番外編 記念日
夜。
呼吸が浅くて、
体だけ熱いみたいな感覚。
暗いのに、
遠くに“詩らしい影”が見える。
呼んでも届かない。
「おい」
声が出ない。
足を踏み出しても、
なぜか距離だけが開いていく。
詩はちゃんとそこにいるのに、
絶対に振り向かない。
ただ、静かに歩いてる。
追いつけそうで、
追いつけない。
(なんでや)
(そこにおるのに)
焦りだけが強くなる。
胸の奥がざわついて、
呼吸が乱れる。
「詩……」
やっと声が出た瞬間、
景色が一回崩れる。
ハッ、と目が覚める。
暗い天井。
静かな部屋。
心臓だけがやけにうるさい。
「……夢か」
小さく吐き出す。
隣を見ないと怖いのに、
一瞬だけ動けない。
でも結局、見る。
詩はそこにいた。
いつも通り、
少し丸くなって眠ってる。
呼吸は一定で、
眉間も何も寄ってない。
そこでやっと息をする。
「……おるやん」
小さすぎる声。
無意識に手が伸びて、
詩の肩に軽く触れる。
あったかい。
(……夢)
何も言わないまま、
指先で軽く触れるくらいの距離で、
「……おるな」
って確認するみたいに呟く。
まだ落ち着ききっていない鼓動
違和感を吐き出すように
大きく息を吐いて
寝転ぶ
ハッと小さい笑い声
…1年。
明日、詩を見つけたあの日から
1年になる
絶望感に押し潰されそうだった
あの日々を
“思い出してたからか”
でも。
今はここにいる。
手を伸ばして
柔らかい身体を
腕の中に閉じ込めて。
髪に顔を埋めると
彼女の匂いを鼻から
吸い込んだ
朝。
なんだか窮屈で、
身体が動かなくて
目が覚める
ガッチリと回された腕
抜け出せそうにもない
“昂汰さん”
小さく呼びかけると
ほんの少しだけ力が緩んだ
まるで抱き枕のように
抱えられて
頭の上から声がする
“今日、出かける約束覚えてる?”
まだ寝起きの掠れた声
起き抜けにそんな話。
「覚えてるよ。試合の後、ご飯」
「ん…終わったら迎えにくる」
「ありがとう…で、も」
“とりあえず朝ごはんだよ”
“これじゃ動けないよ”
抗議しても一向に緩まない
「ね、どうかしたの…?」
腕の中
ジタバタと騒いでいたのに
急に不安気な声に変わる
「んーなんでもない」
おでこにキスを落として
解放しても
もう遅い。
なにかを読み取ろうと
真っ直ぐな視線を送ってくる彼女に
苦笑する。
「なんもないって。」
“それより”
「ちゃんとオシャレしてこいよ」
そう言って彼女の
鼻をつまんで誤魔化した。
“お風呂用意するね”
夕食後、帰宅すると座りもせずに
動き出そうとする
彼女の腕を捕まえる
「なに…?」
「ちょっと」
ソファに連れ立って、
そのまま座り込む。
「…これ」
差し出された小さな包みと
俺の顔を交互に見る
「開けて」
促されるように封を開ければ。
「…出来れば普段使いして欲しい」
「大事だからってしまっておかないで」
俺の声が聞こえているのか
手元を見つめたまま何度も頷く
うん、うんと言葉にならない
「詩…」
顎に手をかけ、こちらを向かせれば
今にも溢れそうなほどに
涙が溜まっていて。
「覚えてるか?…去年の、今日」
瞬きと一緒に、
彼女の瞳から
一粒、こぼれた。
「詩を、諦めなくてよかった…」
そのまま頭を抱え込む。
詩の泣き声だけが部屋に落ちる
「泣きすぎやろ…」
少し笑って
両手で彼女の頬を包む
「…うた」
真剣な声に
詩も大きく深呼吸して
息を整えようとする。
「一緒にいてくれてありがとうな」
「ほんま…」
“愛してる”
一瞬の静けさ
の後
詩が腕の中に飛び込んできた
「…こ、こう、た、さん」
しゃくりあげながら
必死に呼びかけてくる
「ん、一旦落ち着け」
背中をさすりながら
こめかみに、髪の毛に
小さなキスを落とす
“あのね”
涙に濡れた瞳が
俺を真っ直ぐに射抜く
「これ」
手に落とされたのは
キーリング
“気に入ってくれるといいんだけど”
“出来れば、普段使いしてね”
悪戯っぽく微笑んで
また、真っ直ぐに見つめる
「あの日」
本当は身体、辛くて
心が苦しくて
昂汰さんに
“会いたくて”
会いたくてたまらなかった
逃げたのに。
忘れられてるかもしれないって
怖くて
怖くて
あなたが来て
「怒ってる」って
「無事でよかった」って
あの時、やっと。
息ができるようになった
だからね
わたしにとっても
「特別な日」
涙を
嗚咽を
堪えながら、でも必死に
「これ、つけたい…」
「…ん」
俺の、
そして彼女の
望み通り
渡したネックレスを詩の首にかける
「…どう?」
「うん、よう似合うてる」
頷いた彼女の笑顔が、
とうとう崩れ落ちた
“ありがとう”はわたしの方
肩を引き寄せて
腕の中に閉じ込める
離れたくない、と力を込めたのは
2人同時だった
腕の中で、詩はまだ泣いていた。
声にならないまま、呼吸だけが震えている。
昂汰はそれ以上何も言わない。
ただ、背中に回した手の力を少しだけ強める。
詩の髪に額を寄せて、
一度、目を閉じる。
言葉にはならないまま、
胸の奥だけが静かに満たされていく。
詩の指が、昂汰の服を握る。
まだ離れそうで、離れたくなくて、
必死にしがみつくみたいに。
昂汰はその手を見て、
ほんの少しだけ笑う。
「……大丈夫や」
誰に向けたでもない声。
詩は何も言わず、
ただ、さらに強く抱きついてきて。
昂汰はそんな
詩の頭を、ゆっくり撫でた。
一度。
二度。
呼吸のリズムが、少しずつ揃っていく。
泣き声が弱くなっていく代わりに、
静かな湿り気だけが残る。
それを確かめてから、
もう一度だけ強く抱きしめる。
(……一年前も)
(こうやって、連れ戻したんやな)
けど、今は違う。
もう“失いかける不安”じゃない。
“ちゃんとここにいる”っていう実感だけがある。
昂汰は小さく息を吐いて、
詩のこめかみに、そっとキスを落とす。
一瞬だけ止まる詩。
でも、離れない。
むしろ、そこに顔を埋めてくる。
それを受け止めて、
もう一度、抱きしめ直す。
言葉はないまま、
夜は静かにほどけていく。
(あれ…?)
朝。
寝室を片付けていた時
何かが落ちた気がした。
拾い上げてみれば
「メモ…?」
クシャクシャに丸められたそれは
“昂汰さんへ“
という書き出しで。
「昂汰さんー?洗うものありそう?」
詩が寝室を覗いた時、
目に入ったのは
真っ赤な顔で
手を口に当てながら
何かの紙を読んで…
「…きゃーーーッ」
家中に響き渡る大声
「待って待って、なんで」
過去最高に慌てふためく詩に
冷静になっていく昂汰。
「お願い、返して」
“読んでないよね、
読んでないって言って、お願い”
意地悪そうに
口元を上げた昂汰が
ピラッと掲げる
「…これ?」
「落ちてたんだよ」
「でも」
“これ、俺宛てやん”
昂汰の表情に絶望する詩
せめてもの抵抗をと
その手に握られている紙を
奪いに行って
あっけなく捕まる
お願い、返してと縋り付いた所で
背も手も届くわけがなくて
「うた」
これ、下書きやんな
本物は?
「ない」
「ウソやん」
「ないもんっ、ほんとに」
「それは嘘やで」
「だって」
本当は手紙と一緒に渡すつもりだった。
でも、
書く前に昂汰さんが“食事行こう”って
だから。
「ちゃんと、
自分の言葉で言わなきゃ…って」
突然、昨夜の
泣きながら、
しゃくりあげながら、
それでも必死に言葉を
紡いでいた姿が浮かんできて
真っ赤になって説明する
目の前の生き物を見る。
ハアッ…と大きく息。
「うた…」
“またかよ”
その言葉をなんとか飲み込んで
「お前…わかってる?」
“今、自分がどうなってるか”
手紙を取り返したい一心で
昂汰に抱きついて
羞恥心で
真っ赤な顔に
涙目
「あ…」
慌てて後退りしようとした
その腰を片手で捕まえて。
引き寄せる。
…もう、遅い。




