第ニ話:暴かれる、神域の美
「死の森」は、その名の通り絶望が支配する場所であった。
一歩足を踏み入れれば、致死性の瘴気が肺を焼き、茂みの奥からは数千年の飢えを抱えた魔獣たちが牙を剥く。
かつて、この森に挑んだ英雄たちは口々に語った。
「ここには、慈悲も、光も、救いもない」と。
だが、今のこの場所を、一体誰が「地獄」と呼べるだろうか。
「キュ〜ン……」
「グルル、ガウッ……(翻訳:恐れ多くも、私めが足場を固めさせていただきます)」
漆黒の毛並みを誇る最凶の魔獣、ブラッド・ウルフが、まるで高級絨毯にでもなるかのように、ルナリエの足元で腹を見せて転がっている。
それだけではない。
空からは、見ただけで発狂すると言われる怪鳥コカトリスが、その鋭い爪で丁寧に摘んできた最高品質の果実を、ルナリエの前に献上していた。
森を覆っていた瘴気は、彼女の肌を汚すことを恐れて退散し、今や清涼なマイナスイオンを振りまく「神聖な空気」へと変質している。
ルナリエは、切り株に腰掛け、魔導銀のヴェールを膝の上に置いていた。
その顔面が露出している。
ただそれだけの事実が、この森の生態系を根本から破壊していた。
「皆様、そんなに畏まらなくてもよろしくてよ。私はただの、追放された無能なのですから」
ルナリエが困ったように微笑む。
その瞬間、周囲の魔獣たちの間に、凄まじい衝撃が走った。
(((今、微笑まれた……ッ!?)))
ブラッド・ウルフの心臓が、歓喜のあまりオーバーヒートして火花を散らす。
木の陰から彼女を盗み見ていた大蛇は、その美しすぎる曲線美を脳が処理しきれず、自分の体を結び目にして気絶した。
彼女の微笑みは、生物学的な「報酬」の極致であった。
美味しいものを食べた時の快楽や、生存競争に勝った時の昂揚。それらすべてを凝縮し、純度一〇〇〇パーセントにしたものが、彼女の「表情」という形で出力されているのだ。
魔獣たちにとって、彼女の顔を見つめることは、脳内に直接「幸福の雷」を打ち込まれるのと同じことであった。
そんな「楽園」と化した死の森に、招かれざる客が現れた。
「……何だ、この異様な気配は。瘴気が消え、魔獣たちが……一箇所に集まっているだと?」
重厚な黒鉄の鎧を纏った男が、茂みをかき分けて現れる。
隣国のバルディア帝国が誇る最強の騎士、レオポルドであった。
「氷刃の英雄」と恐れられる彼は、その冷徹な性格と圧倒的な武力で、数多の戦場を凍りつかせてきた男だ。
彼は帝国の密命を受け、死の森に異変がないか偵察に来ていた。
レオポルドは、戦場での経験から、あらゆる事態を想定していた。
巨大な魔神の復活か。
あるいは、禁忌の魔法実験か。
彼は剣の柄に手をかけ、鋭い眼光を広場へと向けた。
そして、彼は「それ」を見てしまった。
「ッ――!?」
レオポルドの思考が、物理的に停止した。
彼の視神経が捉えた情報は、あまりにも過剰で、あまりにも暴力的だった。
中心に座る、一人の少女。
彼女が顔を上げた瞬間、レオポルドの視界には、彼女以外のすべての色が失われた。
背景の木々も、空も、魔獣たちも。
それらはすべて、彼女という「真実」を際立たせるための、無価値なノイズへと成り下がった。
(何だ……? 何だ、この「情報量」は……!)
レオポルドの脳が悲鳴を上げる。
彼女の鼻筋の、黄金比を遥かに超えた神聖なライン。
夜の海を閉じ込めたかのような、深く、透き通った瞳。
微風に揺れる髪の一筋一筋が、最高級の宝石よりも眩い光を放っている。
それはもはや「美しさ」という言葉で形容できるレベルではない。
宇宙の理、数学的な完璧さ、生命の根源的な調和。
それらすべてが、一人の女性の「顔面」という限られたスペースに、超高密度で圧縮されているのだ。
「誰だ! 貴様、何者だ……ッ!」
レオポルドは必死に理性を保とうと、叫んだ。
だが、その声は震えていた。
最強の騎士としてのプライドが、彼の膝を折らせまいと抗う。
しかし、彼の脊髄が、DNAが、魂が、彼女に屈服せよと命令を下していた。
ルナリエは、ゆっくりと立ち上がった。
彼女が一歩歩むごとに、地面から色とりどりの花が勢いよく芽吹き、彼女の足裏を汚さぬようクッションとなる。
彼女は、自分に向けて剣を抜こうとしている(が、手が震えすぎて抜けない)騎士に、慈愛に満ちた視線を送った。
「ひれ伏しなさい。貴方の理性がどうあれ、貴方の生存本能が私に逆らうことを禁じているはずです」
その言葉は、レオポルドの脳内に直接書き込まれる「神託」のように響いた。
「……ぐ、あああ……っ!」
レオポルドの膝が、地面を叩いた。
抗えなかった。
目の前の存在は、剣で斬るべき敵でも、守るべき弱者でもない。
ただただ、この世界の「王」であり、「神」であった。
彼女を傷つけるという選択肢は、自分の目を潰し、心臓を止めることよりも不自然で、不可能な行為に思えた。
「貴女は……神、なのか? それとも、世界を滅ぼす魔王か……?」
レオポルドは、掠れた声で問いかけた。
ルナリエは、クスリと小さく笑った。
その笑い声だけで、レオポルドの過去数十年のトラウマや古傷がすべて癒えていくような錯覚に陥る。
「いいえ。私はただの、追放者です。隣の王国で『顔が良いだけの無能』と罵られ、捨てられた、哀れな女に過ぎませんわ」
「無能だと……? あ、あの国は、狂っているのか……?」
レオポルドは絶句した。
これほどの「存在」を、無能と呼び、あまつさえ森に捨てたというのか。
それは、空に浮かぶ太陽を「まぶしくて邪魔だから」と引きずり下ろすに等しい、人類史上最大の愚行ではないか。
「ならば、世界が間違っている。今すぐ私が、その間違いを正そう」
レオポルドは、地面に額を擦り付けるようにして誓った。
騎士としての忠誠? 皇帝への義理?
そんなものは、今この瞬間、消滅した。
彼の全人生は、この「神貌」の持ち主を、世界の頂点へ押し上げるための道具へと再定義されたのだ。
「ルナリエ様。どうか、我が帝国へお越しください。我が国の皇帝陛下も、貴女を目にした瞬間、自分の統治がいかに無意味であったかを悟り、帝位を貴女に差し出すでしょう」
「あら、そんな大層な。私はただ、静かに暮らせる場所があれば、それで良いのですけれど」
「静寂など、世界が許しません。貴女がそこにいるだけで、歴史は動き、国境は書き換えられる。……ああ、ルナリエ様。貴女を見つめていると、自分の魂が浄化されていくのが分かります……」
レオポルドの目からは、涙が溢れていた。
氷の騎士と呼ばれた男の、初めての落涙。
それは悲しみではなく、あまりにも「美しすぎるもの」に触れた際の、生物としての極限の感動であった。
数時間後。
死の森の入り口には、帝国の精鋭騎士団が集結していた。
レオポルドからの緊急信号――「至急、国家存亡の危機……否、人類の至宝を発見。全兵力を挙げての警護を求む」という支離滅裂な、しかし切実なメッセージを受け取った彼らは、戦々恐々としていた。
だが、森から現れた光景を見て、彼らもまた、その場で石像のように固まった。
巨大なブラッド・ウルフを愛馬のように従え、
空を埋め尽くす魔鳥の翼を日傘代わりにし、
伝説の英雄レオポルドに足場を組ませて、
優雅に歩んでくる、一人の美少女。
彼女が森から一歩外へ出た瞬間。
周囲の空気が一変した。
どんよりとした曇り空からは、彼女を祝福するかのように一筋の黄金の光が差し込み、
彼女の歩みに合わせて、荒野には青々とした芝生が広がっていく。
「美しい……」
「ああ、目が、目が幸せすぎて焼ける……!」
「今すぐ俺を奴隷にしてくれ!」
帝国の騎士たちは、訓練された規律を一瞬で投げ出した。
彼らは武器を捨て、鎧を脱ぎ捨て、ただ彼女を直視することを恐れながらも、その視覚情報を一滴残らず脳に刻もうと必死になった。
ルナリエの「顔面」という名の戦略兵器。
それはついに、一国の「森」を支配する段階から、一国の「国家」を震撼させる段階へと移行したのだ。
一方、ルナリエを捨てた王国では。
彼女が消えたその日から、不思議な現象が続いていた。
最高級のワインが、泥水のような味がする。
絶世の美女と謳われた令嬢たちが、全員「不格好なジャガイモ」にしか見えない。
贅を尽くした王宮の装飾が、安っぽいゴミ溜めのように感じられる。
ルナリエという「美の絶対基準」を失った王国は、急速にその「色彩」と「活力」を失いつつあった。
そして、自称「ルナリエより美しい」リリアーヌは、鏡を見るたびに自分の顔が歪んでいくような錯覚に陥り、狂ったように化粧を重ね始めていた。
物語は加速する。
一人の少女の美貌が、大陸の均衡を完全に破壊し、新たな「信仰」を生み出そうとしていた。
隣国の皇帝が、彼女を迎えるために用意したものは、豪華な客室ではなかった。
それは、国費の半分を投じて建設される、彼女という「神」を祀るための、壮大な聖域であった。
「さあ、ルナリエ様。帝都へ。世界が貴女の顔を待っております」
レオポルドの先導により、ルナリエは帝国へと向かう。
その行く先々で、人々の理性が崩壊し、新たな伝説が書き込まれていく。
次回、帝国を統べる皇帝が、ルナリエと謁見した瞬間に「皇帝」であることを辞める決意をする。




