第四話:美を失いし国の断末魔
ルナリエ・フォン・アステリアが追放されてから、王国アステリアは「色彩」を失った。
物理的な太陽の光が遮られたわけではない。だが、この国の民の脳は、最高品質の「美の情報」という麻薬を絶たれたことにより、深刻な禁断症状に陥っていたのである。
宮廷の庭園に咲き誇るはずの薔薇は、まるでやる気を失ったかのように萎れ、ドブネズミのような色に変色した。いや、薔薇が変質したのではない。それを見る人々の脳が、ルナリエという「究極の美」を基準値に設定してしまったため、この世のあらゆる色彩を「薄汚い汚れ」として認識するようになってしまったのだ。
この「審美眼の呪い」の直撃を最も深刻な形で受けていたのが、元婚約者のセドリック王太子である。
「ジャガイモだ……。右を見ても左を見ても、ジャガイモしかおらん……」
王宮の玉座の間。セドリックは、虚ろな目で壁のシミを見つめていた。
かつて彼が愛でていた高級な調度品も、黄金の装飾も、今や彼には「泥の固まり」にしか見えない。
「殿下、お食事をお持ちしました。最高級のフィレ肉でございます」
側近が差し出した皿を、セドリックは一瞥して吐き捨てた。
「どけ! 私に泥団子を食わせる気か! ……ああ、ルナリエ……ルナリエはどこだ。あの輝きを、あの宝石のような瞳を、一度でいいから見せてくれ……!」
セドリックの症状は、医学的には「ルナリエ欠乏症(重度)」と名付けられた。
彼の網膜は、一度ルナリエの「神貌」を焼き付けられたことにより、他のすべての視覚情報を「ノイズ」として処理するよう書き換えられてしまったのである。
そこへ、着飾った義妹のリリアーヌが、華やかに(と本人は思って)入室してきた。
「セドリック様ぁ、そんなに落ち込まないでくださいまし。あんな無能な女のことなんて忘れて、私のこの新しいドレスを見てくださいな!」
リリアーヌは、国の年間予算の三分の一を投じて作らせた「極光のドレス」を身に纏っていた。宝石を散りばめ、魔法で光り輝くその姿は、普通なら絶世の美女に見えたはずだ。
だが、セドリックの目には違った。
「……ヒッ、化け物!? 喋るジャガイモが、光る泥を塗って踊っているぞ!」
セドリックは悲鳴を上げ、椅子の陰に隠れた。
彼の視覚フィルタにおいて、リリアーヌの過剰な装飾は「腐った泥のデコレーション」にしか変換されなかった。
「なんですって!? 失礼ですわ! 私はお姉様よりもずっと可愛くて、魔力だってあるんですのよ!」
「黙れ、醜い化け物め! その顔、その声、すべてが私の脳を汚染する! 貴様の顔は、もはや歪んだ根菜のなり損ないだ!」
「そんな……お互い様じゃない! 殿下の顔だって、最近は隈だらけで、茹でる前のジャガイモそっくりですわよ!」
「何だと!? このジャガイモ女が!」
「なんですって、このジャガイモ王子!」
かつてルナリエを嘲笑った二人は、今や互いを「根菜」と呼び合う凄まじい内ゲバを繰り広げていた。
これが、王国アステリアの現状である。
最高位の者たちが互いの醜さを罵り合い、国民もまた「美しさという希望」を失って無気力に陥っている。国力は急速に衰退し、周辺諸国からは「あそこはジャガイモの国だ」と馬鹿にされる始末だった。
リリアーヌは、セドリックに暴言を吐かれた屈辱に耐えかね、自室の鏡を叩き割った。
「どうして……どうして誰も私の美しさを認めないの!? 魔力で顔の筋肉を吊り上げて、瞳を大きくして、鼻を高くしたのに!」
彼女は禁忌の美容魔法に手を出し、顔面を無理やり改造し続けていた。
その結果、リリアーヌの顔は不自然に歪み、もはや人間というよりは、失敗した粘土細工のような異様さを呈していた。
だが、彼女の狂った脳内では、自分こそが世界で一番美しいはずだった。
「そうだわ……お姉様。あのお姉様がいなくなったから、みんなの目がおかしくなったのよ。お姉様を連れ戻して、私の横に立たせればいいんだわ。そうすれば、私の『正しさ』が証明されるはず……」
歪んだ論理。だが、今の王国にはそれしか道が残されていなかった。
セドリックも、リリアーヌも、そして重臣たちも、ルナリエという「美の供給源」を失ったことによる禁断症状で、まともな判断能力を失っていたのである。
そこへ、帝国からの最新の報告書が届く。
『速報:ルナリエ様、隣国の軍勢三万を微笑み一つで無力化。諸国の王たちが彼女を神として崇拝し、大陸全土が彼女の顔を「世界遺産」に指定することを可決』
その報告書を読んだ瞬間、セドリックは泡を吹いて倒れた。
嫉妬ではない。あまりにも「欲しかった報酬」が他人の手に渡ったことへの、耐え難い飢餓感。
「強奪だ……。全軍を動かせ。全戦力を投入して、ルナリエを奪い返すのだ!」
セドリックは、震える手で出撃命令書に血で署名した。
「彼女がいなければ、この国は死ぬ! 私の瞳も死ぬ! たとえ帝国と全面戦争になろうとも、あの『至高の情報量』を、この網膜に取り戻さなければならないのだ!」
もはやそれは、政治的な戦略でもなければ、愛でもなかった。
ただ、一度味わった「究極の報酬」を二度と得られないことに対する、生物としての末期的な狂騒。
一方、バルディア帝国の聖域。
ルナリエは、金色の噴水が流れる美しいテラスで、帝国皇帝から差し出された「星屑で作った」とされるお菓子を摘んでいた。
彼女の周囲では、帝国最強の魔術師たちが、彼女の美貌から放たれる余剰エネルギーを測定し、それを国の魔導動力源として活用するための研究に没頭していた。彼女が微笑むだけで、帝都の街灯が三日三晩輝き続けるという、まさに生ける発電所状態である。
「ルナリエ様、王国が貴女様を奪還するために、なりふり構わぬ進軍を開始したようです」
騎士レオポルドが、膝をついて報告する。彼のゴーグルは今や、あまりの美貌の直視に耐えかね、特注の「暗黒石レンズ」にアップグレードされていた。
「あら。あの方たち、まだ私に執着していらっしゃるの?」
ルナリエは、窓から遠く王国の方向を見つめた。
その瞳に映るのは、かつての恨みでも未練でもない。ただの、汚れきった「ジャガイモの山」に対する、淡々とした清掃の意志だった。
「お気の毒に。私を知ってしまった貴方の瞳には、もうこの世界のすべてが『泥にまみれたジャガイモ』にしか映らないのでしょう?」
ルナリエの独り言が、風に乗って王国のセドリックの耳に届いたかのように、彼は遠い戦地で再び吐血した。
ルナリエの美貌は、もはや「癒やし」の段階を超え、一度味わえばそれ以外を拒絶させる、最強の「依存性兵器」と化していた。
王国が全戦力を投入した「ルナリエ強奪作戦」。
それは、世界で最も美しい存在による、最も残酷な「視覚的処刑」の舞台を整えることに他ならなかった。
ルナリエは、ゆっくりと立ち上がり、再び魔導銀のヴェールを手に取った。
「次に会う時は、ヴェールは使いません。あの方たちの脳が、最後の一滴まで私への渇望で焼き切れるように、最高の『顔』でお迎えして差し上げますわ」
彼女の慈悲深い(と本人は思っている)決意により、アステリア王国の滅亡は確定した。
美しすぎるという罪が、ついに旧時代のすべてを焼き払う準備を整えたのである。
次回、戦場に舞い降りる女神。
王太子セドリックと義妹リリアーヌが、ルナリエの「全力の微笑み」を直撃し、情報の過負荷で魂ごと砕け散る。




