生と、会社では準社員という立場だった。

 けれど、春からは正式に社員として扱ってもらえる事になった。

 嬉しかった。ようやく、自分の足で立てる気がした。大学を卒業して、もうしばらくは・・・そう思ってきちんと就職せず、事務所に入ったまま働いて・・・でも、心の奥底ではもう無理だと諦めていたのかもしれない。正社員への打診をされた時、素直に頷いていた。


 芸能の仕事だけで食べていけるほど、自分にはまだ何もない。

 バックダンサーとして呼ばれたのも、4月からこっち2回。

 ステージに立てた。

 照明を浴びた。

 多少はファンもついてくれている。

 その時だけは芸能界を続けていける・・・と、思った。あの瞬間だけは、何者でもない自分が、ちゃんと何かになれた気がした。


 けれど。

 3回目の依頼が来た時、征一郎は断った。

 会社の重要な会議と重なっていたからだ。

「今回は、すみません」

 電話口でそう答えた。

『そう? じゃあ、また次ね』

 事務所の人間は、特に気にした様子もなかった。

 その言葉に、征一郎も「はい」と答えた。それで終わったはずだった。少なくとも、征一郎はそう思っていた。



 その日の帰り。

 征一郎は、いつもより遅い電車に乗った。最終電車に近い時間帯だった。

 車内には、仕事帰りの人間がまばらに座っている。疲れた顔。眠そうに俯く人。スマートフォンを眺める人。

 電車が揺れるたび、吊り革が小さく音を立てた。

 征一郎は窓際に立った。暗い窓ガラスに、自分の顔が映っている。

 髪は少し乱れていた。ネクタイを緩め、シャツの袖をまくっている。仕事帰りの、ただの会社員。


 けれど。

 窓の向こうには、もう一人の自分がいる。

 ステージ衣装を着て、しっかりメイクをして、照明を浴びて、歓声に答えて、音楽に合わせて踊っている。

 どちらが本当の自分なのか。

 分からない。


 ふと、さっきの会話を思い出した。

 ・・・芸能人なんだって。・・・仕事、中途半端になってない? ・・・贔屓されてるんじゃない?

 暗闇の向こうから、その言葉が浮かんだ。

 征一郎は目を伏せる。

「・・・贔屓、か」

 小さく呟いた。

 自分では、そんなつもりはない。

 けれど。

 周りからそう見える可能性がある以上、何かを決めなければいけないのかもしれない。

 事務所に所属したまま、会社員を続ける。バックダンサーの依頼が来れば、仕事と相談する。有休を取る。

 そうしているうちに、いつか何かが決まる。そんな風に、どこかで思っていた。


 でも。

 いつまで?

 バックダンサーとして踊っていても、未だ研修生のままだ。正式なデビューが決まったわけではない。名前の付いたグループがあるわけでもない。自分の事を待っているステージがあるわけでもない。

 ただ、可能性だけが残っている。

 可能性・・・。

 便利な言葉だった。

 諦めなくていい。でも、何も約束してくれない。


 電車が大きく揺れた。

 窓ガラスに映った自分の身体が、少しだけぶれる。征一郎は、その姿を見つめた。

 ・・・そろそろ、けじめをつけないといけないのかもしれない。

 そう思った。

 会社を選ぶのか。

 芸能界を選ぶのか。

 どちらかを捨てるのか。

 それとも。

 まだ何も決まっていない自分を、もう少しだけ信じるのか。

 答えは出なかった。

 心の奥底では、もう答えは出ているのに、そこから目をそらし続けている事にも、気づき始めていた。



 翌週の月曜日。

 征一郎は、定時に仕事を終えると、そのまま事務所へ向かった。

 駅から歩いて10分ほど。

 何度も通った道だった。見慣れたコンビニ。チェーンの牛丼屋。ファミレス。何人かでよく行っていた。

 交差点。

 古いビルの角にある、小さな喫茶店。

 いつもなら何も考えずに通り過ぎる場所なのに、その日は一歩進むたびに、足が重くなっていった。


 事務所に来るのは、久しぶりだった。正確には、こうして一人で来るのは、いつ以来だろう。

 レッスンを受けに来た時とは、空気が違う。あの頃は、何かを掴みたくて来ていた。

 少しでも上手くなりたくて。少しでも認められたくて。いつか、ステージに立ちたいと思っていた。立てると思っていた。


 それが今は・・・辞めるために来ている。


 エレベーターの鏡に自分の姿が映った。仕事帰りのスーツ。ネクタイは少し緩めている。肩幅のある身体が狭い箱の中でやけに大きく見えた。

 鏡の中の自分と目が合う。

「・・・何やってんだろうな、俺」

 思わず、独り言が漏れた。勿論、答える人はいない。


 エレベーターが目的の階に着く。

 扉が開いた。

 見慣れた廊下。

 レッスン場から、微かに音楽が漏れている。

 誰かが踊っているらしい。

 低いビート。床を踏む音。笑い声。注意する声も聞こえた。

 その音を聞いた瞬間、胸の奥が痛んだ。


 続けたい。そんな気持ちが、一瞬だけ湧いた。


 でも。

 今日は違う。


 征一郎は息を吐き、事務所のドアを開けた。


「お疲れ様です」

「あれ、征一郎?」

 受付にいたスタッフが顔を上げる。

「今日レッスンだっけ?」

「いえ」

 少し間を置いてから、征一郎は答えた。

「話があって来ました」

「話?」

「はい」

 自分でも驚くほど、声は落ち着いていた。

 スタッフが首を傾げる。

「担当、呼ぶ?」

「お願いします」

 しばらくして、担当者がやってきた。

「お、征一郎。どうした?」

「すみません。少し時間いいですか」

「いいけど・・・珍しいな。仕事帰り?」

「はい」

「その格好だと、なんか新鮮だな」

 担当者が笑う。

 征一郎も、少しだけ笑った。けれど、すぐに表情を戻す。

 担当者が、「こっち」と受付横のソファを指す。征一郎は促されるまま座った。


「・・・俺、事務所を辞めたいです」

 言った。言ってしまった。

 思っていたより、あっさりと口から出た。


 担当者の顔から、笑みが消える。

「・・・え?」

「事務所、辞めさせてください」

「ちょっと待て」

 向こうで、椅子を引く音がした。

「急だな」

「すみません」

「何かあった?」

「いえ」

「会社の方か?」

 征一郎は少し考えた。

「・・・それもあります」

「それも?」

「会社では正社員にしてもらいました」

「聞いてる」

「仕事も、ちゃんと続けたいと思っています」

「うん」


「だから、芸能界の仕事と両立するのが・・・」

 言葉が止まった。

 何と言えばいいのか分からない。

 両立できない。そう言ってしまえば簡単だった。

 でも、本当は違う。

 両立できないのではない。


 怖くなったのだ。

 どちらも中途半端な自分が。そして、このままデビューできていない自分をどこまで許せるのかが。


「・・・周りから、どう見えてるのかなって」

 征一郎は、ゆっくりと言った。

「会社で、俺が芸能活動してることを知ってる人がいて」

「うん」

「別に、何か直接言われたわけじゃないんですけど」

 一度、視線を落とす。

「・・・贔屓されてるんじゃないか、とか」

 担当者は何も言わなかった。

「仕事が中途半端になってるんじゃないか、とか」

 喉の奥が少し詰まる。

「そう思われても仕方ないと思って」


「征一郎」

「はい」

「それで、辞めるのか?」

 その言葉に、征一郎はすぐに答えられなかった。周りにどう思われているのは気になる。けれど、それだけじゃない。自分がどう思うか・・・それを口に出そうと思えばできたが、何か違う気がした。


 しばらく沈黙が続く。

 壁時計の秒針だけが、やけに大きく聞こえる。

 カチ。

 カチ。

 カチ。

 やがて担当者が、ふっと息を吐いた。

「・・・オマエさ」

「はい」

「本当に辞めたいの?」

 胸を突かれた。

「・・・分かりません」

 正直に答えた。

「分からないけど」

「うん」

「このまま続けるのも、違う気がして」

 担当者は腕を組んだ。腕を組み、征一郎をじっと見る。

「今年、バックダンサー、2回やっただろ」

「はい」

「3回目、断ったよな」

「・・・はい」

「なんで?」

「仕事があったので」

「それだけ?」


 征一郎は黙った。

 それだけではない。

 3回目の話が来た時、スケジュールを確認して、会社の仕事と重なっていると分かった。その瞬間、ほんの少しだけ安心した自分がいた。

 断る理由ができた。

 そう思った。

 その事を、誰にも言えなかった。


「・・・怖かったんだと思います」


「何が?」

「このまま続けても、何も決まらないんじゃないかって」

 言葉にすると、妙に情けなかった。

「バックで踊るのは楽しいです」

「うん」

「ステージに立つのも好きです」

「うん」

「でも、俺はずっと研修生で」

 そこまで言って、征一郎は苦笑した。


「いつまで研修生なんだろうって」


 担当者の表情が、少し変わった。

 けれど、征一郎は気づかない。

「会社では正社員にしてもらった」

「・・・」

「ちゃんと働けば、給料ももらえる。生活もできる。周りにも説明できる」

 一つずつ、自分に言い聞かせるように話す。

「芸能界は・・・」

 言葉が続かなかった。

 夢。

 そう呼ぶには、少し遠い。


「だから、そろそろ・・・」

 征一郎は顔を上げた。

「終わりにしようかなって」


 担当者が、しばらく征一郎を見つめていた。

 そして。

「・・・ちょうどいい所へ来たね」

「え?」

 征一郎が眉を寄せる。

 いつの間にか、受付にいた人が横に来て、ファイルをテーブルに置いていった。

「オマエに話そうと思ってた事がある」

「・・・何ですか?」


「デビュー、決まったよ」


 一瞬。

 意味が分からなかった。

「・・・え?」

「だから、デビュー」

 征一郎は瞬きをした。

「・・・誰が?」

「オマエが」

「・・・俺、ですか?」

「そう」

 心臓が、一瞬遅れて大きく鳴った。

 どくん。

 身体の内側から響くような音だった。

「いや・・・」

 征一郎は、言葉を探した。

「待ってください」

「うん」

「デビューって・・・」

「そのままの意味」

「・・・グループ、ですか?」

「そう」


 頭の中が真っ白になった。

 あれほど欲しかった言葉だった。

 何度も夢見た。レッスンの帰り道だったり。ステージの映像を見ながらだったり。鏡の前で一人踊りながら。みんなとファミレスで喋りながら。

 いつか、自分にもそんな日が来るのだろうかと。

 何度も考えた。

 

 なのに。

 いざ目の前で言われると、信じられなかった。

「・・・本当に?」

「ああ」

 担当者が笑う。

「ただし、まだ最終決定じゃない」

「・・・え?」


「一週間後、メンバーの顔合わせがある」


「・・・」

「そこで最終決定される」

 征一郎は、何も言えなかった。

「一週間後?」

「そう」

 担当者はファイルを閉じた。

「そこに来てもらう」

「・・・はい」

「連絡なしに来ない場合は、辞退したと思うから」

 その言葉だけが、実に現実的だった。

 夢の話なのに。最後に残ったのは、ひどく事務的な一言だった。


 征一郎は、ゆっくり頷いた。

「・・・分かりました。よく考えます」

 事務所を出た。


 夜の街は、もう暗くなっていた。

 駅へ向かう人の流れに混ざりながら、征一郎は歩く。

 さっきまで、芸能界を辞めるつもりだった。

 そのために、ここへ来た。


 なのに。

「・・・デビュー、か」

 呟いた声が、自分でも驚くほど小さかった。

 嬉しい。勿論、嬉しい。嬉しくないわけがない。

 胸の奥が熱い。

 身体が軽い。

 今すぐ誰かに言いたい。


 けれど。

 同時に、怖かった。

 本当に自分でいいのか。

 最終決定ではない。

 まだ何も始まっていない。


 それでも。

 一度消そうとした夢が、目の前で突然、息を吹き返した。



 その夜。

 征一郎は眠れなかった。


 翌日、月曜。

 征一郎は、仕事中ずっと上の空。

 デスクに座っていても、頭の中に昨日の言葉が浮かぶ。

 ・・・デビュー、決まったよ。

 パソコンの画面に表示された数字を見ても、意味が頭に入ってこない。

「皇くんっ」

「はい!」

 思わず背筋が伸びた。

「この資料、昨日中に確認してって言ったよな?」

「あ・・・」

 手元の書類を見る。

 確認欄が、空白のままだった。

「すみません。今やります」

「今やります、じゃないだろ」

「はい。すみません」

「最近ちょっとボーッとしてないか?」

「・・・すみません」

 怒られている。分かっている。


 なのに。

 頭の奥では別の言葉が何度も繰り返されている。

 一週間後。

 メンバーの顔合わせ。

 最終決定。

 その三つが、仕事の隙間に入り込んでくる。


 火曜日。

 数字を一つ間違えた。

「皇くん、ここ違う」

「・・・すみません」

「確認した?」

「しました」

「じゃあ、なんで違うんだよ」

「・・・申し訳ありません」


 水曜日。

 コピーした資料の部数を間違えた。

「これ、10部って言ったよな?」

「はい」

「8部しかないけど」

「・・・すみません」

「大丈夫か?」

「大丈夫です」

 そう答えながら。

 自分でも分かっていた。全然、大丈夫じゃない。

 芸能界を諦めるつもりだった。その決心をした日に夢の方から、突然やってきた。

 それが嬉しくて。

 怖くて。

 頭の中から離れない。

 そして、気づけば一週間は、あっという間に近づいていた。



 土曜日。

 朝から、部屋の中を片付けていた。正確には、片付けているつもりだった。テーブルの上に散らばったレシートをまとめて、洗濯物を畳んで、読みかけの雑誌を棚へ戻す。

 けれど、数分もすると、また手が止まる。

 視線が宙を彷徨う。


 ・・・一週間後。

 メンバーの顔合わせ。

 その言葉が、何度目か分からないほど頭の中を巡っていた。


 征一郎はソファに腰を下ろした。

 窓の外は、薄曇りだった。

 休日の街は平日より静かで、遠くを走る車の音だけが、一定の間隔で部屋まで届いてくる。


 スマホを手に取った。

 画面を眺める。

 連絡先を開く。

 指を滑らせていく。

 そこで止まった。


 智哉(ともや)。


 その名前を見た瞬間、胸の奥が少しだけざわついた。

「・・・あいつに、連絡してみるか」

 口にしてから、自分でも少し笑った。

 何を話すつもりなのか。デビューの事を言うのか。それとも、ただ声を聞きたいだけなのか。

 分からない。


 でも。

 話したかった。

 智哉なら、きっと笑ってくれる。

「オマエ、やっとかよ」

 そう言って、いつものように笑う。

 そんな顔が、簡単に想像できた。


 事務所に入ったのは、同じ年だった。

 初めて会った日の事も、まだ覚えている。

 レッスン場の隅。人より少し遅れて振りを覚えていた征一郎に、智哉が声をかけてきた。

「そこ、次こうじゃない?」

「あ?」

「振り。今のところ」

「・・・分かってる」

「分かってない顔してるけど」

「うるせえ」

「じゃあ、俺に聞くなよ」

 そんなやり取りから始まった。

 それから、ずっと一緒だった。

 レッスンも。

 帰り道も。

 仕事の愚痴も。

 将来の話も。

 何度も同じステージを目指した。


 そして、いつの間にか。

 智哉のほうが評価されるようになっていた。

 振り覚えが早い。表情がいい。人当たりがいい。スタッフ受けもいい。

 事務所から声が掛かる事も多かった。

 征一郎だって、それを認めていた。

 悔しくないと言えば嘘になる。


 でも。

 智哉なら仕方ない。

 そう思える程度には、近くで見てきた。


 だから。

 自分にデビューの話が来たのなら当然、智哉にも何か話がある。

 そう思った。


 むしろ。

 自分より先に、智哉へ話が行っているのではないか。

 そんな事すら考えていた。


 征一郎は、意を決して通話ボタンを押した。

 呼び出し音。

 一回。

 二回。

 三回。

「・・・出ねえな」

 五回。

 六回。

 そのまま留守番電話へ切り替わった。

『留守番電話サービスに接続いたします。発信音の後に――』

「・・・やっぱ、いいか」

 切ろうとした。


 その瞬間。

『・・・征一郎?』

 指が止まった。

「・・・え?」

 一瞬、聞き間違いかと思った。

 少し掠れた声。

 でも。

 間違えるはずがない。


「智哉?」

『うん』

 電話の向こうで、智哉が小さく笑った。

『久しぶり』

「・・・オマエ」

 声が出ない。

 胸の奥が、急に熱くなった。

 懐かしい。

 たった一言なのに。

 何ヶ月も会っていなかった事が、嘘みたいだった。少し前までは毎日のように顔を合わせていたのに。

「元気?」

『まあまあ』

「何だよ、それ」

『征一郎は?』

「俺?」

『うん』

「・・・まあ、普通」

『そっか』

 短い会話。


 昔なら、こんなところからでも幾らでも話が続いた。

 でも今日は。

 なぜか言葉が見つからない。

「・・・なあ」

『ん?』

「オマエさ」

 少し間を置く。

「今、何してんの?」

 電話の向こうが、少し静かになった。


『仕事してるよ』


「そうじゃなくて」

 言ってから、言葉を選ぶ。


「事務所、最近行った?」


『・・・ああ・・・』

 その一言だけで。

 何かがおかしいと分かった。


「・・・まだ、いるよな?」

 沈黙。

 数秒。

 その数秒が、妙に長かった。


『征一郎』

「うん」

『俺、・・・もう事務所辞めたよ』

「・・・は?」


 頭が止まった。何でっ。


「いつ?」

『4月』

「・・・4月?」

『うん』

「いや・・・」

 征一郎は立ち上がっていた。

 自分でも気づかないうちに、ソファから腰が浮いている。


「何でっ?!」


 それしか出なかった。

『・・・何でって・・・』

「だって、オマエ・・・」

 言葉が続かない。一緒にデビューしようって言ってたじゃないか。

 何を言えばいい。

 どうして辞めた。

 何があった。

 なぜ教えてくれなかった。

 いろんな言葉が頭に浮かぶ。

 でも、どれも口から出てこない。


「オマエの方が・・・」

 声が震えた。

「オマエの方が、期待されてただろ」

 電話の向こうで、智哉が息を吐いた。

『・・・そう見えてた?』

「見えてたも何も」

 征一郎は苦笑した。

「俺より、オマエのほうが仕事も多かっただろ」

『まあ・・・そうかもな』

「スタッフだって、オマエのこと褒めてたじゃん」

『そうだったな』

「振り覚えるのも早いし」

『征一郎、それ昔から何回も言うな』

「だって本当だろ。ファンだって、オマエの方が多かっただろっ」

 外から、電車が通過する音がやけに大きく聞こえた。


「・・・なんで辞めたんだよ」


 今度は、はっきり聞いた。

 智哉はしばらく黙っていた。

『・・・ちょっと疲れたんだよ』

「疲れた?」

『うん』

「それだけ?」

『それだけじゃないけど』

「じゃあ、何だよ」

 声が強くなった。

 自分でも分かっていた。

 怒っているわけじゃない。

 責めたいわけでもない。


 ただ。

 納得できなかった。


「俺、何も聞いてない」

『言わなかったからな』

「なんで」

『言ったら、オマエが気にするだろ』

「当たり前だろ!」

 思わず声が大きくなった。

 窓の外を走る車の音も聞こえる。


「ずっと一緒だったじゃん」


 言った瞬間、自分の声が、思った以上に幼く聞こえた。

「事務所入ったのも同じ年で・・・」

 喉が詰まる。

「ずっと、一緒にやってきただろ」


 電話の向こうが静かになる。

 智哉は、すぐには答えなかった。

『・・・そうだな』

 その声は、優しかった。

 それが余計に苦しかった。

『俺も、そう思ってたよ』

「じゃあ・・・」

 征一郎は唇を噛んだ。

「もう少し、待てばよかったじゃん」

『何を?』

「・・・何か来たかもしれないだろ」

 智哉が黙る。


「デビューとか」


 言葉にした瞬間、胸が痛んだ。

「俺に来たなら・・・」

 そこで止まる。

 自分に来たなら。

 当然、オマエにも。

 そう思っていた。


「・・・オマエにも、来てたかもしれないだろ」


 智哉が、小さく笑った。

『征一郎』

「ん?」

『おめでとう』

 その一言で、胸が締め付けられた。

「・・・何で」

『何が?』

「何で、おめでとうなんだよ」

『だって、デビューするんだろ?』

「まだ最終決定じゃない」

『でも、話が来たんだろ』

「・・・おう」

『じゃあ、すごいじゃん』

 智哉の声は、昔と変わらなかった。

 悔しそうでもない。

 妬んでいるようでもない。


 ただ。

 本当に嬉しそうだった。

 それが、たまらなく嫌だった。

 嬉しいはずなのに。

 自分のデビューが決まった事は、夢だったはずなのに。


 その瞬間から。

 隣にいるはずだった人間の姿が、頭から離れなくなった。


「・・・俺さ」

 征一郎は、窓の外を見た。

 薄曇りの空。

 まだ昼間なのに、街の色はどこか白く霞んでいる。


「オマエと一緒にデビューするんだと、ずっと思ってた」


 電話の向こうで、息を呑む気配がした。

『・・・そっか』

「勝手にだけど」

『うん』

「俺だけ先に行くみたいで・・・」

 言葉が続かない。

「なんか、嫌だ」

 しばらく沈黙が続いた。

 やがて智哉が、静かに言った。


『征一郎』

「うん」

『頑張れよ』

「・・・」

『本当に』

「・・・オマエ」

『応援してるから』

「・・・智哉」

『じゃあな』

「待て」

 思わず呼び止める。

 けれど。


『また連絡する』


「・・・おぉ・・・」

『じゃあ』

 通話が切れた。

 無機質な電子音。

 征一郎は、スマホを耳に当てたまま動けなかった。

 画面には、通話終了の表示。

 たったそれだけ。


 なのに。

 胸の奥には、何か大きなものが抜け落ちたような感覚が残っている。


「・・・なんでだよ」


 誰もいない部屋で呟く。

 悔しかった。

 嬉しいはずだった。

 ずっと欲しかった。

 ずっと目指していた。


 それなのに。

 いざ手が届きそうになったら、隣にいるはずの人間がいない。

「・・・もう少し待ってれば」

 声が震えた。

「オマエにも、来てたはずだろ」

 それは智哉に向けた言葉なのか。

 自分自身に向けた言葉なのか。

 征一郎にも分からなかった。

 もう少し。

 あと少し。

 たった数ヶ月。

 もし智哉が4月に辞めていなければ。

 もし、あと少しだけ待っていれば。


 自分が聞かされたデビューという言葉を、智哉も聞いていたかもしれない。


 同じ場所で。

 同じように驚いて。

 同じように笑って。


 そして。

「やっとだな」

 そう言って、肩を叩いてくれたかもしれない。


 想像しただけで、胸が痛んだ。

 征一郎はソファへゆっくり腰を下ろした。

 スマホを膝の上に置く。

 しばらく画面を見つめていた。


 さっきまで、デビューが、本当に嬉しくて仕方なかった。


 今は違う。

 眩しいはずなのに。

 その光の中に、智哉のいない空白だけが、はっきり見えていた。




 その約1ヶ月後、皇(すめらぎ) 征一郎(せいいちろう)は、STELLA(ステラ)-Roots(ルーツ)の1人として、デビューする。


読んでくださってありがとうございます(*_ _)

ポイントを入れてもらえると、嬉しいです。

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 時司 龍さん、こんにちは。 「その『おめでとう』が痛い ~ステップ・バイ」拝読致しました。  男性アイドルグループのリーダーの、昔の話でしょうか。  会社員と芸能人の、二足のわらじ。  夢に一生…
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