クリスとケヴィン
ナタリアは驚愕した、こんなことが現実にあるのだろうかと。
自分の体は幼くなり、周りは時が戻っている、そんな非現実的なことが。
だがこうも思った、時が戻ったのならば、自分の夢をもう一度追いかけることができるのではないか、と。
そしてナタリアは決意した、この生でこそ私は王になるのだと。
(そうすれば、積み上げた犠牲も、努力も、無駄ではなかったことになるのだから)
そう考えながら、ナタリアはベッドに寝転がる。
コンコン、と控えめなノックの音。
入って頂戴、とナタリアが言うと、ガチャリと扉が開きクリスが入ってくる。
「お加減はいかがでしょうか? こちら、いつものお薬でございます」
(いつもの薬? ああ、私が血を吐いたときに言っていた物ね。 私の体は薬を飲まないといけない所まで来てしまっているのかしら。治すのはかなり大変そうね……)
やりたいこと、やらなくてはならないことの多さにナタリアはふぅ、と心の中で溜息を吐く。
そしてすぐに起き上がり、クリスが持ってきたお盆からタブレット状の薬と水の入ったコップを取り、流し込む。
すぐにナタリアの顔が歪み、それを見たクリスが果実水入りのコップを手渡してくる。
それを飲むと、ナタリアの顔はようやくいつもと同じ無表情になった。
「やはり、この薬は苦いですよね。何度もお医者様に言ってはいるのですが、これ以上は苦くなくならないとおっしゃっていまして……」
ニガヨモギだのマンドラゴラだのが入っているらしい薬がこれ以上苦くならないわけはないが、クリスは医者に掛け合ってくれているらしい。
ナタリアは薄く微笑む、そしてそれを見てクリスは目を見張る。
病気でベッドに寝たきりの生活のせいか、いつも無気力な顔に死んだ瞳のナタリアが、喋るだけでなく微笑んで見せたのだ。
明日は雪でも降るのだろうか、とクリスは思った。
ちなみにナタリアが微笑んでいるのは果実水が好きだからである。
飲み終わったコップの片付けをした後、会釈をしてクリスは部屋の外に出て行った。
ふう、と息を吐き、力を抜く。
この姿になってから初めての人との会話である、緊張しないわけがないのだ。
(まあでも、少しわかることがあったわね。私はまだ両親に見放されたわけではなさそうということが)
マンドラゴラはこの時代ではまだ高級品である、だがナタリアが8才の時に隣国からマンドラゴラの産地を奪い取ったためにかなり安くなったのだ。
その頃と今では価格に20倍以上の差がある、それほど高いものをわざわざ見限ったものに与えたりしないだろう。
それに、効能自体が同じものはあるのだ、味はもっと酷いが。
見放されていないのであれば、まだ可能性はある。
今からでもいい、有用性をアピールし、経験を積み、邪魔者たちを蹴落とす。
(そして、私は王になり、望む全てを手に入れる)
――あの日から、私はそう決めているのだから
+++++
「……良かった、お嬢様はまだ、元気そうだ」
ナタリアの部屋を出たクリスは、そうぽつりと言葉を溢す。
この少年は心配だったのであろう、なにせ自分がついている令嬢の部屋から突然叫び声が聞こえ、慌てて駆けつけると令嬢は血を吐いて苦しげにしていたのだから。
(でも、もう時間はないのかもしれない、昨日より、さらに顔色が悪くなっている。もしかしたら、あの医者が言っていたことも、あながち間違いではないのかも……)
と、そこまで考えて首を振る。
だってそんなわけはないのだから、そうだ、そんなわけがない。
――お嬢様の生きていられる時間が、もう残りわずかだなんて
厨房まで2つのコップをお盆に乗せて運ぶクリス、その歩くスピードは少しずつ早くなっている。
2つのコップがグラグラと揺れる。
それに気付いていないのか、少年の足はどんどん、どんどん速くなっていく。
そして……
ダンッ、とコップが落ちて、コロコロとクリスの足元を転がっていく。
そしてクリスはやっと気が付く、自分の足がどんどん早くなっていたことに。
木製のコップであったから割れずに済んだものの、これでコップがガラス製のものであったら、きっと簡単に割れていただろう。
ナタリアの筋力では落として割ってしまうかも、という心配が別のところで役立った。
すぐに厨房で洗ってもらわなくては、と拾い立ち上がると。
「ダメじゃないか、コップを落としちゃ」
ふわふわの栗毛に垂れ目の青年がいた。
この青年は、エディントン家の料理人――ケヴィン・エイマーズだ。
クリスの先輩であり、料理や皿洗いの師匠でもある。言ってしまえば、頭が上がらない存在だ。
「あ、す、すみません」
「いや、いいよ、べつに怒ってないしね。むしろ君が心配だ、何かあったのかい? いつもはこんなミスしないだろう?」
にこりと笑いながら、ケヴィンはクリスに問いかける。
そう、クリスはいつも完璧に仕事をこなしている、平民である自分がこの名門であるエディントン家に拾われ、その上ご息女の専属執事という名誉を背負っているという責任が、クリスを完璧主義にしていた。
そんなクリスがいつもならありえないミスを、それもナタリアの部屋から帰ってくる廊下でしているなんて、きっと何らかの理由があるに違いない、そうケヴィンは思ったのだろう。
「ね、話してくれないかな? 俺にできることならなんだってするよ」
いつも通りの蕩けた蜂蜜のような微笑み、それを見たクリスは一瞬で顔を歪める。
ケヴィンのことは尊敬しているが、こういう噂好きなところは心底嫌いだからだ。
そうやって心配という皮を被せて、面白いネタでも手に入れようと目論んでいるのだろう。
「……そういう興味で聴くんでしたら、絶対に僕は話しませんよ」
「えー、俺は純粋に心配なだけだよ?」
疑うなんてひっどいなぁ、と笑いながらケヴィンは言った。
クリスがため息を吐いて、すぐに厨房へ向かおうとすると、ケヴィンは腕を掴んで引き留めた。
「本当に、心配なんだよ。君がそんなにガタガタになるのって、お嬢様に何かあった時くらいだからさ」
「…………」
クリスは押し黙る、図星だったからだ。
自分が動揺して仕事で失敗してしまった時点で、ケヴィンにバレるのは時間の問題だったのだ。
ケヴィンが口を開く。
「お嬢様の寿命、もう長くないんでしょ?」
屋敷の廊下に、沈黙が訪れた。