老いと死と
多くの生物が寝静まる夜に一匹の狼が棲家を離れてとある村の様子を窺っていた。
狼の視線の先には煌々と焚かれた篝火に囲まれた家がある。
狼は知る由もないが、その家は村長の家だった。
そして、その家の周りには幾人もの人間が家を取り囲み声を殺して泣いている。
その様を見つめながら狼は呟いた。
「理解出来ん」
あの家の中には長く長く生きた人間が一人、死に至ろうとしていた。
その人間はあまりにも年を経た故に随分と前から一人で歩くことはおろか、食事をすることさえも出来なくなっていた。
「理解出来ん」
狼は繰り返し呟く。
他の生物と違い、人間は指先が枯れ枝よりも細くなり、全身の毛が白くなっても決して仲間を見捨てない。
最早、何の価値もない命をこうして守り、あまつさえ生き長らえさせる。
仮に自分自身が死を願おうとも、周りはそれを決して許さない。
故に生きることを強要される。
狼は一つ唸り声をあげて、自分の群れの長の死に様を思い出す。
長は強かった。
記憶にある限り、どのような存在よりも。
しかし、歳と共に強さを失い毛皮が白くなり多くの配下よりも弱くなり……そして、ある時狩りに失敗した。
あの光景を狼はよく覚えている。
自身と他の狼が集まり、ずっと焦がれていた背中に向けて煽ってた。
『長ならば獲物を狩ってみせろ。子供が腹を空かせているぞ』
無論、狼たちは最早、長にはそれが出来ないことを良く知っていた。
そして、長自身もそれをよく理解していたはずだ。
自分が最早、群れにとって不要な存在であることを。
故に、長は狩りに失敗した後、つまり自らの命さえも繋げないことを悟った後に群れを去った。
それから少しして、狼達は惨めに命を散らしたかつての長を発見した。
しかし、それについて狼達は何一つ思うことはなかった。
何故なら、それが自然なことだからだ。
「理解出来ん」
思い出を振り払い、狼はその場に身を伏せて村を見つめる。
自分達、狼の死に様は自然に即していると狼は信じていた。
生きていけないから死ぬ。
それ以上に正しいものなど存在しないはずだ。
しかし、人間はあのように無理矢理命を繋ぎ止める。
そこに意味はあるのか?
あるいはないのか?
ないのだとしたならば、何故このようなことをするのか?
不意に大声がした。
まとまらない思考が一度に吹き飛び余韻さえも消え失せた。
村長の家から泣きながら一人の老女が飛び出し、周りの者達に何かを伝えている。
狼はそれが長く生きた人間の死であるのを言葉を解さないままに知った。
直後、響く多くの人間の泣き声。
あまりにも奇妙な光景だと狼は思わずにいられなかった。
しかし。
狼は目を閉じて静かにその場で呟いた。
「羨ましい」
闇夜に照らされ輝き、色さえも認識出来ないほどの白色の身体をこれ以上無いほどに小さくしながら、一匹の老狼はあと何度出来るかも分からない眠りについた。