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穏やかなひととき

 着地……失敗??


 このマンションは建物の北側に非常階段が設けられている。

でも、それを使ったのなら、私が玄関ロビーを飛び出した直後に部屋を出たとしても、あれだけの短時間であの場所に辿り着くことはできない。


一基しかないエレベーターは、私が1階に着けたあと、そのままそこに停止していたはずだ。


 じゃ、彼は一体、どうやってあんなに早くあの場に駆け付けることができたのだろう?


「どうして、私が襲われたのが判ったの?」

 そう問い掛けると、彼は静かに淡々と答えた。


「出掛ける物音がしたので部屋を出てみましたが、君があまりに身軽な格好だったから、尾行するまでもないと判断しました。が、ふと下を覗いたら例の車が見えたので、まずいと思って」


「……思って?」


「そのままジャンプ」


「……ここ、3階よ?」


「ええ。とにかく君のせいではありません」

 彼は簡単にそう言って、コーヒーの入った紙コップを再び口に運んだ。


 3階から歩道に向けて飛び降りるなんて、常人じゃ絶対に有り得ない。

一歩間違えば自殺行為だ。

考えただけでも背筋が凍る。


 それを、この人は当たり前のように口にした。

 

いつも……こんな危険なことをしているのだろうか。


 右手の擦り傷を、その後も彼は別段気にする様子もなかった。


「助けてくれて……ありがとう」


 お礼を言ったあとは会話が途切れた。


テレビもない部屋で、聞こえてくるのはエアコンの室外機が回る音と、時折、表を通り過ぎる車の音くらいだった。

昨日からずっと忙しなく落ち着かない時間を過ごしていたせいか、その静けさが今は心地よく感じられた。


「それ」


「えっ?」

 不意に声を掛けられて顔を上げると、ジェイドは伏し目がちに私の手元に目線をやった。


 その視線をなぞるように、私は自らの左手の中指に通したままにしていた薄緑色の指輪に目をやった。


「翡翠。ジェイドって翡翠のことだったのね。響きからちょっと怖そうなイメージがあったんだけど、柔らかくて良い色ね。似合うでしょ?」


 そう言って左手を広げて見せた。


「人質、ですか?」そう尋ねるジェイドに、


「ええ。頭にきたらバラバラにしてやる予定よ」


 そう答えると、思いも掛けず、彼がフッと笑った。


 それは、パパと談笑する笑顔や典ちゃんの話に上手く相槌を打つ笑顔とは明らかに違っていた。恐らく、彼自身の本当の笑顔なのだろう。


 辺りが翡翠と同じ柔らかな色で覆われた気がした。

掴みどころのない不思議な人だった。

 

再び沈黙に包まれた室内で、私たちは、ただ向かい合わせに座って黙ってコーヒーを飲んだ。

全く予想もしなかった、それは、何故かとても優しくて、とても穏やかなひとときだった。


 思ったほど悪い人じゃないみたいだ。

本当の彼は、一体どんな人間なんだろう。

 

紙コップに残る最後の一口を飲み干して、私は自分の部屋に戻った。

 もう怖い夢は見ないような、そんな気がした。



次回、ケーキバイキング?!

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