招かざる来客たち
それから三日後、思い掛けない事態が起こった。
その日、園長から買い物を頼まれていた私は、成実樹ホームに向かう前に、駅ビル内にある雑貨屋へ立ち寄った。
買い物を終えて乗り込んだバスは相変わらずゆったりと製薬会社の前を通り過ぎてゆく。
ホームの在る停留所の手前で速度を落としはじめた頃、鞄にしまってあった携帯電話が鳴りだした。
普段、電車やバスを多く利用するため、目的地に着くまでは電話をバイブにしているから、正確には鳴ったのは着信音ではなく、着信を知らせるバイブの音だ。
私は、疎らに座っていた他の乗客たちにやや大袈裟に遠慮を示しながら携帯電話を取り出し、運転席脇に設けられた乗降口まで急ぎ足で移動すると、パスモを翳すのと同時に通話ボタンを押して、転がるようにバスを降りた。
電話は園長からだった。現在地を問う質問に、たった今バスを降りたところだと伝えると、「それなら、ホームに着いたらまず園長室にきてくれるかしら」そう言って、すぐに電話は切れた。
酒屋の前にはまだオヤジの姿はなかった。店長はこの時間なら配達に出掛けている頃だろう。踏み入れた路地は噎せ返るような暑さの中で、ひっそりと静まり返っていた。
自動ドアを潜ると、今日は珍しく出迎えの人影はなかった。素早く自分用の室内履きに履き替えて正面の階段を上り、目の前の園長室の扉を軽くノックした。
「橘でーす、入ります」
そう声を掛けながら、中からの返事も待たずに私はその扉を押し開けた。
「今日も暑くて……」そう言いかけて、部屋の中に園長以外の人影があることに気付き、慌てて姿勢を立て直した。
「あっ、すみません、私ったら。ご来客中とは知らなくて」
深く一礼し、そろっと顔を上げたところで、ふと違和感を感じた。
お客様は、ざっと見でも六、七人はいる。それは良しとしよう。しかし、その誰もがお揃いの黒いスーツを身に纏った男たちばかりで、部屋のあちらこちらに点々と立ち、誰一人として椅子に腰掛けている者はいない。そしてそれは、自らの机の前で立ち尽くしている園長も同じだった。
役所の人間か、はたまた地上げ屋が立ち退きでも迫ってきたか。
とにかく、どう見たってとても和やかな雰囲気とはいえない。
「……あのぉ?」
次の言葉を探しはじめたとき、園長のすぐ脇に立っていた年輩の男が私に向かって口を割った。
「橘灯里。そうだな?」
「……はぁ、そうですが」
そう答えると、男は続けざまに質問を投げて寄越した。
「タチバナ製薬の橘社長の一人娘で、間違いないな」
次の瞬間頭に浮かんだのは、疑問符だけだった。
??
家のことは園長にも話していない。そもそもの取っ掛かりが取っ掛かりなだけに、思えば私はここに履歴書すら提出していなかった。
最も、履歴書を差し出したところで、親の会社や役職まできめ細やかに尋ねられることもないだろうけど。
ちなみに、友人知人にだって、わざわざ自分の親が国内最大手の製薬会社の経営者だなんてことは一度も話したことはない。
それなのに何故、この人たちは私の素性まで知っているのだろうか。
驚きの表情を隠さない園長に若干の遠慮を示しつつ、私は、その相違ない事実に一つ頷いた。
すると男は、園長に向かって丁寧に右手を差しだし、ソファに座るよう促した。
彼がこの一団の長なのだろう。そしてどうやらお客様方は、園長にではなくタチバナ製薬の一人娘に用があるらしい。
園長がおずおずとソファに腰掛けたことを確認して、私は言った。
「……あなたたち、何?」
眉間と言葉に力が入った。訝しげに尋ねた私に、男は声色を変えるでもなく淡々と話を切りだした。
「最近、タチバナ製薬で新薬が開発された。我々はその新薬が欲しい。判るか?」
言っている意味が飲み込めない。答えに困っていると男は更に話を続けた。
「タチバナ製薬の研究所内の何処かでそれは開発されて保管されている。我々はその新薬が欲しい。お嬢さんにそれをここへ持ってきていただきたいと、お願いに上がっている」
……はあぁ??
何だかよく判らないが、とにかくそれは無理だ。
とりあえず、思ったことをそのまま正直に伝えてみた。
「ええっと、それは、無理だと思いますよ?」
男は、園長の机の前に置かれた濃茶の肘掛け付きの椅子を引き寄せ、それに腰を下ろしながら言った。
「我々には、どうしてもそれが必要でね。こちらには申し訳ないが、お嬢さんがここへその薬を持ってくるまでの間は、この建物は我々の監視下におかせてもらう」
「監視下?」
「そう」
「それはつまり、占拠ってこと?」
「そうだ」
緊張と怒りが入り交じって目眩がしてきた。
「ちょっと待って下さい! 確かに私はタチバナ製薬の社長の娘だけど、研究所なんて入ったこともないし、第一、会社のことなんて私には何も判らないわ!」
出任せではない。
ここへくる途中、バスの窓から見える製薬会社がパパの経営する会社の本社兼研究所だ。この成実樹ホームとは、偶然にもバス停で一つ、徒歩でも十分少々の距離にありながら、私はこれまで一度だって会社に顔を出したことはなかった。
それにも関わらず、男はまだ勝手な言い分を続けた。
「期間は五日、と言いたいところだが、そういう事情なら七日間やろう。それまでは園長には皆に事情を説明してもらい、建物を閉鎖してもらう。もちろん、外部との連絡手段も絶たせてもらう」
「冗談じゃないわ! それだったら、こんなところにこないで直接研究所に行けば良いじゃない! なんで私なのよ!」
相手を刺激してはいけないと判りつつも、ついつい苛立ちが口を吐いた。
「随分と気の強いお嬢さんだ。普通なら泣き出すかと思ったんだがね」
男は口元に薄ら笑いを浮かべそう言うと、それからこう続けた。
「研究所は当然ながら厳重警備だ。警備だけなら我々でも何とかならんでもない。しかし、建物の所々に幾つかのセキュリティシステムが敷かれている。登録している数人の静脈流か角膜認証でしかシステムは解除されない仕組みになっている。その登録者にお嬢さん、あなたが入っているはずだ」
次回、新薬を盗み出すよう言い渡された灯里に監視役が?!