第一話:絶世の無能、奈落へ
シャンデリアが眩く輝く王宮の大夜会。
その中心で、王太子セドリックは婚約者であるルナリエに向かって、無情な宣告を突きつけた。
「ルナリエ・フォン・アステリア! 貴様との婚約を今この瞬間をもって破棄する!」
広間に集まった貴族たちの間に、激しい動揺が走る。
だが、その動揺は「追放」という事態に対する驚きではなかった。
「……ッ、はあ、はあ……」
「顔を……。あのヴェールの奥を、一瞬でいいから……」
「ダメだ、死ぬぞ! 心臓がもたん!」
周囲の男たちは、膝をガクガクと震わせ、酸欠の金魚のように口をパクパクさせていた。
彼らが恐れているのは、ルナリエその人ではない。
彼女が纏う「魔導銀のヴェール」から漏れ出す、あまりにも強烈な「美の情報量」であった。
ルナリエは、一切の魔力を持たない。
剣も振るえなければ、高度な計算もできない。
ただ一つ、歴史上のどの女神をも凌駕する、暴力的なまでの「顔面の良さ」を持って生まれてきた。
「セドリック殿下。それは、本気で仰っているのですか?」
ヴェールの下から響く声。
それは、春の訪れを告げる小鳥の囀りよりも清らかで、最高級の弦楽器が奏でる旋律よりも深く、聴く者の鼓膜を愛撫した。
その声を聞いただけで、最前列にいた老公爵が「幸福すぎて死ぬ」と叫んで卒倒した。
「ああ、本気だとも! 貴様は魔力測定でも『ゼロ』! 聖女としての適性も『皆無』! 我が国の繁栄に必要なのは、魔導の才溢れる私の愛しきリリアーヌだ!」
セドリックの隣で、義妹のリリアーヌが勝ち誇ったように微笑む。
彼女も十分に美しいはずだった。だが、ルナリエの隣に並ぶと、それは道端に落ちている「少し形の良いジャガイモ」と同義であった。
「お姉様、お気の毒に。顔が良いだけの女なんて、観賞用の花瓶と同じですのよ? 王妃という重責に、お姉様のような『空っぽ』な方は相応しくありませんわ」
リリアーヌの言葉に、周囲の貴族たちが青ざめる。
(バカかあいつは! あのお方を花瓶だと!? 宇宙の真理を閉じ込めた至高の芸術だぞ!)
(今すぐその口を閉じろ! ルナリエ様の声が聞こえなくなるだろうが!)
人々の心の叫びなど露知らず、セドリックは鼻で笑った。
「顔など三日で飽きる! 貴様のような無能をこれ以上養う余裕は我が国にはない。今すぐこの国から立ち去れ! 行き先は隣国の『死の森』が妥当だろう。魔獣の餌にでもなるがいい!」
「死の森」。
一度入れば生きては戻れぬ、最凶の魔境。
あまりの理不尽な命令に、会場の騎士たちが一斉に剣を抜こうとした。
彼らの動機は忠誠心ではない。「あんな美しいものを失うくらいなら、この国を滅ぼした方がマシだ」という、極めて純粋で、極めて危険な本能による暴走だった。
だが、それを制したのはルナリエ本人だった。
「分かりました。そこまで仰るのなら、私は喜んでお暇をいただきますわ」
ルナリエは優雅に、それこそ神々が舞い降りるかのような完璧な所作で一礼した。
そして、ヴェールの端を指先でつまむ。
「セドリック殿下。最後に一つだけ、忠告を差し上げます」
「何だ、無能の命乞いか?」
「いいえ。鏡を見たことがないのですか? 私の顔は、既にこの国を滅ぼす準備を終えていますわよ」
「……何だと?」
ルナリエはヴェールを脱がなかった。
ただ、一瞬だけ。
ほんの一瞬だけ、ヴェールの隙間からその「瞳」をセドリックに向けた。
――ドォォォォォォン!!
セドリックの脳内で、宇宙が誕生したかのような衝撃が走った。
視神経を通じて流れ込む、理解不能なまでの美。
それは快楽という名を借りた、致死量の毒だった。
セドリックは白目を剥き、よだれを垂らしながら、その場に棒立ちとなった。
彼の思考回路は、ルナリエの瞳の「輝き」を演算した瞬間にショートし、完全に機能停止したのである。
「それでは、皆様。ごきげんよう」
ルナリエは混乱の極致にある舞踏会を後にした。
彼女が歩くたび、絨毯の上に咲いていた花の刺繍が、その美しさに当てられて本物の花へと変化し、咲き乱れていく。
警備の騎士たちは、彼女が通り過ぎた瞬間に「私は何という醜い世界に住んでいたんだ」と絶望し、次々に武器を捨てて地面に突っ伏した。
追放は、淡々と、かつ迅速に行われた。
王太子が再起不能(植物人間状態)になっている隙に、リリアーヌと汚職官僚たちが結託し、彼女を馬車に放り込んだのだ。
そして、数日後。
ルナリエは、漆黒の木々が立ち並び、絶え間なく魔獣の咆哮が響く「死の森」の入り口に立っていた。
「さあ、降りなさい! この役立たず!」
リリアーヌの命を受けた兵士たちが、震える手でルナリエを突き出した。
彼らはルナリエを見ないように、分厚い目隠しをしていた。そうでなければ、任務を遂行する前に彼女の奴隷になってしまうからだ。
「ここが、死の森……」
ルナリエが地面に降り立つ。
兵士たちは逃げるように馬車を走らせ、去っていった。
一人残されたルナリエ。
周囲からは、腹を空かせた魔獣たちの気配が迫っている。
身長三メートルはあろうかという巨大な「ブラッド・ウルフ」が、涎を垂らしながら茂みから姿を現した。
「……ふふ、ようやく自由になれましたわ」
ルナリエは、ずっと自分を縛り付けていた、重い魔導銀のヴェールに手をかけた。
王宮では、このヴェールは「醜さを隠すため」だとか「病を隠すため」だとか、好き勝手な噂を流されていた。
だが、真実は違う。
ルナリエの顔は、あまりにも「良すぎる」のだ。
それだけで生物の脳を破壊し、社会の秩序を崩壊させ、自然界の法則をねじ曲げてしまう。
それは祝福などではない。
存在するだけで世界を再定義してしまう、パッシブ型の広域殲滅兵器なのだ。
「誰もいない森の中なら、少しは羽を伸ばしても良いでしょうか?」
カチリ、と。
ヴェールの留め具が外される。
スルスルと、銀の布地が地面に落ちた。
その瞬間。
死の森から、一切の「音」が消えた。
咆哮を上げようとしていたブラッド・ウルフの顎が、外れたまま固まる。
空を飛んでいた怪鳥が、羽ばたくことを忘れて地上へ墜落する。
邪悪な瘴気を放っていた魔力溜まりが、彼女を照らす「照明」になるべく、清浄な光へと浄化される。
ルナリエが顔を上げた。
そこに現れたのは、言葉という概念が敗北を認めるほどの、究極の美。
「あら? 静かになりましたわね」
ルナリエが首を傾げ、ほんの少し、困ったように微笑んだ。
その微笑みが放つ破壊エネルギーは、およそTNT換算で核爆弾数個分に相当した。
彼女の正面にいたブラッド・ウルフは、あまりの神々しさに脳が爆発し、その場で「キュ〜ン」と情けない声を上げて、腹を見せて転がった。
魔獣としての誇り? 生存本能?
そんなものは、ルナリエの鼻筋の完璧なラインの前では、チリ同然である。
「貴方も、私と一緒にいてくださるの?」
ルナリエが魔獣の頭を撫でる。
世界で最も凶暴とされた魔獣は、その瞬間に「聖なる忠犬」へと進化した。
こうして、死の森は「死の森」であることを辞めた。
彼女を中心とした、地上で唯一の「楽園」へと作り変えられていく。
一方、ルナリエを捨てた王国では。
彼女という「美の守護神」を失ったことで、信じられないような悲劇が幕を開けようとしていた。
セドリック王太子が目を覚ました時、彼が最初に放った言葉は、王国の滅亡を決定づけるものだった。
「……ジャガイモだ」
「はい? 殿下、何と仰いましたか?」
側近が尋ねる。セドリックは、絶望に満ちた目で周囲を見渡した。
「リリアーヌも、大臣も、この国の女も……全員、泥にまみれたジャガイモに見える……!! あああああ! ルナリエ! ルナリエはどこだ! あの輝きを、もう一度見せてくれ!!」
ルナリエの顔を知ってしまった彼の脳は、もはや「それ以外」の情報を価値あるものとして認識できなくなっていた。
それは、世界で最も残酷な「ざまぁ」の始まりに過ぎなかった。




