焼け残った花
1
どこからともなく、四つの音が重なった。
校舎はもう、何も告げない時間のはずだった。
午後九時以降、この学校に入ってはいけない。
そんな噂がある。
夜間部があるのだから、九時を過ぎても校舎は明るい。職員室の灯りも消えないし、正門も閉まらない。だから“入ってはいけない”というのは正確ではない。
正しくは
九時を過ぎたら、焼却炉へ行ってはいけない。
理由は、誰も知らない。
夜間部の生徒たちは、暗黙の了解でそこを避けているらしい。昼間の俺たちは、そのことすら知らなかった。昼に行っても何も起こらないからだ。
安藤と知り合ったのは、文化祭準備で遅くまで残った日のことだった。
「昼間の人って、焼却炉の裏、普通に通るんだね」
そう言って、彼は少し笑った。
どこか懐かしそうな、遠い目をしていた。
「君は、母の日とか、ちゃんとやる方?」
唐突な質問だった。
「まあ、一応」
「そっか。いいね」
安藤は、何かを思い出すように目を細めた。
授業に出なくて大丈夫なのかと聞いたら
「君と話すのが嬉しくて」
はにかむ少年のような笑顔が印象的だった。
つられて俺も笑顔になったのを覚えている。
それが最後だった。
また話したかった。
安藤は来なくなった。
2
「もしかしたら、あの場所に行ったのかも」
夜間部の女子にそう言われ、俺は焼却炉を見に行った。
彼女の名前は知らない。
でも、なぜか安藤と雰囲気が似ている気がした。
話し方なのか、目の形なのか。
「あの子、優しかったでしょ?」
そう言って、彼女は少し寂しそうに笑った。
安藤が来なくなった理由は知らないみたいだ。
彼女の言葉を信じ、ゴミ当番を理由に近づく。
焼却炉は思ったより古く、鉄の扉は黒く変色し、触れれば粉のような錆が落ちそうだった。
裏側へ回ろうとしたとき、用務員と進路指導の教師に声をかけられた。
「何してる」
「ゴミ箱倒して、裏に……」
適当に言い訳をして離れた。
そのとき見えた。
焼却炉の裏、草の奥にフェンスがある。
記憶では、あそこは壁だったはずだ。
3
翌日、校舎図を確認した。
やはり曖昧だ。焼却炉の位置は描かれているが、裏の構造は分からない。
教室でスマホ地図を開いていると、岡本が後ろの席の俺を見ていた。
普段目立たない、静かなやつだ。
でも、その顔が、どこかで見たような気がした。
「焼却炉のところは、夜に行かない方がいいよ」
唐突だった。
その言い方が、安藤に似ている気がした。
気のせいだろうか。
「なんで知ってる?」
岡本はふっと笑った。
「知ってる人は、知ってる」
その日、彼は工作室帰りだった。机の上には金属片。ノートの端には、花のデザイン。
「母の日近いからさ」
そう言って、彼は金属片をそっと撫でた。
4
夜。
九時前。
岡本と待ち合わせると、夜間部の女子も来た。
「本当に行くの?」
「安藤に会えるかもしれないだろ」
九時を過ぎる。
校舎の灯りが遠く感じる。
焼却炉の裏へ回る。
空気が、変わる。
音が消える。
なぜか汗が頬をつたう。
フェンスの奥に、岡本が立っている。
最初からそこにいたような気がした。
「やっぱり、来ちゃったね」
声が歪む。
俺の横に、夜間部の女子がいる。
彼女は岡本を見て、何か言いたそうにしている。
でも、声にならない。
岡本の顔が、安藤に見えた。
喉から音がなる。
いや、三人とも、同じ顔をしている気がした。
無意識に後ろに一歩、下がっていた。
「ごめんね」
誰かが言った。
俺の声だったか?
焦げた匂いがする。
鉄が軋む音。
焼却炉の扉が、ゆっくり閉まる音がした。
気づいたとき、誰もいなかった。
5
翌日。
安藤はいない。
夜間部の女子もいない。
岡本の席もない。
「岡本? そんな生徒、いたか?」
担任は首をかしげる。
教室の名簿にもない。
俺だけが覚えている。
三人とも、同じことを言っていた気がする。
母の日のこと。
焼却炉の裏のこと。
夜に行くなということ。
でも、本当にそうだったか?
記憶が、曖昧になっていく。
安藤も、岡本も、あの女子も
みんな、何かを伝えたかったのか。
それとも、俺に何かをさせたかったのか。
靴箱横の校舎図を見る。
焼却炉の文字が、やけに薄く見えた。
6
放課後。
焼却炉のあったはずの場所に、何もなかった。
フェンスはある。
草をかき分ける。
そこにあった。
半分溶け、歪んだ鉄板。
花の形が、かろうじて残っている。
指で土を払う。
裏に、小さく刻まれていた。
「母へ」
その下に、もう一つ。
かすれて、ほとんど読めない文字。
「ごめんなさい」
その文字だけは、焼け残っていた。
風が吹く。
校舎のどこかで、四つの音が重なった。
一つは、俺の足音かもしれない。
俺は、時計を見なかった。
あの花は、誰の手にも渡らなかった。
母の日は、もう来ない。




