コードネーム〝 jade 〟
やり過ぎたかな、と思いつつ覗き込んだサングラスの奥の目に、私を咎めるような冷ややかさは見受けられなかった。
さっさと背を向けて距離を取ろうとする彼に、私は背後から声を掛けた。
「ねえ、あなた名前は? 何て呼べば良いの?」
それに彼は一度ゆっくりと振り返ると至って淡々と
「コードネームはジェイドだ」
それだけ言い残し、早々に私から距離をとった。
……まさか、私にもその名で呼べと?
まあ、いい。つい尋ねてしまったものの、この先、私がこの男を名前を呼ぶなんて、有り得ない。
さっさと大通りに戻り、再び目的もなく歩みを進めた。
それにしても、これからどうしよう。
こうしてただ当てもなく歩いていたって仕方がない。目的は新薬を持ち出すこと。そのためにはどうしたって研究室棟に行くしかない。
そのためにはまず会社へ行かなくちゃ。
でも私が会社に顔を出すこと自体が不自然過ぎる。だからつまり最初の問題はそこだ。
私が会社に顔を出しても不思議に思われない何らかの事情を作り出すしかない。
『教師になるのをやめて、やっぱりパパの会社で働きたいの』この手でいくか。
無理だ。これでパパが大喜びをしたら、本当にあとに引けなくなってしまう。
口にこそ出さないけれど、パパにとって、それが叶うのであればそれに越したことはない。
一時の気の迷いや洒落でしたじゃ話は済まなくなる。
もちろん全てが終わったあとで「あのときは脅されていて、あれしか方法がなかったの」と言えば通らないでもない。
でもやっぱり、パパや期待してくれた人たちの落胆は想像するに余りある。
もちろんそれだって成実樹ホームのみんなには代えられない。けれど、やっぱりまだこれは最終手段だ。他にも何か方法はあるはずだ。
『ママには内緒で欲しいものがあるの』と、おねだり作戦?
これもないな。
パパには「困ったことがあったらいつでも使いなさい」と、私名義のゴールドのクレジットカードを手渡されている。
大体、パパは私に甘すぎる。こんなもの、学生が持つモンじゃないって。これまで一度だって使ったことはない。それが私のプライドだ。
とにかく、これも無理だ。何より、あれで買えないものが思い浮かばない。
ああ、どうしよう。たった7日だ。このまま今日が終わってしまったら、何もしないまま一日が過ぎて、残すはあと6日。明日もこんなことを考えていたら、それだけで時間をどんどん無駄にしてしまう。一日でも、一時間でも、一分一秒でも早くみんなを開放してあげたいのに。
ひと足進む度に、焦りばかりがただ刻々と私を支配していった。
何か……。
目の前の横断歩道の歩行者用信号が赤に変わった。
こんな炎天下じゃ、たかだか二、三分の信号待ちも堪える。足を止めただけで汗がドッと吹き出して、Tシャツ越しの背中を伝った。
スニーカーの下から沸き上がるアスファルトの照り返しがジーンズにまとわりつく。
それに加え、目の前を無遠慮に颯爽と通り過ぎてゆく車が巻き起こす熱風が、益々私を不機嫌にさせた。
あぁ暑い。暑い、暑い! 暑い>
軽装の私がこれだけ暑いんだから、後ろのダークスーツのジェイド君はさぞや辛い思いをしているに違いない。
大体、いくら業務命令とはいえ、何が悲しくてこの炎天下に女の子の尻なんて追い掛けなきゃいけないのか、彼だって好き好んで私の監視役なんて……
「あっ!」
そのとき、私の中にある名案が落ちてきた。
目の前の赤信号にくるりと背を向け、足早に引き返す。
ジェイドが慌てて踵を返す。私はその腕を掴んだ。
「ねえ、着いてきて。良い? 私の後ろからじゃなくて、一緒にきて!」
次回、製薬会社の社長室へ乗り込む!