第三話:貌、国を統べ軍を屠る
バルディア帝国の帝都、その中心にそびえ立つ「黄金の玉座」には今、本来の主ではない人物が座っていた。
この国の支配者であり、冷徹無比な軍事天才として知られるヴァレリウス皇帝は、玉座の脇で跪き、恍惚とした表情で床を見つめている。
「……信じられん。余は今まで、泥と瓦礫の上で国家ごっこをしていただけだったのか」
皇帝の視線の先には、ティーカップを傾けるルナリエの姿があった。
彼女が帝国に到着してわずか三時間。
彼女を一目見ただけで、皇帝は「帝国の全領土」と「自身の命」と「先祖代々の栄光」を、まるで使い古した雑巾でも捨てるかのように彼女に献上した。
今の彼にとって、皇帝という地位は、ルナリエにお茶を淹れるための「給仕係」という特権に比べれば、ゴミ同然の価値しかなかったのである。
「ルナリエ様。お代わりはいかがですか? 我が国の国庫にある最高級の茶葉をすべて燃やして、その灰から抽出した最も清浄な雫をお持ちさせますが」
「いいえ、皇帝陛下。そのような勿体ないことはなさらないで。私はただ、静かにこの美しい庭を眺めていたいだけですわ」
ルナリエが微笑む。
その瞬間、宮殿を囲む庭園の花々が、彼女の笑顔という「至高の栄養」を浴びて異常成長を遂げた。一分前まで蕾だった薔薇が、直径一メートルを超える巨大な花を咲かせ、あまりの幸福感に耐えきれず金色の蜜を噴水のように撒き散らしている。
だが、その平和な光景を切り裂くように、伝令兵が転がり込んできた。
彼はルナリエを直視しないよう、特製の重層遮光ゴーグルを三枚重ねにして装着している。それでも漏れ出す彼女の「光」に、鼻血を垂らしながら叫んだ。
「ほ、報告します! 西方のゾルドア連合王国軍、三万が国境を突破! 『帝国が魔女を匿っている』と称し、我が帝都へ向けて猛進しております!」
ヴァレリウス皇帝の目が、一瞬で氷の輝きを取り戻した。
「ゾルドアのジャガイモ共が……。ルナリエ様のティータイムを汚そうというのか。全軍、殲滅せよ」
「お待ちになって、陛下」
ルナリエが静かに立ち上がった。
彼女の髪がさらりと揺れる。その微かな摩擦音さえも、聴く者の魂を震わせる聖なる調べだった。
「私が参りますわ。争いごとは好みませんもの。私が少し『顔』を見せれば、すべては収まります」
「ル、ルナリエ様自ら!? しかし、野蛮な連中の汚い視線が貴女に触れるなど、国家的な損失です!」
「構いません。掃除は、早いほうがよろしいでしょう?」
数時間後。帝国軍と連合軍が対峙する平原は、異様な緊張感に包まれていた。
連合軍の総司令官、バルトス将軍は、馬上で鼻息を荒くしていた。
「バルディアの臆病者共め! 魔女を差し出せば命だけは助けてやるぞ! 我らゾルドアの精鋭は、美色に惑わされるような軟弱者とは違うのだ!」
バルトスは、自らの軍の規律に絶対の自信を持っていた。
彼らは「感情殺し」と呼ばれる過酷な訓練を受けたエリート騎士団だ。
だが、帝国の陣営から、一軍の馬車がゆっくりと進み出てきたとき、その自信は粉々に粉砕されることとなる。
馬車が止まり、中から一人の少女が降り立った。
彼女はまだ、ヴェールを被っている。
だが、彼女が戦場の一点に立った瞬間、風が止まり、雲が割れ、太陽の光がスポットライトのように彼女を照らし出した。
「全軍、弓を構えろ!」
バルトスが叫ぶ。
だが、最前線の兵士たちの腕は、石のように固まっていた。
「……報告します! 指が動きません! 本能が『あの方向に武器を向けるのは、神への反逆だ』と叫んで、筋肉が拒絶しています!」
「何だと!? 貴様ら、死刑になりたいのか!」
「死刑の方がマシです! あのお方を傷つけるくらいなら、今すぐこの場で舌を噛み切って死にたい!」
兵士たちの間に、急速に「信仰」という名のウイルスが蔓延していく。
ルナリエは、優雅にヴェールの紐に手をかけた。
「剣を抜く手間を省かせてあげましょう。私を見つめるだけで、貴方たちの軍隊は、今日、機能することを辞めるのですから」
ルナリエが、ヴェールを解いた。
――ッ!!
平原に、物理的な「衝撃波」が走った。
それは音でも魔法でもない。三万人分の網膜が、同時に「許容限界を超えた視覚情報」を受け取ったことによる、集団的な脳のフリーズである。
バルトス将軍は、馬から転げ落ちた。
彼の目に入ったのは、人間という種が数万年の進化の果てにたどり着くべき「究極の完成形」だった。
彼女の額の曲線。
まつげの一本一本が描く完璧な弧。
それらすべてが、黄金比や幾何学的な美しさを嘲笑うかのように、圧倒的な「正解」としてそこに存在していた。
「あ……あ……」
バルトスは震える手で、自分の剣を抜いた。
そして、その刃をルナリエに向けるのではなく、自分自身の喉元に当てようとした。
「……醜い。あのお方のいる世界で、こんなジャガイモのような面をした私が生きていること自体、この宇宙に対する冒涜だ……。死なねば。死んで肥やしになり、あのお方の歩く道の土になるのだ……」
将軍だけではない。三万人の連合軍兵士たちが、一斉に武器を捨て、その場に跪いた。
「「「おおおおお、女神様……!!」」」
地響きのような叫びが上がる。
数秒前まで殺意に満ちていた戦場は、一瞬にして「ルナリエ教」の狂信的な巡礼地へと変貌した。
兵士たちは互いに殴り合いを始めた。「誰が最初に彼女の視界に入り、誰が最も深く頭を垂れるか」という、血で血を洗う忠誠心競争の勃発である。
「降伏……! 全面降伏だ! 今日から我らゾルドアは、バルディアの属国ではない! ルナリエ様の『庭園の雑草抜き係』に任命していただきたい!」
バルトスは泥にまみれながら、必死にルナリエの足元へ這い寄った。
帝国軍の騎士たちは、それを「汚いジャガイモが近づくな!」と足蹴にしながら、自分たちもまたルナリエの神々しさに涙を流し、鎧を脱ぎ捨てて拝んでいた。
戦争は、一分で終わった。
死傷者はゼロ。ただし、三万人の兵士全員が「ルナリエ様以外の美を認められない」という重度の認識障害(幸福な廃人)となった。
ルナリエは、戦場の中央で小さくため息をついた。
「あら。やはり、皆様とお茶を飲むのは無理そうですわね」
彼女の微笑み一つで、ゾルドア連合軍は消滅した。
もはや帝国には、彼女に逆らえる人間など一人も残っていなかった。
それどころか、隣接する諸国の王たちが「彼女の顔を一目拝めるなら、王冠を差し出す」という親書を、山のような貢物と共に送り届けてくる事態となったのである。
だが、その狂騒の最中。
帝都の門に、みすぼらしい身なりの使者が到着した。
彼は、ルナリエを追放したあの「王国」からの使者であった。
使者の顔は土色で、目は血走っている。
彼はルナリエの前に引きずり出されると、狂ったように叫んだ。
「ル、ルナリエ様! どうか、どうか王国へお戻りください! あ、あのお方は、セドリック殿下はもう限界なのです!」
ルナリエは、冷めた紅茶を置くような仕草で、冷ややかに使者を見下ろした。
「セドリック殿下が? あの方は私を『顔だけの無能』と仰ったはずですが」
「殿下は……殿下は、貴女様がいなくなってから、この世のすべてが『排泄物』に見えるという病にかかられました! リリアーヌ様の顔を見れば嘔吐し、食事を摂れば泥を噛むようだと泣き叫び、今は自室の壁に貴女様の名前を血で書き殴っておられます! どうか、一度でいい、そのお顔を殿下に見せてやってください!」
ルナリエを捨てた王国。
そこでは今、ルナリエという「世界の軸」を失ったことによる、凄まじい精神的な飢餓が国全体を飲み込もうとしていた。
ルナリエは、慈悲深く、しかし残酷な微笑を浮かべた。
「お断りしますわ。私の顔は、あの方には『高価すぎる』のですから」
使者が絶望に叫ぶ中、ルナリエは次の「公務(お茶会)」のために席を立った。
彼女の美貌は、もはや一国の軍事力を超え、大陸全土の理性を焼き尽くす「神の炎」となっていた。
次回、美しさを失った王国の末路。
自称「最高に可愛い」義妹リリアーヌが、鏡の中の自分という「化け物」に耐えきれず、自ら顔を切り裂く悲劇が始まる。




