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五年前に埋めた夫から、午前三時に電話がかかってきた

作者: 熾星
掲載日:2026/07/17



導入:午前三時の電話


 午前三時、知らない番号から電話がかかってきた。受話口から聞こえてきたのは、低く掠れた男の声だった。私が一生忘れられない、あの声だった。


「英子、会いに来てくれよ。俺たち、ずいぶん会ってないだろ」


 その瞬間、全身の血が冷たくなった。あれは夫、森川蓮司の声だった。けれど蓮司は、五年前に死んでいる。彼は私を終わりのないDVの地獄へ引きずり込んだ。ある夜、限界を迎えた私は包丁を彼の胸に突き立て、遺体を家の裏にある杉林へ運び、土の中に埋めた。


 翌日、私は村の人たちに、蓮司は遠くの建設現場へ働きに行ったと告げた。


 電話を切ったあと、私は一睡もできなかった。けれど翌朝、蓮司は足を引きずりながら、血だらけの顔で玄関先に現れた。冷えきった目で、じっと私を見ていた。


「どうして会いに来なかった?」


 彼の手が私の首にかかった。私は必死にもがいたが、やがて完全に息ができなくなった。次に目を開けたとき、私はまた午前三時に戻っていた。手の中では、スマートフォンがまだ震えていた。




1.死んだはずの夫が病院で待っている


 受話口の向こうにいたのは、蓮司だった。


「英子、どうして今ごろ出たんだ?」


 スマートフォンを耳に当てたまま、手のひらに冷たい汗がにじんでいく。喉の奥が詰まったようで、一言も出せなかった。少し間を置いて、彼は低く笑った。


「足を折っちまった。今、水篠市立総合病院にいる。英子、ここで待ってるから」


 電話はそこで切れた。水篠市は、五年前に私がとっさに作った地名だった。あのとき私は村の人たちに、蓮司はやり直すために水篠の建設現場へ行った、と話した。私たちが住む長野の山あいの町からそこへ行くには、何度も乗り換えなければならず、少なくとも半日はかかる。


 それなのに前回、彼はどうして翌朝には家の前に立っていたのだろう。考えてもわからなかったし、考え続ける勇気もなかった。会いに行くことなどできない。けれど、家に残って死を待つこともできなかった。


 私は布団から起き上がり、身分証と現金、それから数枚の服をバッグに詰め込んだ。午前三時半、古い原付にまたがり、裏口から家を出た。山道は暗く、袖口から冷たい風が吹き込んでくる。次の曲がり角に蓮司が立っている気がして、私は一度も速度を落とせなかった。


 五時前には、最寄りの駅に着いていた。まだ夜は明けきらず、駅前では自動券売機の光だけが冷たく浮かんでいた。私は水篠とは反対方向へ向かう一番早い切符を買った。頭の中には、一つのことしかなかった。


 水篠から、できるだけ遠くへ。


 けれど車両に乗り込んだ直後、誰かが私の名を呼んだ。


「英子?」


 私は反射的に振り返った。心臓が一瞬止まった気がした。そこに立っていたのは、蓮司の従兄、森川良平だった。彼の席は、私の隣だった。良平は荷物を棚に上げ、偶然会った知り合いに向けるような笑みを浮かべた。


「こんな朝早くに出かけるのか。昨日、蓮司から電話があってさ。足を怪我したって言ってた。英子も見舞いに行くところか?」


 五年前に死んだはずの人間が、私だけでなく良平にも電話をしていた。私は彼を見つめたまま、手のひらがじんじんと痺れていくのを感じた。誰かが幽霊のふりをしているのか。それとも蓮司が、本当に私を迎えに来たのか。


 私は低く返事をするしかなかった。


「……うん」


 良平が横目で私を見る。


「でも、水篠は逆方向だろ。どうしてこの電車に乗ってるんだ?」


 息が一瞬止まった。


「さっきまた電話があって、転院したって。二駅先だって言ってた」


 良平は笑った。


「奇遇だな。俺も二駅先で降りるんだ」


 車両が揺れ始めた。私はそれ以上、何も言わなかった。窓の外では山の影がいくつも後ろへ流れていくのに、私の心だけはそこに縫い止められたままだった。


 六時半、私たちは小さな地方駅で降りた。良平は当たり前のように私の荷物を持った。取り返そうとしたけれど、指先がこわばって動かなかった。


「まだ早い時間だしな。蓮司はどこの病院に移ったんだ? 一緒に顔を見に行くよ」


「よく覚えてない。たぶん市立総合病院だと思う。良平さんは用事があるんでしょ。私は一人で大丈夫」


 良平は返事をしなかった。駅を出るとすぐにタクシーを止め、私の荷物をトランクへ入れた。


「市立総合病院まで」


 ドアが閉まる音で、胸の奥に残っていたわずかな逃げ道が砕けた。車内で私は、一言も余計なことを言わなかった。喋れば喋るほど、どこかでぼろが出る。


 病院にはすぐ着いた。良平は荷物を持ってロビーに入り、受付で何かを尋ねた。看護師は私たちを見比べ、患者の情報は簡単には教えられない、入院の確認には本人か家族からの詳しい情報が必要だと説明した。


 その瞬間、良平の表情がわずかに固まった。私が逃げ出すなら今だと思った、そのときだった。外来ロビーの隅から、聞き慣れた声がした。


「良平さん、どうしてここに?」


 頭皮が一気に粟立った。窓際の車椅子に男が座っていた。足には厚い固定具が巻かれ、顔はほとんど包帯に覆われていて、目と口元だけが見えている。彼は力なく手を上げ、私たちに向かって小さく振った。


「英子も来てくれたんだな」


 本物であってほしいと思った。そうすれば、少なくとも良平の目をごまかせる。同時に、偽物であってほしいとも思った。もし本当に蓮司なら、どうして私がとっさに口にした病院を知っているのだろう。


 良平が私を振り返った。


「英子、どうして突っ立ってるんだ。久しぶりすぎて恥ずかしいのか? 蓮司が待ってるぞ」




2.車椅子の男は彼ではない


 私は奥歯を噛みしめ、車椅子の前へ歩いた。男の姿をはっきり見た瞬間、さっきまで激しく鳴っていた心臓が、少しだけ静まった。


 彼は蓮司ではなかった。


 私は蓮司を十代のころから知っている。長い年月を一緒に過ごしてきた。手首が少し見えただけでも、彼の身体にある印を見間違えるはずがない。蓮司の右手首の近くには、赤い痣があった。けれど、この男にはそれがなかった。


「英子、やっと来てくれた」


 車椅子の男が、口元だけで笑った。


「顔まで怪我しちゃったんだ。まさか嫌いにならないよな?」


 冗談めかした口調だった。けれど私の胃は、内側からひっくり返るようだった。私は何度も、森川蓮司という名前が私の世界から消えてくれればいいと思ってきた。本物でも偽物でも、その名と声で近づかれるだけで息が詰まる。


 けれど良平がすぐそばにいる。ここで正体を暴くことはできない。この偽の蓮司は、なぜ良平を「良平さん」と呼び、私を英子と呼ぶのか。もし蓮司が手配したのなら、どうして私が今さっき適当に言った病院を知っていたのか。考えれば考えるほど、背筋が冷えた。


 良平がいちばん怪しい。けれど、彼の前で気づいたことを口にするわけにはいかない。今すべきことは、二人の視線から逃れることだった。


 しばらくして、良平が時間を確認した。


「俺は少し用事がある。先に行くよ。英子は残って、蓮司についててやれ」


 私はすぐに立ち上がった。


「送る」


 良平は私を一瞥したが、断らなかった。病院の正面玄関を出ると、彼はタクシーを止めた。その車が走り去るのを見届けると、私はロビーへ戻らなかった。荷物もそのまま置いていった。


 命のほうが大事だった。あの男が蓮司かどうかなど関係ない。前回、首を絞められた感触は、今もはっきりと喉に残っている。逃げなければならなかった。


 私は別のタクシーを拾った。車が人気の少ない道に入ったところで、突然止まった。運転手が咳払いをする。その声が、あまりにも蓮司に似ていた。


 私は顔を上げた。運転手は帽子をかぶっていて、バックミラー越しでは顔がよく見えない。冷たいものが背中を這い上がってくる。蓮司は本当に、どこまでも私を追ってくるのだろうか。


 私はほとんど転がるようにドアを押し開け、走り出した。運転手が後ろから叫んだ。


「奥さん、待ってください!」


 少し走ってから、ようやくその人が蓮司ではないことに気づいた。彼は気まずそうに追いかけてきて、手にしたお金を差し出した。


「すみません、車の調子が悪いみたいで。今日は乗せられそうにありません。料金はお返しします」


 彼は運賃を私に渡すと、車の様子を見に戻った。私はその紙幣を握ったまま、駅へ向かって歩き続けた。だが、少し進んだところで転んだ。


 立ち上がってまた歩く。また転ぶ。膝と手のひらが焼けるように痛み、恐怖が骨の内側から染み出してきた。蓮司は本当に、復讐のために戻ってきたのだろうか。逃げようとすればするほど、道が私を拒んでいるようだった。


 何度転んだのか、もう覚えていない。頭の中に蓮司の顔が何度も浮かんだ。あのとき、もっと深く刺しておけばよかったとさえ思った。


 そのとき、スマートフォンが鳴った。画面には、あの知らない番号が表示されている。私は長い間それを見つめ、最後に通話ボタンを押した。


 耳に届いたのは、聞き覚えのある掠れた声だった。


「良平さんのことはごまかしてやったのに、どうして水篠に来ない?」


 私は口を押さえた。身体の震えを止められなかった。


「英子、どこへ逃げるつもりだ?」


「逃げられると思ってるのか?」


 病院にいた偽の蓮司も、やはり彼が用意したものだったのだ。けれど、もし相手が本当に亡霊なら、どうして偽物など使う必要があるのだろう。頭の中がぐちゃぐちゃに乱れた。


 だが次の瞬間、怒りが恐怖を押しのけた。彼は死んで当然だった。もし本当に復讐しに戻ってきたのだとしても、私はもう五年も余分に生きた。


 逃げられないなら、逃げない。


「あなたは人なの? それとも幽霊なの?」


 電話の向こうで、彼が笑った。


「水篠に来て、自分の目で確かめればいい」


 彼がここまでしている目的は一つだった。私を水篠へ向かわせること。なら、行ってやる。


 戻ってきたものが人なのか、亡霊なのか。


 この目で確かめてやる。




3.水篠の古い平屋

 病院へ戻ると、偽の蓮司はもういなかった。外来ロビーには人が行き交い、さっきまであった車椅子も空になっていた。私の荷物だけが隅に置かれていて、何も起きていないように見えた。


 今、大事なのは水篠へ行くことだった。すべてが蓮司の亡霊の仕業なのか、それとも誰かが裏で罠を仕掛けているのかを確かめなければならない。


 私は改めて切符を買った。水篠に着くと、そのまま市立総合病院へ向かい、スマートフォンで例の番号に電話をかけた。だが何度かけても応答はなかった。


 病院で尋ねても、返ってくる言葉は同じだった。


「申し訳ありませんが、その患者さんがいるかどうかは確認できません」


 私はロビーと病棟の入口をしばらく行き来した。いない。彼は私をここへ呼び出しておきながら、姿を見せない。いったい何がしたいのだろう。


 病院の前で夕方まで座り込んでいると、空が少しずつ暗くなっていった。そのとき、スマートフォンにSMSが届いた。そこには住所だけが書かれていた。


 道を尋ねながら、駅裏に広がる古い住宅地へ向かった。路地の奥に、蔦に覆われかけた木造の平屋があった。入口のブリキの郵便受けは錆び、窓枠は歪み、軒先には古びた風鈴がぶら下がっていた。


 月はもう高く上がっていた。私は玄関の前に立ち、軽く戸を叩いた。返事はなかった。


 そっと押すと、戸は開いた。


 中には湿ったカビの匂いが漂っていた。手探りでスイッチを押すと、灯りがついた瞬間、最初に目に入ったのは机の上の写真だった。写真の中で、蓮司は工事用ヘルメットをかぶり、足場の前で数人の男たちと並んでいた。


 けれど蓮司は、死ぬ前に建設現場へ行ったことなどない。水篠で働いているという話は、私が村人たちをだますために作ったものだった。なら、この写真はいったい何なのか。


 本当に、生きていたのだろうか。


 深く息を吸い込むと、血が頭のてっぺんまで上っていくようだった。そのとき、突然灯りが消えた。目の前が一瞬で闇に沈む。


 窓から差し込む月明かりの中、奥の部屋のベッドに誰かが横たわっているのが見えた。顔はわからない。けれど、その体つきは蓮司にあまりにも似ていた。手首には、赤い痣もあった。


 彼は生きていた。


 足も折れていない。


 私をここへ呼んだのは、復讐するためだった。


 最悪の覚悟はしていたはずなのに、自分の手で埋めた人間が同じ姿で目の前に横たわっているのを見ると、心臓が止まりそうになった。


 ベッドの上の人影が、突然口を開いた。


「英子、このクソ女」


 その瞬間、私は立っていられなくなりそうだった。


 外から急にざわめく音がした。私は我に返ったように玄関へ駆け出した。背後では、ベッドの上の男も起き上がって追ってくる気配がした。角を曲がったところで、私は誰かにぶつかった。


「英子?」


 良平だった。彼は私の肩を支え、焦った顔をしていた。


「どうしたんだ?」


 私は息を乱したまま振り返った。路地には誰もいない。蓮司の姿など、どこにもなかった。私は壁にもたれ、必死に自分を落ち着かせた。


 もし良平が蓮司と組んでいるなら、どうしてこのタイミングで現れるのか。もし組んでいないなら、どうして何度もこんなふうに、私のそばへ現れるのか。


 私は彼の目を見た。


「何が目的なの?」


 良平は一瞬きょとんとし、それから笑った。


「俺? 目的なんてないよ。田舎じゃ仕事も見つからないから、水篠で蓮司に現場仕事でも紹介してもらおうと思っただけだ」


 軽く言っているように見えた。だが、その目はひどく不自然だった。私は冷たく彼を見つめた。


「蓮司はもう死んでる」


 良平はとっさに私の口を塞いだ。顔色が変わっていた。


「英子、ここでそんな話をするな」


 その反応でわかった。彼は驚いていない。良平は、蓮司が死んでいることを最初から知っていた。


 良平は私を駅前のビジネスホテルへ連れていき、コンビニでカップ麺と温かいお茶を買ってきた。彼はそれを私の前へ押し出し、いつもより低い声で言った。


「食べろよ。ここ数日、ろくに食べてないんだろ」


 私は顔を上げた。


「どうして、私が疲れてるってわかるの?」


 彼は黙った。


「それとも、ずっと私をつけていたの?」


 良平は俯いたまま、しばらく何も言わなかった。


「蓮司と組んでるの?」




4.彼は石灯籠の陰にいた

 良平は長い沈黙のあと、ようやく顔を上げた。


「そうだ。ずっとお前を見ていた」


 窓の外を車が通り、光が彼の顔を一瞬だけ照らした。


「蓮司が死んでることは、前から知っていた。お前があいつを埋めた夜、俺は庭の外にある石灯籠の陰に隠れてたんだ」


 私は紙コップを握る手に力を込めた。良平は私の視線を避け、声を低くした。


「あの日、蓮司から電話があって、心配になった。あいつの亡霊が復讐しに来たんじゃないかとも思ったし、誰かがお前に仕返ししようとしてるんじゃないかとも思った。蓮司の死には、俺にも責任があるからな」


「やめて」


 私は彼の言葉を遮った。


「私がやったの。あなたには関係ない」


 五年前の夜、私は道の駅の臨時販売所から帰る途中で良平に会った。彼は私を呼び止め、ひどく険しい顔をしていた。


「英子、今夜は家に帰るな。蓮司が酔って、お前を殺すって言ってた」


 私は何も言わなかった。良平は長い時間、落ち着け、馬鹿なことはするなと私を説得した。けれど家に戻ると、蓮司はすでに酔いつぶれてベッドに倒れていた。


 私は台所でしばらく立ち尽くし、包丁を研いだ。それから、その刃を彼の胸に突き立てた。最後に、遺体を家の裏の杉林へ運び、前もって掘っておいた穴に埋めた。


 良平が自分にも責任があると言うのは、おそらく、彼の言葉がなければ私が蓮司に手を下すことはなかったと思っているからだ。けれど私だけは知っている。あの夜は偶然ではなかった。良平の言葉がなくても、私はいつか蓮司に殺されるか、蓮司を殺すかしていた。


 毎日殴られて感覚を失っていくくらいなら、早く終わらせたかった。


 今のところ、良平はすぐに私を害するつもりではないように見えた。けれど、これ以上無関係な人間を巻き込みたくなかった。


「明日の朝いちばんで水篠を出る。亡霊の復讐でも、誰かの罠でも、全部うちに来ればいい」


 良平が私を見た。


「真相を知りたくないのか?」


 私は首を横に振った。


「真相を知る前に、誰かを死なせるかもしれない」


 その夜、私は良平を帰した。


 翌朝、SMSが届いた。


【森川良平は死んだ】


 その下には写真が添付されていた。良平は目を閉じ、穏やかな顔で眠っているように見えた。


 手が震えた。私はすぐに良平へ電話をかけた。応答はなかった。続けて、二通目のSMSが届いた。


【無関係な人間を死なせたくなければ、言う通りにしろ】


 私はホテルの部屋で、朝から夜まで待った。恐怖、不安、怒りが胸の中で交互に膨らんでいく。夜が完全に落ちたころ、三通目のSMSが届いた。


 また、あの住所だった。


 もう一度、あの古い平屋へ来いということだった。前回、良平が突然現れたことで、相手の計画は崩れたのだろう。だから良平は「死んだ」ことにされた。


 けれど、なぜ私を直接殺さないのか。どうして、どうしてもあそこへ行かせたいのか。疑問はいくつも頭の中を回ったが、私に選択肢はなかった。


 私の命は、本来なら五年前に終わっていたものだ。


 これ以上、誰も巻き込みたくない。


 ホテルを出たところで、誰かに腕をつかまれた。


「行くな」


 振り返ると、帽子と黒いマスクをつけた男がいた。顔の半分以上が隠れていても、その目には見覚えがあった。病院で蓮司のふりをしていた男だった。


 私は本能的にその手を振り払った。


「何が目的なの?」


 男はすぐに一歩下がり、両手を上げた。


「悪意はない」


 信じる気にはなれなかった。これ以上、話している時間もない。


「ついてきたら、すぐに一一〇番する」


 彼は私を見つめ、最後に一枚の紙切れだけを私の手に押しつけた。


「何かあったら、この番号にかけろ」


 そう言って、彼は去っていった。私は紙切れを握りしめ、もう一度あの古い平屋へ向かった。


 家の中は前回と同じだった。湿った空気、机の上の写真、奥の部屋のベッド。突然、灯りが消えた。


 暗闇の中、ベッドの上にあの人影が横たわっているのが見えた。


 同じ姿勢。


 同じ声。


「英子、このクソ女」


 足から力が抜けそうになった。


 ベッドの上の声が続いた。


「俺はここにいる」


「もう一度、殺してみろよ」


「俺が憎いんだろ?」


「来いよ。殺せ」


 私は横の棚に身体をぶつけた。棚の上で何かが揺れ、一本の包丁が床に落ちた。金属が響く音で、私はふっと静かになった。


 あのときも、私は一本の包丁で蓮司を刺した。あの夜、恐怖はなかった。あったのは、憎しみだけだった。


 私は包丁を拾い、ゆっくりと近づいた。割れた窓から月明かりが差し込み、男の手首を照らす。そこに、また赤い痣が見えた。


 その瞬間、すべてがわかった。




5.その痣は描かれたものだった

 私はベッドのそばへ行った。そこに横たわっていた男は、すでに死んでいた。顔も蓮司ではなかった。


 あの痣は、誰かが描いたものだった。


 蓮司の痣は、月明かりの下で何度も見ている。冷たい月の光を受けると、あの赤みは灰色がかり、肌に近い色に沈む。けれど目の前の痣は、絵の具で塗ったものだった。暗くなっても、赤さだけが不自然に浮いていた。


 声も、彼が発したものではなかった。ベッドの枕元に、小型の録音機が置かれていた。私がいつ来るかを知ったうえで、あらかじめ再生する時間を設定していたのだ。


 前回も同じだったのだろう。ただ、録音の一言目が流れた直後に外で物音がして、私は逃げ出した。蓮司そっくりの電話の声も、机の上の工事現場の写真も、おそらく合成されたものだった。


 前回、誰かに追われていると感じたのも、恐怖のせいで亡霊を想像しただけだった。


 相手の狙いははっきりしていた。私にベッドの上の遺体を蓮司だと思わせ、録音で追い詰めて、錯乱した私に包丁を握らせる。そうなれば、私は自分がまた人を殺したと思い込む。混乱した私は、きっと五年前と同じように遺体を処理する。


 本当の犯人は、すべての罪を私になすりつけられる。


 計画は、あまりにも周到だった。


 ここまでのことをした理由は、私をもう一度、身代わりにするためだった。


 私は恐怖を押し殺し、家を出た。外に立ったまま、例の番号に次々とメッセージを送った。


【人を殺した】


【あなたは誰なの】


【どこにいるの】


【お願い、会いに来て】


 私は玄関先で一晩を過ごした。


 翌朝、路地の向こうに良平が現れた。顔色は悪く、服には土がつき、額には腫れた痕があった。私は彼を見つめた。死んだはずの人間が戻ってきたように見えた。


「どうしてここにいるの?」


「あなた、死んだんじゃ……」


 良平は頭をかき、戸惑ったような顔をした。


「昨日、道を歩いていたら、後ろからいきなり殴られたんだ。気がついたらどこかに閉じ込められていて、ついさっき解放された」


 彼の視線が、古い平屋へ向いた。


「ここは何だ?」


 良平が中へ入ろうとしたので、私は慌てて腕をつかんだ。


「入らないで。早く離れて」


 彼は私を見た。かえって中を確かめたそうにした。私は声を落とした。


「中に死体がある」


 良平の動きが止まった。


「お前が殺したのか?」


 私はうなずいた。良平はすぐに私をホテルへ連れ戻した。


 部屋の扉が閉まると、私は椅子に座り、両手をきつく握りしめた。


「蓮司の亡霊だと思ったの。あの瞬間、本当におかしくなっていた」


「包丁で刺した。でもあとで、その人は蓮司じゃなかったってわかった。ただ少し似ていただけだった」


「停電していて、月明かりしかなかった。私には見分けられなかった」


「良平さん、私はどうすればいいの?」


 私は彼を見た。良平が最初に聞いたのは、私が怪我をしていないかではなかった。


「死体は?」


 私はうなずいた。


「五年前、蓮司にしたときみたいに切った。その一部がこれ」


 私は黒いビニール袋を彼の前へ投げた。その瞬間、良平の目にかすかな勝利の色が浮かんだ。


 彼はすぐに私の肩をつかみ、声をやわらげた。


「英子、怖がるな。俺が考える」


 良平は少し考えるふりをした。


「五年前だって大丈夫だったんだ。今回も同じだ。死体をきちんと処理すればいい」


「人が来ない場所に埋めて、別の町へ移ればいい。誰にも見つからない」


「お前は初めて人を殺したわけじゃないんだから」


 私は黙って聞いていた。彼は私を助けているように見せかけていた。けれど一言ごとに、私の身体へ「殺人犯」という釘を打ち込んでいた。


 その瞬間、私は自分の推測が正しかったことを知った。


 私は顔を上げ、彼の目を見た。


「良平さん、全部あなたが裏で操っていたんでしょう?」




6.本当の犯人

 良平は無実そうな顔をした。


「英子、何を言ってるんだ?」


 私は視線をそらさなかった。良平はゆっくり眉をひそめ、苛立った声を出した。


「俺はお前を助けようとしてるんだろ?」


「五年前、俺が蓮司の死を黙っていてやらなかったら、お前は今まで生きていられたのか?」


「感謝するどころか、俺を疑うのかよ」


 私は冷たく笑った。


「じゃあ、あなたがどう助けてくれたのか、私が話してあげる」


 良平は何も言わなかった。


「あの古い平屋の男には手首に赤い痣があった。でも病院で蓮司のふりをした男にはなかった。つまり、この二つを動かしている人間は同じじゃない」


「むしろ、目的がまったく逆の二人だった」


「あなたはいつも大事な場面に現れて、私を助けるためだと言った。でもその偶然は、あまりにも作られすぎていた」


「あなたの計画では、私が最初にあの平屋へ入ったとき、録音に追い詰められて、ベッドの上の男を殺すはずだった」


「でも外で誰かの気配がして、私は我に返って逃げた。そのとき、あなたはちょうど外にいた」


 良平の目がわずかに動いた。反論はなかった。


「あの夜、私が翌朝には水篠を出ると言ったとき、あなたの目には明らかに驚きと不満があった」


「そのときは、あなたが真相を知りたがっているだけだと思っていた。でも違う。あなたは私を残したかった」


「まだ、やるべきことが終わっていなかったから」


 私は彼の顔を見つめた。


「良平さんが死んだという写真も、あなたが用意したものね」


「私が言うことを聞かなければ、周りの人間が死ぬと思わせたかった」


「恐怖で私を動かして、SMSの指示通りにあの平屋へ戻らせたかった」


 良平の口元がわずかに下がった。私は黒いビニール袋を指さした。


「あなたが私にやらせたかったのは、これ」


「ベッドの上の人は、とっくに死んでいた。私の推測が正しければ、殺したのはあなた」


「理由はわからない。でも人を殺したあと、あなたは慌てた。処理の方法がわからなかった」


「そのとき、私を思い出した」


「五年前、私はすでに一度、あなたの罪をかぶっていた。自分では気づかないまま」


 良平は目を閉じ、突然笑い出した。その笑い声は狭いホテルの部屋に響いた。


「まさか、そこまで頭が回るとはな」


 彼は床の黒い袋に目を向けた。目の奥には、嘲るような光があった。


「でも、もう遅い」


「お前が人を殺して、死体を切った。それは事実だ」


 私は動かなかった。良平はついに、仮面を外した。


「言っておくが、あいつは本当に数日前に死んでいた」


「あいつも蓮司と同じだ。金を持っているくせに、俺には貸さなかった」


「酔った勢いで、つい殺しちまった」


「だから、お前を思い出したんだ。罪をかぶせるには、ちょうどいい相手だと思ってな」


 彼はあまりにも平然と言った。まるで殺したのは人ではなく、邪魔な虫か何かだったように。


 そのとき、胸の奥にさらに恐ろしい考えが浮かんだ。ベッドの上の男が、私が手を下す前にすでに死んでいたのなら、五年前の蓮司はどうだったのだろう。私が殺したと思っていた蓮司も、私が家に戻る前にはすでに死んでいたのではないか。


 良平は、私の表情を読み取ったようだった。椅子に座り直し、ゆっくりと昔のことを語り始めた。


「子どものころ、俺も蓮司も貧乏だった」


「でもあいつは、高校のころから彼女がいた。お前だ」


「大学でも二人でバイトして、卒業したら東京の仕事を捨てて、あいつと田舎で苦労することを選んだ」


 良平の目には、濃く濁った嫉妬が浮かんでいた。


「あいつだけ、どうしてそんなに恵まれてるんだ?」


「俺が見合いに行けば、相手はみんな俺に甲斐性がないって嫌な顔をする。なのにお前らは、畑に行くときでさえ二人で並んで歩いてた」


 彼は笑った。その笑いに、胃が冷たくなる。


「だから、町内会の祭りの打ち上げで、蓮司を酔わせた。女は殴らなきゃ言うことを聞かないって教えてやったんだ」


「殴れば、従うってな」


「あいつはその場で帰ろうとした」


「腹が立ったよ。でもお前たちを壊すために、俺はあいつを引き止めた」


 良平は俯いた。まるで得意げに思い出しているようだった。


「酒だけじゃ足りないのはわかっていた。だから次はまた飲みに誘って、少しだけ混ぜた」


「あの日、蓮司を家まで送ったのは俺だ」


「俺はお前たちの家の塀の外に隠れていた。お前が何気なく、どうしてそんなに飲んだの、って聞いたのを覚えてる」


「あいつは、お前を平手打ちした」


 良平が顔を上げる。目には歪んだ快感が浮かんでいた。


「あの音は、最高だった」




7.壊された少年

 私は目の前の男を見つめていた。初めて、本当に人間なのか疑った。


 世の中に、こんな外道がいるのか。


 良平はまだ笑っていた。


「お前たちがどれだけ幸せなのかと思ってたよ」


 彼は指先で、ほんの少しの隙間を示した。


「ほんの少しだ。ほんの少しで、あいつはお前に容赦しなくなった」


「あの夜、外でお前の悲鳴を聞いたとき、俺がどれだけ嬉しかったか」


 涙が目の奥に溜まった。それでも私は顔を伏せなかった。良平は話し続けた。


「翌日、わざとお前たちの家へ行った。そしたら蓮司のやつ、お前に土下座して謝ってた。もう二度と酒は飲まないってな」


「お前は馬鹿だから、それを許した」


「せっかく二人がまた元に戻りそうになっていたんだ。止めるしかないだろ」


「酒を飲まないなら、飯は食う」


 呼吸が少しずつ重くなっていった。


「だから、あいつの食事に混ぜた」


「その日、あいつがまたお前を殴る音を聞いて、俺は一晩中眠れないほど嬉しかった」


 胸の奥を細い針で何度も刺されるようだった。ようやくわかった。どうして蓮司は何度も謝り、また同じように自分を失ったのか。三年もの間、彼は何かに引きずられるようにして、私を地獄へ突き落とし続けた。


 良平の声は止まらなかった。


「お前があんなに耐えるとは思わなかった」


「でも途中で考え方を変えた。妻がいても、あいつはもうDV男だ。幸せなんかじゃないってな」


「俺は最初、殺すつもりなんかなかった」


 彼の笑みが、ゆっくりと冷たくなった。


「でも、貸すと言っていた金を、急に貸さないと言い出した」


「あれは英子が苦労して稼いだ金だから、手をつけられないってな」


 良平が歯を食いしばる。


「三年だぞ。三年もお前を殴っておいて、そんなときだけお前を大事にする」


「どうして、あいつはそんなに中途半端なんだ」


「俺は瓶をつかんで、あいつの頭に叩きつけた。あっけなく倒れて、そのまま死んだ」


 視界が暗く揺れた。


「いろいろ試したが、どうしても息を吹き返さなかった。警察にも通報できなかった。一一九番もできなかった」


「だから血を拭き取って、ベッドに戻した。酔って寝ているように見せかけたんだ」


「それから、玄関の近くでお前を待った」


「今夜、蓮司がお前を殺すと言っていた、と教えるためにな」


 私はついに耐えきれず、涙をこぼした。胸が何かで塞がれたように痛く、息をするたびに苦しかった。


 私は何度も考えてきた。あんなに優しかった人が、どうして突然ああなってしまったのか。蓮司とは中学の同級生で、高校も同じだった。受験の前、彼は顔を赤くして私を好きだと言った。実はそのころ、私も彼が好きだった。


 私たちは同じ大学へ進み、コンビニや居酒屋で働きながら、少しずつお金を貯めた。卒業後、蓮司は長野の実家に戻り、荒れた農地をもう一度耕して、有機野菜や加工品を近くの道の駅に出したいと言った。私は彼についていった。


 生活は苦しかった。それでも、きっと良くなっていくと思っていた。彼にはお金がなかった。けれど、それ以外はすべて持っていた。そんな彼が、突然別人のようになった。


 初めて殴られた翌日、彼は私に土下座して謝った。私は離れることも考えた。けれど二人で守ってきた畑と小さな作業場を見ると、あの長い時間を捨てられなかった。彼はきっと戻ってくれると思った。


 けれど、彼はどんどんひどくなった。そのうち、まるで自分を諦めたように、毎日酔って何もしなくなった。私は彼を救えないとわかり、逃げることも考えた。


 そのころの私は、もう逃げる力すら失っていた。彼と結婚するために両親とは縁を切っていた。帰る場所もなかった。私が賭けたのは、彼の真心だった。


 彼が変わってしまった理由を、私は何度も考えた。もともとそういう人だったのかもしれないとも思った。けれど、誰かに少しずつ壊されていたなどとは、一度も思わなかった。




 あのころ、私は彼を憎んでいた。若いころの夢を壊されたことも、愛を信じていた自分を壊されたことも、帰る家まで失ったことも。良平から、蓮司がお前を殺すと言われた夜、私はもう生きようとは思わなかった。


 彼を殺して、私も死ぬつもりだった。けれど人間の生への執着は強かった。あらかじめ用意していた農薬の瓶を前にしても、どうしても飲み下せなかった。


 蓮司が死んだのなら、私のこれからは少しは楽になるのではないか。そう思った私は、彼の遺体を家の裏の杉林へ運び、誰も来ない場所に埋めた。翌日、村の人たちには、蓮司はやり直すために水篠へ働きに行ったと話した。


 村の人たちは、私たちの家の事情を知っていた。それ以上は深く聞かなかった。私はその家に住み続けた。


 五年。


 まるまる五年。


 そこまで思い出すと、胸の痛みで呼吸ができなくなりそうだった。私は彼に、完全な遺体さえ残さなかった。人の来ない山の中に、五年もの間、ひとりで眠らせてしまった。


 良平は私の顔を見て、また笑った。


「今さら、あんなやつのために泣いてるのか?」


 私は涙を拭い、顔を上げた。


「ここまでして、私が警察に行くとは思わないの?」


 良平はさらに大きく笑った。


「何を怖がる必要がある? 二人ともお前が殺したんだ」


 その顔は悪魔のようだった。


「しかも、お前は二人とも処理してる」


「警察が調べたって、俺にはたどり着けない」


 今すぐ彼を殺したいほどだった。蓮司はあんなにも前を向いていた。田舎へ戻り、荒れた田畑をもう一度耕し、村の年寄りたちと一緒に作ったものを道の駅へ出したいと言っていた。そのすべてが、良平の嫉妬によって壊された。


 彼は蓮司を殺し、私たちを引き裂き、私に五年間も蓮司を憎ませた。


 そのとき、扉の外から男が飛び込んできた。拳が良平の顔を殴りつける。


「この外道!」


 病院で蓮司のふりをしていた男だった。杉浦圭。昨日、古い平屋を出たあと、私は紙切れに書かれた番号へこっそり連絡していた。彼はそこで、自分の正体を教えてくれた。蓮司と幼いころから一緒だった友人だった。


 五年前、私が村の人たちに蓮司は水篠へ働きに行ったと話したあと、圭は深く聞かなかった。そして村を離れた。五年も会っていなかったから、病院で顔を隠されていた私は、彼だと気づけなかった。


 彼の正体を知った瞬間、病院にいた偽の蓮司が何だったのか理解した。良平は意図的に私を追っていた。一方、圭は本当に偶然、私たちと同じ電車に乗っていただけだった。車内で私と良平の会話を聞き、私が追い詰められていると気づいたのだ。


 駅を降りたあと、彼は病院の外のドラッグストアで包帯とマスクを買い、外来ロビーの車椅子置き場で、急場しのぎに蓮司のふりをした。ばれないよう、顔を包帯で隠した。良平は本来、病院で私の嘘を暴くつもりだったのに、圭に邪魔されたのだ。


 そのため良平は、それを逆に利用した。蓮司の亡霊が復讐しに来たと、私により強く信じ込ませるために。


 死に戻りだと思い込んだことも、良平の計画だった。


 彼は蓮司のふりをして顔に血を塗り、恐怖で動けなくなった私の首を絞めて気絶させた。そのあと私をベッドへ戻し、翌日の午前三時に、ほとんど同じ内容の電話をかけた。目を覚ました私はスマートフォンの時刻だけを見て、日付が変わっていることに気づかなかった。


 だから私は、死んで過去へ戻ったのだと思い込んだ。


 途中でタクシーが故障したのは、ただの偶然だった。何度も転んだのも、恐怖と焦りのせいだった。最後に真実を見せてくれたのは、蓮司の本物の痣だった。


 良平は殴られた顔を押さえ、ようやく相手に気づいた。


「杉浦圭、お前、俺を殴ったな!」


 圭は何も言わず、さらに二発殴った。良平の肋骨のあたりで、鈍い音がした。


「蓮司を殺して、英子まで陥れようとした。お前なんか、地獄に落ちろ」


 さっき良平が話していたことを、圭は扉の外で聞いていた。彼は蓮司と幼いころからいちばん仲が良かった。その怒りは、私に劣らなかった。


 良平はまずいと思ったのか、もがきながら出口へ向かった。


 けれど、もう遅かった。




8.警察が踏み込んできたとき

 良平が入口へ駆け出した瞬間、数人の警察官が入ってきた。


「森川良平さん、殺人の疑いで逮捕します」


 私は圭と連絡を取り合ったあと、彼に警察へ通報してもらっていた。良平のような人間は、法の裁きを受けるべきだった。


 良平の顔に、信じられないという色が広がった。


「違う! 人を殺したのは俺じゃない。こいつだ!」


 彼の目が床の黒いビニール袋へ向いた。


「見ろよ。こいつは死体を処理してる。そこに入ってるんだ!」


 私は袋を拾い上げ、口を開いた。


「これのこと?」


 中に入っていたのは、古い平屋で適当に詰めた小物だけだった。良平は、ようやく自分がだまされたことに気づいた。


 先頭に立っていた警察官が彼を見た。


「連れていってください」


 私と圭も警察署へ行った。五年前に起きたこと、蓮司が死んだ夜のこと、水篠で仕掛けられた今回の罠を、すべて話した。あらかじめ用意していた録音機も提出した。


 そこには、ホテルの部屋で交わされた私と良平の会話がすべて録音されていた。彼が犯人だと考えた私は、圭に頼んで先に録音機を部屋へ置いてもらっていた。圭は外で一部始終を聞いており、証人にもなった。


 良平のような人間には、必ず代償を払わせなければならなかった。けれど、これだけでは蓮司を殺した証拠として十分ではない。良平はずっと言い逃れを続けた。蓮司の死はすべて私に押しつけようとしていた。


 それは予想していたことだった。ここまで手の込んだことをして私に罪をかぶせようとした男が、簡単に認めるはずがない。


 私はかつて、蓮司はもう救いようのない人間になったのだと思っていた。真実が明らかになって初めて、あれは本当の彼ではなかったのだと知った。


 どうしても考えてしまう。


 あのとき、私が彼のそばに立てていたら、違う未来があったのだろうか。


 私は警察署で長い事情聴取を受けた。圭は弁護士を頼んでくれた。その弁護士が面会に来たとき、圭からの言葉を伝えてくれた。


「諦めないでください」


 さらに、蓮司が生前、圭に話していた言葉も聞かされた。


「俺は英子にひどいことをした。もし俺に何かあったら、あいつのことを頼む。残りの人生くらい、ちゃんと生きてほしい」


 それを聞いた瞬間、私は面会室で長い間泣いた。蓮司と結婚したことは、私の人生でいちばん大きな決断だった。そして、いちばん痛い記憶でもあった。


 警察は事実を確かめるため、私が話した場所を掘り返し、蓮司の遺骨を見つけた。法医学鑑定の結果、蓮司はまず頭部への強い打撃で死亡し、その後に刺し傷と遺体損壊の痕がついたことが確認された。


 警察は村の人たちからも話を聞き、当時残っていた記録を調べた。私が長くDVを受けていたこと、良平が何度も蓮司に近づき、酒を飲ませるよう誘導していたこと、そして今回の水篠の死者にも関わっていたことが明らかになった。


 五年前に私が蓮司の遺体を損壊し、山へ埋めた件についても、警察と検察の事情聴取を受けた。私は逃げなかった。けれど法医学鑑定で、蓮司は私が刺す前に頭部への打撃で死亡していたことが確認された。


 少なくとも、蓮司を殺したのは私ではなかった。


 最終的に、良平は殺人、傷害、死体遺棄、証拠隠滅などの罪で起訴された。一審の判決の日も、彼は法廷で最後まで強がった。


「あいつらは死んで当然だったんだ!」


 ああいう人間は、命の最後の瞬間になって初めて、自分の罪に気づくのかもしれない。


 あるいは、最後まで気づかないのかもしれない。




9.前へ進む、そして振り返る

 捜査が一段落したあと、私は蓮司の遺骨を連れて故郷へ戻った。村の墓地に、彼の墓を建てた。


 その日、たくさんの人が来てくれた。村の人たちは墓前に花を置き、静かに私を気遣った。


「無理しないで。蓮司も、英子ちゃんがずっと苦しむことは望んでないよ」


 私はうなずくことしかできなかった。彼らは知らない。私は五年かけて、愛した人を自分の手で殺したという影から、ようやく這い上がったばかりだった。今度は、別の底の見えない場所へ落ちてしまった。


 苦しみを、言葉にすることはできなかった。


 人が少なくなったころ、圭の姿が見えた。彼は少し離れた場所に立ち、白い花束を持っていた。


「やっと、蓮司との約束を守れた気がする」


 その夜、私は圭を家に招いて食事をした。村の小さな店で地酒を一本買った。喉を通ると焼けるように辛かったが、胸の奥に長く詰まっていたものが、少しだけほどける気がした。


 圭は何口か酒を飲み、昔の蓮司の話をした。


「プロポーズの前、あいつ徹夜でいろいろ調べてたんだ。俺たちにも手伝えって言って、指輪や小道具を買うためにずっと節約してた」


「成功した夜は、嬉しすぎて一睡もできなかったらしい」


「英子に会えたことが、人生でいちばんの幸運だって言ってた」


 私は杯の中の酒を見つめた。そうだ。私も、あのころは同じように思っていた。


 蓮司に出会えたことが、私の人生でいちばんの幸運だった。


 けれど、運命は私たちを放っておかなかった。


 愛しすぎたからこそ、何かに妬まれてしまったのかもしれない。


 あのころ、私は蓮司を許せない人間になってしまったと思っていた。彼が死んだあと、彼の持ち物はすべて燃やした。何も残さなかった。写真一枚さえ残っていなかった。


 圭は杯を空にすると、立ち上がった。


「英子、無理するなよ。何かあったら連絡してくれ」


 私は玄関まで見送り、夜の中へ消えていく彼の背中を見つめた。


 部屋へ戻り、もう一口酒を飲んだ。ふと、遠い昔の蓮司が見えた気がした。夏の畦道に立つ、まっすぐで、笑うと目に光が宿る少年だった。


 彼が私に笑いかける。


「英子、前を向いて歩け。振り返るな」


 私は目を閉じ、そっと頷いた。


 きっと、そうする。


 私は前へ進む。


 それでも、時々は振り返るのだと思う。


 あの少年の顔を、いつか思い出せなくなる日まで。


――完――



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