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第六話:美貌が綴る新世紀



 アステリア王国が「ジャガイモの塵」と化し、地図からその名前が消えてから一年の月日が流れた。


 現在の世界地図は、政治的国境によってではなく、一人の少女――ルナリエ・フォン・アステリアからの「物理的な距離」によって再定義されている。彼女が鎮座するバルディア帝国の帝都は、今や「世界の中心」どころか「宇宙の特異点」と化していた。


 帝都の入り口には、世界中から集まった数千万人の巡礼者が列をなしている。彼らの目的は、ルナリエがバルコニーから気まぐれに投じる「一瞥」という名の奇跡を授かることだ。


 かつては金銭や領土を奪い合っていた王たちは、今や「ルナリエ様の庭園の雑草を抜く権利」を賭けて外交戦を繰り広げている。彼女の顔を一秒間直視することは、もはや国家予算数年分に匹敵する「究極の報酬」であり、それを一度でも経験した者は、その後の人生ですべての贅沢を「安っぽいゴミ」として切り捨てることができると言われていた。


 バルディア帝国の宮殿、その最奥にある「神貌しんぼうの聖域」。

 ルナリエは、星の欠片を織り込んだような最高級のシルクの椅子に座り、穏やかにティーカップを口に運んでいた。


 彼女が息を吸うだけで、宮殿内の空気は純金よりも清らかな芳香を帯び、彼女がまばたきをするたびに、周辺の魔導計器が「未知のエネルギー過負荷」により火花を散らす。


「ルナリエ様、本日の『謁見希望者リスト』でございます」


 皇帝ヴァレリウスが、かつての覇王としての威厳をどこへ捨ててきたのか、給仕係のような完璧な手捌きでお茶を注ぎながら言った。彼のゴーグルは、今や「太陽を直視しても網膜が焼けないレベル」の極厚遮光ガラスに進化している。


「北方の賢者王、南方の海洋覇者、そして……かつての『ジャガイモの国』の遺民たちが、貴女様の足跡を舐める許可を求めております」


「陛下、私をあまり困らせないで。私はただ、こうして静かにお茶を飲んでいたいだけですわ」


 ルナリエが小さく首を傾げる。その極めて自然な動作が描く曲線は、現代数学のすべての幾何学を「未熟な落書き」に追い込むほどの完璧さを誇っていた。


「静寂など、もはやこの宇宙が許しません。貴女がそこに存在する。ただそれだけの情報が、全人類の生存本能を狂わせるのですから。……ああ、ルナリエ様。先ほど貴女様がカップを置いた際に生じた『音』だけで、隣国の戦争が三つ止まりました。あまりの神々しさに、兵士たちが戦う意味を失い、武器を溶かして貴女様の像を作り始めたそうです」


「まあ。それは少し、騒がしすぎますわね」


 ルナリエは窓の外を見た。

 帝都の広場には、彼女の顔を拝むために数ヶ月間不眠不休で待ち続けた人々が、彼女の影が窓越しに映っただけで「ああ……至高の情報量だ……脳が……脳が幸せで溶ける……!」と歓喜の叫びを上げ、集団で失神していく様子が見える。


 これが、情報の頂点に立つ者が統べる世界の姿であった。

 人はパンのみに生きるにあらず。人は、ルナリエの美貌という「致死量の報酬」を求めて生きる、新たな種へと進化したのである。


 そこへ、帝国最強の騎士レオポルドが、重々しく部屋に入ってきた。

 彼は今、帝国の軍事力ではなく、ルナリエの「護貌ごぼう騎士団」の総帥として、世界最強の防衛網を敷いている。


「ルナリエ様。旧王国の『残党』についての最終報告です」


「……あの、ジャガイモの方たちのこと?」


「はい。自称・元王太子のセドリックは、現在、帝都の最下層にある『ルナリエ様記念館』の清掃員として働いております。彼は一日に一度、貴女様がかつて捨てた『使い古した手袋』を遠くから眺めることだけを糧に生きており、もはや言葉を失いました。ただ、手袋を見るたびに『アバ、アバババ……』と恍惚の声を上げるだけの、幸せな肉塊となっております」


 ルナリエは、かつての婚約者の末路を聞いても、眉一つ動かさなかった。

 彼に与えられた「ざまぁ」は、もはや罰ですらなかった。彼は、「至高の存在を捨てた」という自分自身の愚かさを、永遠に彼女の美しさという鏡に照らされ続けることで、精神的な死を繰り返しているのだ。


「そして、義妹であったリリアーヌは……。彼女は今、各地の村々を回り、『私はジャガイモです! 私は、土に埋もれるべき不格好な根菜なのです!』と叫びながら、畑を耕すボランティアに没頭しているそうです。彼女は自分の顔を直視することができず、常にバケツを被って生活しているとのこと」


「彼女なりに、自分の『価値』を見つけたのですね。喜ばしいことですわ」


 ルナリエは、本気でそう思っていた。

 美しさは、暴力だ。

 それを持たぬ者が、無理に持とうとすれば、自らの魂を焼き切る毒となる。彼女たちはただ、ルナリエという「真実」によって、本来あるべき場所に収まったに過ぎない。


 皇帝ヴァレリウスが、真剣な面持ちで膝をついた。


「ルナリエ様。我が帝国は本日をもって、国家としての機能をすべて貴女様に捧げます。明日、貴女様を『世界皇帝』としてではなく、『世界の視覚的定数』として戴冠させていただきたい」


「定数……ですか?」


「そうです。一メートルという長さが不変であるように。一秒という時間が不変であるように。貴女様の顔面を、この世界の『美の絶対単位』として定義するのです。すべての人間は、貴女様の顔を基準として自分の醜さを計算し、慎ましく生きる権利を得る。これこそが、終わりのない争いを止める唯一の、そして究極の宗教となるでしょう」


 ルナリエは、長いまつげを伏せた。

 彼女は追放された日を思い出す。

 「顔が良いだけの無能」と蔑まれ、捨てられたあの日。

 だが、その「顔の良さ」こそが、魔力も権力も及ばない、生命の本質的な「格」であったことを、今や全世界が知っている。


「美しさは罪ではありません。それを理解できないほどに、世界が醜かった。ただ、それだけのことですわね」


 ルナリエは立ち上がり、テラスへと歩み寄った。

 彼女を待っていた数千万人の視線が、一点に集中する。その視線の圧力だけで、大気が震え、物理的な熱量となって帝都の気温を三度上昇させた。


 彼女は、レオポルドから手渡された「新しいヴェール」を受け取った。

 それは、魔導銀よりもさらに薄く、神の糸で編まれたとされる透明な絹。

 だが、それは彼女を隠すためのものではなかった。

 あまりにも強すぎる彼女の「光」を、人類が直視して即死しないように減衰させるための、慈悲のフィルターであった。


「皆様。今日から、世界を少しだけ静かにさせましょう」


 ルナリエがヴェールをふわりと被る。

 その瞬間、帝都全体を包み込んでいた狂乱の熱気が、しっとりとした静寂と充足感へと変わった。

 人々は、彼女の顔面という「最強の報酬」を情報のヴェール越しに受け取ることで、永遠に尽きることのない、穏やかな幸福の中へと没入していった。


 戦う必要はない。

 欲しがる必要もない。

 ただ、そこに彼女がいる。その事実を確認するだけで、脳内には無限のドーパミンが分泌され、全人類が「満たされた奴隷」として平伏す。


 かつて最強の軍事帝国と呼ばれたバルディアは、今や巨大な「ルナリエ・テラピー・センター」へと変貌を遂げた。

 皇帝はお茶を淹れ、騎士は庭を掃除し、賢者は彼女の美しさを讃える詩を一生をかけて綴る。

 

 ルナリエは、新しく用意された椅子に深く腰掛け、再び目を閉じた。

 彼女の脳裏には、もはやジャガイモたちの騒がしい声は聞こえない。

 ただ、穏やかな風の音と、香ばしい紅茶の香り。

 そして、自分という「究極の個体」を神として受け入れた、幸福な世界の静寂があった。


「……ああ、ようやく落ち着いてお茶が飲めますわ」


 彼女が満足げに微笑んだ瞬間。

 その余波により、大陸の反対側で枯れていた森が一斉に開花し、世界中の盲目の人々が「光」を取り戻したという伝説が生まれたが、それはまた別の話である。


 美貌無双。

 それは、何もしないことで、すべてを成し遂げる。

 一人の少女の「顔の良さ」が綴った新世紀は、人類がかつて経験したことのない、最も甘美で、最も残酷で、そして最も「美しい」独裁の始まりであった。


 アステリア王国の地下牢で、壁にルナリエの目元だけを血で書き続け、そのあまりの再現度の低さに絶望して自分の目を潰したセドリックの断末魔さえも、今やこの世界の完璧な旋律の一部に過ぎなかった。


 完。

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