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第3章

沙也加は春香の遺影の前にいた。

部屋の光は落としてある。

昼のままの世界を、この場所に連れてきたくなかった。

花の水が少し減っている。香が薄く漂う。

静けさは、祈りのためではなく――記憶が戻るための余白のように重い。

遺影の春香は、まっすぐ前を見ている。

笑ってもいないし、怒ってもいない。

ただ、海の底の遠さをそのまま瞳に残した顔をしている。

沙也加はその目を見ていると、いつも同じ場所で息が詰まる。

「どうして」が、喉の奥で固まるのだ。

誰にもぶつけられない「どうして」。

母に言えない。

兄に言えない。

言えなかった時間が長すぎて、言葉が錆びてしまった。

指先が、遺影のガラスに触れる。

冷たい。

その冷たさが、境界だ。

生と死、今とあの夜。

――そして。

――世界が、反転する。

あの夜、沙也加は幼かった。

幼い、ということは――

世界がまだ「意味」でできていない、ということだ。

大人たちの沈黙を読み取れない。

言葉にならない決断を、理解できない。

ただ起きたことを、起きたままに受け取ってしまう。

玄関の外は雨だった。

雨は、音だけで家を満たす。

屋根を叩き、窓を叩き、地面を叩き、逃げ場のない鼓動みたいに響く。

家の中は暗い。

電気は点いていない。

街灯がカーテンの隙間から差し込み、家具の角だけが薄く浮かんでいる。

家族の写真。

食器棚。

壁の時計。

いつものはずのものが、その夜だけは全部、知らないものに見えた。

――“家”が、いつもの家じゃない。

幼い沙也加は、その違和感を言葉にできなかった。

だから、体が先に固まった。

廊下の影で足が止まり、息まで止まる。

居間に、母がいた。

春香が立っている。

帰ってくるはずのない人が、そこにいる。

それだけで、子どもの世界はひっくり返る。

「嬉しい」と思うより先に、「怖い」が来た。

母の目が、母の目ではないからだ。

笑っていない。

怒ってもいない。

なのに――見ている。

沙也加の知らない何かが、母の顔の奥から見ている。

そして、兄がいた。

柊テツヤ。

兄は、沙也加の知っている兄とは少し違う立ち方をしていた。

背中が硬い。

呼吸が少ない。

声を出さない。

泣かない。

怒らない。

でも、そこにあるものは、幼い沙也加にも分かった。

兄は、何かを決めてしまっている。

「……来るな」

兄が言う。

その声は優しい。

優しいから、余計に怖かった。

優しい声は、沙也加を抱き上げて部屋に戻す声のはずなのに、

その夜の優しさは――柵のようだった。

近づくな。見るな。

ここは子どもの場所じゃない。

そう言われているのが分かった。

沙也加は、言うべき言葉を知らない。

「何が起きてるの?」

「お母さんどうしたの?」

「お兄ちゃん、やめて」

どれを言えばいいのか分からないまま、喉だけが痛くなる。

母が――春香が、ゆっくりと口を開いた。

「……テツヤ」

母の声だった。

それが最初に、沙也加を少しだけ安心させた。

声は母だ。母は戻ってきた。

だから大丈夫――と、幼い沙也加は思いかけた。

けれど、次の言葉が、その安心を粉々にした。

「……お願い。終わらせて」

終わらせて。

その意味が、子どもには分からない。

“終わらせて”は、絵本の最後に書いてある言葉だ。

眠る前の「おしまい」だ。

怖い夢を終わらせる言葉だ。

でも、母の口から出た“終わらせて”は、

そのどれにも似ていない重さを持っていた。

兄の肩が震えた。

震えは一瞬で消えた。

消えたのではない。

兄が、震えを奥へ押し込めた。

幼い沙也加にも、それだけは分かった。

テツヤは“泣けない”んだ、と。

泣いたら壊れるから泣かないんだ、と。

「……ごめん」

兄が呟く。

沙也加は、その「ごめん」を聞いて、幼いなりに結論を作ってしまう。

子どもは、空白を空白のまま抱えられない。

分からないなら、分かる形にしてしまう。

ごめん。

ごめんと言うのは、悪いことをする前だ。

悪いことをした後だ。

だから――

お兄ちゃんは、悪いことをする。

お兄ちゃんは、お母さんに悪いことをする。

理屈ではない。

幼さが作る、世界の整え方だ。

整えないと怖すぎるから、整える。

整えた結果が、誤解でも構わない。

誤解でも、恐怖には形がいる。

そして、次の瞬間。

沙也加の世界から、音が消えた。

雨の音も、時計の音も、遠くの車の音も。

全部が遠くなり、ただ一つの“出来事”だけが、目の前に巨大になる。

幼い目は、その出来事の細部を理解できない。

ただ、「取り返しのつかないことが起きた」という感覚だけが、体に刻まれる。

母が崩れた。

母が――倒れた。

母の温度が、遠ざかった。

幼い沙也加は、そこで初めて声を出したのかもしれない。

出していないのかもしれない。

記憶はそこから先を、曖昧にする。

曖昧にするのは、子どもの心が自分を守るためだ。

最後に残ったのは、兄が振り返った瞬間の目だ。

兄の目は、助けを求めていない。

許しも求めていない。

言い訳もない。

ただ――壊れないために全てを飲み込んだ目。

それを見た幼い沙也加は、理解できなかった。

理解できないから、もっと怖くなった。

怖いから、憎しみに変えた。

憎しみに変えれば、わかりやすい。

“悪いのは兄だ”と決めれば、世界は整う。

整えば、呼吸できる。

沙也加は、その夜からずっと、呼吸のために憎んできた。

憎むことで、母の死を「理由」に変えようとしてきた。

「……っ」

沙也加は遺影の前に戻る。

指先が震えている。

だが涙は出ない。

涙は、理解の完成だ。

理解した瞬間、何かが終わってしまう気がして、泣けない。

沙也加は知っている。

自分の復讐心は、真実の上に立っていない。

“理解できなかった幼さ”の上に立っている。

空白の上に立ち、空白を埋めるために刃を磨いてきた。

それでも――刃を捨てられない。

捨てたら、あの夜の沙也加が救われない。

「お兄ちゃんは何をしたの?」と震えていた子どもが、

ずっと廊下の暗闇に置き去りになる。

だから沙也加は、復讐を抱く。

復讐は、母のためだけじゃない。

理解できなかった自分を、救うためでもある。

沙也加は遺影を見据え、低く言う。

「……テツヤ」

兄の名は、まだ苦い。

けれど苦いまま、飲み込む。

「私は、お前を見つける。

 そしてあの日のお母さんがそうだったように、お前を終わらせる」

復讐の言葉に見える。

だが、芯はそれだけじゃない。

「あなたがなぜ、お母さんを終わらせたのか。

 私は知らないまま大人になった。

 ……知らないまま憎んできた」

声が、ほんの少しだけ揺れる。

その揺れが、沙也加にとって最大の屈辱だ。

屈辱だから、次の言葉は鋼になる。

「でも――憎しみは消えない。

 消えないから、私はあなたに絡みつく。

 これは復讐よ」

復讐を以て絡みつく妹。

愛を以て離れられない兄。

その鎖は、幼さの夜から始まっていた。

理解できなかった子どもの穴が、

いま、世界の秘密へ繋がる道になろうとしている。


沙也加は軍人になっていた。

強くなるために。

折れないために。

そして――柊テツヤに復讐するために。

それは大義ではない。

国家のための正しさでもない。

制服という“正しさ”を借りて、彼女は私怨を磨いていた。

磨かなければ、あの夜の自分が路上に崩れる。

磨けば磨くほど、刃は澄む。

澄めば澄むほど――映るのは母の遺影と、兄の背中だ。

夏だった。

アスファルトは昼の熱を夜まで抱き、空気は甘く湿っている。

蝉の声が遠くから聞こえ、川沿いの草は夜露を待つ匂いを吐いていた。

休暇でも、任務でもない。

基地を出た沙也加は、花火大会の会場へ向かっていた。

「行く理由」はない。

それでも足が向かった。

――平和な夜を、見ておきたかった。

自分がこれから壊すかもしれないものを、目に焼き付けたかった。

河川敷は人で埋め尽くされている。

浴衣の模様が波のように流れ、屋台の灯りが川面に細かく砕けて映る。

焼きそばのソースの匂い、綿菓子の甘さ、ラムネの冷たさ。

子どもが走り、恋人が笑い、家族が同じ空を見上げていた。

その光景は、あまりに“正しい”。

あまりに正しすぎて、沙也加の胸を刺した。

母が守りたかったのは、きっとこういう夜だ。

母が守り続けた世界は、今もこんなふうに笑っている。

――それを壊したのが、兄だ。

思考が刃に変わる前に、彼女は呼吸を数えた。

一、二、三。

訓練の癖。心が暴れそうなとき、身体から縛る。

だが数えたところで、胸の底に沈んだものは浮かび上がらない。

沈んだまま、重りのまま、彼女を歩かせる。

花火が上がった。

どん、と腹の底に来る音。

夜空に咲く紅。続いて青。金。白。

光の花弁が散って、煙が薄い雲のように流れていく。

歓声が起きる。拍手が起きる。

「綺麗!」という声が、あちこちで弾ける。

沙也加は空を見上げた。

見上げてしまった。

ほんの一瞬だけ、息が楽になった気がした。

世界が、世界のまま続いている。

母がいなくても、夜は祭りになる。

それが残酷なのに、美しい。

――その美しさのせいで、次に起きた出来事が、余計に悪夢になった。

次に空を裂いたのは、花火ではなかった。

一閃。

“走る”という言葉では追いつかない。

光線が夜空を貫き、花火の煙と星の列をまとめて切り裂いた。

白でも青でもない。

冷たいのに眩しい、理屈の外側の光――まるで神話の槍だ。

光は、空に“傷”を残す。

裂け目ではない。

裂け目のように見える直線。

そこだけ星が見えない。

そこだけ夜が深すぎる。

遅れて、音が来た。

花火の破裂音とは違う。

耳で聞く音ではなく、骨を揺らす衝撃。

大気そのものが呻いている。

腹の底に重い塊が落ちたような感覚が、会場全体を一気に冷やした。

歓声が、消える。

笑い声が途切れ、屋台の呼び込みが止まり、

子どものはしゃぎ声が一斉に萎む。

赤ん坊の泣き声すら、一拍だけ沈黙する。

人間は、恐怖の前では同じ顔になる。

理解できないものを見たときの顔。

言葉が喉で詰まり、瞳だけが大きくなる顔。

「……なに、今の……?」

誰かがようやく声を漏らす。

だがその声は、周囲の沈黙に吸い込まれて消える。

そして、光線の“傷”の中を、影が横切った。

影は鳥じゃない。

飛行機でもない。

ドローンでもない。

輪郭が歪だ。

翼のような突起があるのに羽ばたかない。

脚のような影が、空を掴むように揺れる。

それは“飛んでいる”というより、夜空に吊られているようだった。

光の中でだけ形が確かになり、光を外れると存在が曖昧になる。

異形。

怪物。

言葉にした瞬間に現実が壊れる類のもの。

誰かが叫んだ。

遅れて別の誰かが泣き出した。

悲鳴が悲鳴を呼び、河川敷は一瞬で“祭りの群衆”から“避難の群れ”へ変わる。

足元で、屋台の椅子が倒れる音。

ガラス瓶が割れる音。

泣き叫ぶ子どもを抱える親の声。

転んだ誰かを踏まないようにする怒号。

花火のプログラムはまだ続いていて、空には綺麗な光が咲く。

その美しさが、異常だった。

――世界はまだ祭りを続けようとしている。

なのに、空は一度裂けた。

沙也加の身体は、勝手に動いていた。

まず周囲を見る。

人の密度。転倒しやすい場所。川の縁。段差。

次に逃げ道。

次に空。

そして最後に――自分の内側。

心臓は速い。だが恐怖で速いのではない。

“思い当たってしまった”ときの速さだ。

この光は、人間のものではない。

軍の試験兵器? そんな軽い説明では足りない。

胸の奥が、海の匂いを思い出す。

冷たく、塩辛く、底知れない匂い。

アマテラス。

その名が、喉の奥に刺さる。

母を奪い、兄を飲み込んだ海底の神話。

世界が知らないはずの、白青の戦艦。

――そんなものが。

――今、空に爪を立てた?

沙也加は、自分の手のひらが汗ばんでいるのを感じた。

湿り気があるのに、指先は冷たい。

怒りではない。興奮でもない。

もっと混じり気のない“確信”が、血を冷やしていた。

スマートフォンが震える。

振動は短く、硬い。

基地からの一斉連絡だ。

画面に浮かぶ文字は、夜の灯りより冷たい。

「緊急招集。未確認事象発生。直ちに帰隊」

それを読んだ瞬間、沙也加の中で何かが固定された。

花火大会の空を裂いた光線は、偶然ではない。

“未確認事象”という言葉が、軍の言い訳の匂いを孕んでいる。

つまり軍も、理解できていない。

理解できていないのに、隠し、包み、処理しようとしている。

――そして、隠す必要があるということは。

――そこに“人間ではないもの”がいるということだ。

沙也加は、もう一度空を見上げる。

光線は消えたはずなのに、空の傷だけが残って見える。

星の並びがそこだけ歪んで見える。

怪物の影は、もういない。

なのに、いる。

いないのに、いる。

そういう存在を、彼女は知っている。

知っているはずがないのに――母の死が、それを知る権利を沙也加に与えてしまった。

背後で誰かが言う。

「フェイクだろ? 演出だろ?」

その声は震えていて、本人も信じていない。

別の誰かが叫ぶ。

「危ない、川の方行くな!」

誰かが転び、誰かが手を伸ばし、誰かが泣く。

沙也加はその混乱の中心にいながら、中心から外れていく。

軍人の歩き方で。

私怨を隠す歩き方で。

迷わないための歩き方で。

彼女の胸の奥で、復讐が息を吹き返していた。

ただしそれは、喜びではない。

喜びの形をした絶望だ。

兄へ近づくということは、母の死へもう一度触れるということだ。

触れた瞬間、心の中の“幼い自分”がまた泣き出す。

泣き出したら、彼女は崩れる。

崩れないために――憎む。

憎むために――強くなる。

強くなるために――軍にいる。

それが彼女の循環だった。

花火がまた一発上がる。

白い光が夜空に咲き、会場の人々の顔を一瞬照らす。

恐怖に歪む顔。泣く顔。叫ぶ顔。

それでもどこかに、祭りの名残がある顔。

沙也加はその光の下で、心の中で兄の名を呼んだ。

柊テツヤ。

逃げるな。

今度こそ、逃がさない。

だが、その言葉のすぐ裏側で、もう一つの声が囁く。

――逃げないで。

――逃げないでくれ。

――逃げなければ、私はあなたを“裁ける”。

――逃げたら、私はあなたを“殺すしかなくなる”。

矛盾が胸を裂く。

裂けた胸の痛みは、復讐に似た形で固まっていく。

固まれば、動ける。

動けるから、彼女は走る。

基地へ。

“未確認事象”の正体へ。

そして、海底の神話へ。

夏の花火大会の夜。

空は一度裂け、怪物の影がそこを横切った。

その瞬間、沙也加の復讐は、私怨のままではいられなくなった。

世界が、彼女の憎しみに追いついてきたのだ。

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