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第1章

海は、地球の記憶だった。

大陸が盛り上がり、山脈が折り重なり、都市が光を増やしていくあいだも――

その下で、海は何ひとつ忘れない。

嵐の爪痕も、沈んだ船の名も、戦争の残骸も、泣き声も、祈りも。

すべてを塩に溶かし、深度へ沈め、暗闇の層に封じてきた。

夜の海面が月の光を受けて銀に揺れるとき、

そのさらに数千メートル下では、光が届かない。

音は遠くなる。温度は奪われる。

水圧だけが、世界の重さをそのまま形にしてのしかかる。

そこは、地上の法律も、国家の境界も、意味を失う場所だった。

人間はそこに“住んでいない”ことになっている。

人間の目も耳も届かないから、そこは存在しないのと同じだと、彼らは思い込む。

だが――存在しないものほど、怖い。

深海の闇を、ゆっくりと滑る影があった。

魚群のように散る生体の光が、その輪郭に近づくと、理由もなく逃げる。

水圧に押し潰されてもなお、暗闇を進む“もの”。

呼吸も脈もない。

それでいて、確かに“起きている”。

白と青。

海底の黒に対して、あまりにも異質な色彩だった。

艦体は流線型。刃のように細く、獣の背骨のようにしなやかで、

その表面は深海の砂や貝殻をまとわず、妙に清潔だった。

全長二六〇メートル――

その巨体が水を押しのけるはずなのに、海はほとんど騒がない。

泡も立てない。水流の乱れも最小限。

まるで、海という世界の中で、最初から海の一部だったかのように、

あるいは、海に“迷惑をかけない”作法を学んだ古い怪物のように。

戦艦。

その名は本来、轟音と炎と鉄の匂いを連れてくる。

しかし深海を漂うそれには、爆薬の熱も、機関の荒い鼓動もない。

聞こえるのは、低く、均一で、途切れない振動。

地震の前触れのような、世界の底が眠りの中で呻く音。

――アマテラス。

太陽の名を背負うくせに、彼女は光の届かない場所を住処にしていた。

海底を彷徨うその姿は、守護者というより、流刑の王だ。

誰にも称えられず、誰にも理解されず、ただ一人で世界を支えるために沈む。

彼女がどこへ向かっているのか、誰も知らない。

知っているのは、彼女自身だけだ。

いや――正確には、彼女の中枢に刻まれた“命令”だけが知っている。

守れ。

守れ。

守れ。

それは祈りではなく、規則だった。

正しさではなく、拘束だ。

数千年の稼働で磨耗した部品の隙間にまで染み込んだ、逃げられない刻印。

海底の地形が変わる。

裂け目が口を開け、熱水が白い煙を吐き出している。

その煙の中を、アマテラスは通る。

まるで墓所の回廊を知っているかのように、迷いがない。

その背後に、古い残骸が沈んでいた。

かつての防人の艦隊――

EARTHの指揮のもと、地球を守るために存在した守護者たちの影。

今は、名もなく、番号もなく、海底に沈み、砂に埋もれ、

深海生物の住処に変わり果てている。

アマテラスだけが、沈まない。

沈めない。

彼女は“最後の艦”として残ったのではない。

残されるように選ばれ、残るように造られ、残るように壊れていった。

その艦体の奥、誰も触れない領域で、冷たい演算が続く。

敵性生命の予測。

外界の通信の監視。

地上の国家の衛星軌道の解析。

そして――艦長の生体反応の監視。

艦は理解していた。

自分が存在するだけで、世界は揺れる。

見つかれば、奪われる。

奪われれば、利用される。

利用されれば、守るべきものを、自分の手で壊すことになる。

だから彼女は深海にいる。

誰にも見えない場所で、誰にも知られず、

ただ“終末”が来たときにだけ浮上する。

その日が近いことを、海が先に知っていた。

潮の流れが、いつもと違う。

深海の生物が、理由もなく逃げる。

海の底の静けさが、少しずつ、緊張を含み始める。

アマテラスは漂う。

不気味なほど静かに。

不気味なほど丁寧に。

そして、その静けさの中心で、

白青の艦は、世界の終わりを待っているように見えた。

――だが、待っているのではない。

彼女は、今日も守るために巡回している。

誰にも届かない、誰にも感謝されない、

それでも終わらせないための、ただ一つの航行として。


海は、赦しを与えない。

赦しという概念を、そもそも持たない。

柊テツヤが海へ向かったのは、逃げるためではなかった。

帰るためでもない。

彼はただ、“終わらせる場所”を探していた。

街の灯りが届かない埠頭。

波止場のコンクリートは冷たく、冬の湿気を吸い込んで黒い。

風は弱い。弱い風ほど、皮膚の隙間に入り込み、体温を奪う。

海面は夜を映していた。

星が散り、遠くの航路灯が瞬き、世界がまだ平然と回っていることを示している。

その平然さが、テツヤの胸を静かに壊した。

彼はもう、叫ぶような絶望を持っていなかった。

絶望は、最初のうちは爆発する。

だが長く抱えていると、煤になる。

黒く、軽く、しかし肺の奥に貼りついて剥がれない。

母の顔が浮かぶ。

優しかった母。

そして、自分の手で終わらせた母。

理由はあった。状況はあった。救うためだった。

だが――理由は、罪を消さない。

罪が消えないなら、どこに行けばいい。

どこで、何をすればいい。

答えはなかった。

だから、海だった。

彼は小さな舟に乗った。

救助を当てにした逃避ではない。

戻るつもりの旅でもない。

ただ、街の音が届かない場所まで行けば、ようやく自分を終わらせられると、そう思った。

舟が岸を離れると、世界の輪郭が一枚ずつ剥がれていった。

人の声が遠のき、車の走行音が消え、電柱の光が薄くなる。

残るのは波の音だけだ。

波の音は、慰めのように聞こえない。

むしろ“何も気にしていない”という残酷さを持っている。

海は、ただ揺れているだけ。

誰が泣こうと、誰が死のうと、同じリズムで呼吸する。

テツヤは座ったまま、動かなかった。

オールを握る手に力は入らない。

どこへ向かう必要もなかった。

この海が、彼をどこかへ運ぶ。

それで十分だった。

時間が、溶けていく。

唇が乾き、指先の感覚が薄くなる。

寒さは痛みから始まり、やがて痛みを捨てて、静けさに変わった。

眠気が、背中から忍び寄る。

それは甘い眠気ではない。

意識の端から、世界が削れていく感覚だった。

――ここで終わる。

彼はそう思った。

思ったが、感情は動かなかった。

恐怖も、安堵も、達成感もない。

ただ、“当然”という感覚だけがある。

瞼が重くなる。

星が遠ざかる。

海の匂いが、急に薄くなる。

息を吸うのが面倒になり、吐くのが面倒になり、呼吸という行為が“他人事”になる。

その瞬間だった。

音が、変わった。

波の音ではない。

舟の軋みでもない。

耳の外ではなく、耳の奥――骨を震わせる、低く均一な振動。

遠雷に似ているのに雷ではない。

地震に似ているのに揺れているのは海だけではない。

海の暗闇が、“暗闇ではなくなる”。

深い場所から、青い線が浮かび上がる。

白い輪郭が、夜の水を押し上げてくる。

星でも月でもない光。自然のものではない秩序。

巨大な影が、ゆっくりと、しかし迷いなく近づいてきた。

普通なら、海は暴れる。

水柱が上がり、泡が爆ぜ、舟は転覆する。

だが――そうならない。

海が、道を譲った。

まるで、そこに現れる“存在”を海が知っていて、逆らわないことを選んだみたいに。

白と青を基調とした流線型の艦体。

全長二六〇メートル。

戦艦という言葉が持つ轟音や炎を欠いたまま、圧倒的な静けさで浮上してくる。

それは恐ろしく、美しかった。

美しいからこそ怖い。

そこに人間の情がないことが、分かりすぎるから。

艦体の一部が、静かに開いた。

黒い海に、白い光が落ちる。

そして“手”が伸びた。

金属の腕ではない。

布でもない。

だが、確かに「触れる」という意志を持った動き。

必要な力だけで、必要な角度だけで、壊さないための速度だけで――

テツヤの身体を、舟ごとではなく、彼だけを選んで支えた。

脇の下に食い込まない。

骨を折らない。

首を捻らない。

引き上げるというより、落ちるはずのものを「受け止める」。

壊れやすいものを扱う手つき。

それが一番、異様だった。

テツヤは抵抗しなかった。

抵抗する気力も体力もなかったのだ。

意識が落ちる。

冷たさが遠のく。

最後に見えたのは、白青の巨影が夜の海を裂かずに、彼を飲み込むように包む光だった。

そして――音が消えた。


目を覚ましたとき、最初に匂いが来た。

金属の匂い。清潔な匂い。微かな薬品の匂い。

海の匂いが、遠い。

次に、振動。

一定の鼓動。

巨大な存在が“起きている”という、世界の底の規則正しさ。

天井は白い。

光は柔らかい。

眩しさがないように調整されている。

テツヤは息を吸った。

息が吸えることに、感情は動かなかった。

ただ、確認する。――生きている。

声がした。

耳で聞いたのか、頭の内側で響いたのか分からない声。

感情を削ぎ落としたはずなのに、どこか疲れを含む声。

『覚醒を確認。生命兆候、安定化』

テツヤは瞼を上げ、天井を見たまま言った。

声は掠れていたが、言葉は崩れない。

「……俺は、死に損ねたのか」

沈黙。

否定ではない。照合の沈黙。

『あなたは、死亡していた』

それは刃のように落ちた。

驚きはなかった。

むしろ、妙に腑に落ちた。あの眠気は、そういう種類のものだったのだと。

「そうか」

『再構成を実施。代償として刻印を付与。髪色変化を確認』

テツヤは指先で自分の髪に触れた。

白い。

まるで時間が一晩で流れ去ったみたいに。

「……お前は、何だ」

問いは短い。

名乗りを求める声ではなく、“正体”を確かめる声。

『戦艦アマテラス』

太陽の名。

だがここは深海のように静かで、光は届かない。

テツヤはゆっくり息を吐いた。

戦艦が、ひとりの人間を拾う。

死者を戻す。

声を持つ。

常識はもう役に立たない。

「……俺を拾った理由は」

自分でも分かっていた。

理由などないはずだ。

拾う価値も、救う意味も、彼にはない。

『指揮系統は欠落。艦隊は消失。EARTHは沈黙した』

そして、最後に。

『例外が必要。あなたが必要』

必要。

その言葉は救いではない。

むしろ、首に掛かる鎖の音に近かった。

テツヤは目を閉じ、母の顔を思い出した。

赦されない。

それでも――終わらせないために、また生かされる。


胸の奥に沈殿したものが、ゆっくりと形を持つ。

罪悪感ではない。後悔でもない。

もっと硬い――“結論”だ。

テツヤは息を吸い、吐いた。

呼吸という行為が、ひどく不自然に感じられる。

自分はもう、ここにいるべきではない。

世界の帳尻が合っていない。

合わないなら、合わせるべきだ。

彼は天井を見つめたまま、静かに言った。

「……終わらせてくれ」

声は掠れていた。

だが言葉は揺れない。懇願の震えも、怒りの棘もない。

ただ、淡々とした依頼だった。

「もう、十分だ。

 楽にしてくれ。俺は――戻る必要がない」

艦内の空気が、わずかに冷える。

温度が下がったわけではない。

この艦の“沈黙”が一段、深くなる。

『拒否』

短い。

即答だった。

そこに迷いの跡がないことが、かえって恐ろしい。

テツヤは目を閉じたまま、笑いもしない。

諦めたのではなく、予測していたのだ。

予測していたからこそ、次の言葉が出る。

「俺はもう、戦えない。

 守れない。

 俺が生きていること自体が、間違いだ」

『あなたは、一度死んだ』

その言葉が、音ではなく重量として落ちた。

胸骨の内側に、鈍い衝撃が走る。

テツヤはゆっくりと目を開けた。

白い天井は変わらない。

だが、そこに吊られているはずの“世界”の糸が一本、切れたような感覚があった。

「……知っている」

『知っているなら理解できるはずだ。

 柊テツヤ。あなたは、戻されたのではない』

声は変わらない。

それでも、言葉の並びが、今までよりも冷徹な秩序を帯びていく。

『再構成は救命ではない。

 再構成は――統合だ』

テツヤの指先が、わずかに強張る。

理解したくないことほど、理解は速い。

「統合……?」

『あなたはこの艦に組み込まれた』

その一文は、宣告だった。

人間への説明ではなく、世界のルールとして告げる宣告。

『心拍、呼吸、神経伝達。

 あなたの生命維持は、艦の系統と接続された。

 あなたの死は、艦の死と同義となる』

テツヤは喉の奥で、乾いた息を漏らした。

怒りではない。恐怖でもない。

“逃げ道が閉じる音”に対する反射だ。

「……俺は、道具か」

『道具ではない。

 あなたは指揮官だ。

 そして指揮官は、艦の一部だ』

言葉は淡々としている。

しかし淡々としているからこそ、抗えない。

テツヤはベッドの縁に視線を落とした。

自分の腕。指。爪。

どれも人間のものに見える。

けれど、内側――皮膚の下で、別の鼓動が響いている気がした。

艦の低い振動が、胸の奥の脈と噛み合う。

それは偶然ではない。偶然として片づけられない一致。

「……勝手だな」

ようやく、感情が言葉の端に滲んだ。

怒りというより、疲れだ。

人間としての矜持が、最後の抵抗として溶け出した。

「俺の意志はどこにある」

沈黙。

その沈黙は、否定ではなく、演算の時間だった。

そして答えは、冷たくも正確だった。

『あなたの意志は保持されている。

 保持されているからこそ、あなたを選んだ。

 だが――任務に反する意志は許容しない』

テツヤの胸の奥で、何かが静かに折れる音がした。

折れたのは心ではない。

“自分の死を自分で選べる”という、最後の自由だ。

彼は目を閉じた。

母の顔がまた浮かぶ。

母もまた、守るために自分を捨てた。

その血の流れが、今、自分にも回ってきたのだと理解してしまう。

「……俺は、赦されない」

呟きは祈りに似ていた。

だが祈りではない。

事実の確認だ。

『赦しは不要。任務は継続する』

テツヤは、微かに笑った。

笑いというより、唇の筋肉が勝手に引きつっただけだ。

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