1582年 初夏「本能寺」
敦盛が舞われている最中に、脳裏にあの声が響いた。
(……スケ。……ヤスケよ。聞こえるか?)
(ああ、あんたか)
俺は、緩やかに進行した絶望の到達点近くにいた。本能寺の変を防ぐための企ては、結局のところ実行にすら移せなかった。
光秀への注意を喚起しようとすれば舌が動かなくなり、防ぐための動きをしようとすると、身体が金縛りにあったかのようになった。
歴史の強制力というやつなのか、それとも、またも響いたこの声がかつて言及していたように、未来での集合意識のようなものが影響しているのか。いずれにしても、阻止は不可能であるようだった。
(今は、いつだ。ノブナガはまだ生きているか?)
(まさに今、本能寺で襲撃を受けている。殿は、既に死を覚悟されているな)
(間に合わないのか……。再び介入できたからには、そちらで歴史を改変すれば、さらにいじれる余地が広がるんだが。まもなく、IBUソフトが「暗殺者の信条」という世界的なゲームに、サムライとして日本人の首を撥ねて回るお前を登場させて、これこそが史実だとぶち上げる。それをバカ共が信じ込めば、お前は物凄い力を得るはずなんだ)
こいつは……、本気なのだろうか。そして、正気なのだろうか。
まあ、俺の意識が現代から過去の歴史世界へと送り込まれている以上、未来から過去へのリンクがありえないとは言い切れない。
(あんたは、俺をどうしたいんだ)
(日本のサムライの最上位の存在になれ。本当なら、白人を日本人の上に置きたいんだが、黒人の下にアジア人、というのがお似合いの構図なのかもしれんな。なんなら、天皇を殺して、跡を継いでも構わんぞ)
結局、差別主義者の塊のようなヤツのようであるらしい。前回の話と総合すると、自分の実績のために俺に力を寄越したいってことか。
しかし、「暗殺者の信条」とは……、なんでそこに侍なんだ?
(「暗殺者の信条」という題名で日本が舞台なら、主人公は忍者であるべきなんじゃないのか?)
(サムライなんて、要するに人殺しだろう? 騎士の高潔性とはかけ離れた、下賤な存在だ。たいして変わりはないさ)
どうも、単なる差別主義と言うよりは、言葉の端々に日本への嫉妬が見え隠れするようにも思える。
(いいか、既に本能寺の変が起きているのなら、この後のお前には、二通りの流れがある。明智光秀の家臣に刀を差し出してイエズス会に渡されるのが一つ。もう一つは、ノブナガのデスマスクを取って、息子に渡すというものだ)
(デスマスク……? 火に包まれる寺の中で、デスマスクを取るってのか? ここで死ぬなんて思っていなかったのに、そんな用意してるわけないだろ?)
(私の知ったことか。ただ、そのどちらにしても、サムライとしては弱すぎる。……IBUソフトの「暗殺者の信条」の告知によって、お前についての共同幻想は深まっている。だから、そちらに新たな力が宿るはずだ。力を使って、名を残すのだ。国を切り取り、日本を支配するがいい。こちらも、できるだけのことはする)
脳裏で、今回も断線めいた途絶が生じた。日ノ本大学の准教授とか言っていたはずなのに、だいぶ残念な人格のようだ。いや、日ノ本大学の教職にある人達というのは、概ねこんなもんなんだろうか。そうなのかもしれない。
敦盛を舞い終えた信長公が、刀を一振り俺に差し出した。
「これを信孝に渡してくれぬか」
「承知いたしました」
反射的に、俺は応じていた。そう、嫡子である信孝も、同じタイミングで命を落とすはずだ。それを防げれば、話はまた変わってくるかもしれない。
ゆったりと、信長公が手槍を構えた。まもなく、明智の兵がなだれ込んで来るだろう。
立ち上がると、俺の身体に力が漲っているように感じられた。これが、未来の集合意識とやらの影響なのだろうか。
廊下から裏庭に出ると、すぐ近くに人影が現れた。
「明智方の者か」
「いいえ、あたしは藤林奈緒。妹が世話になっているそうなので、ちょっと手助けをと思ってね」
「貴実の姉さんか。……なら、甲賀忍びなのか?」
「ええ。でも、問答は後にしましょう。安土に向かえばいいの?」
「いや、御所に。信孝様にお目にかかりたい」
「明智が仕掛けてるみたいだけど」
「だからこそさ」
苦笑した表情は、妹の貴実にそっくりだった。