ポーカーフェイスが見せた小さな動揺
フラスコの湯で淹れたインスタントコーヒーは、私の心配を余所に、ビーカーではなく、ちゃんとマグカップで私たちの前に差し出された。
白地にコーヒー豆が3つ並んだ柄が描かれたマグカップを両手で持ち上げ、典ちゃんが淹れてくれたコーヒーをそっと口に含んだ。
飲み馴れた味なのに、いつもより少しだけ苦みが強いような気がした。
「それにしても、訪ねてくれたのが今日で良かったわ。明日から急な海外出張が入って、3日間ほど、留守にするところだったから」
意外な彼女の言葉に、私はカップを口元から離した。
「昨日はパパ、そんなこと一言も言っていなかったわ」
「そりゃそうよ。さっき、朝一番に私から社長にお願いして決まったことだもの」
「そうだったの。海外出張なんて凄いわね。何処へ行くの?」
何気なく尋ねた言葉に、典ちゃんが「デリーよ、インドの。社長も一緒よ」そう答えたそのとき、ジェイドが明らかに反応を示した。
けれどそれは、典ちゃんが気付くほどのことではなかった。
コーヒーのカップを口元に運ぼうとしていた彼の手が、ほんの一瞬止まった、それだけだ。
けれど、これまで人前ではどんな場面でも常にポーカーフェイスを装い続けていた彼を見てきた私にとって、それは大きな異変だった。
そのあと、典ちゃんは私の子供の頃のエピソードを幾つかジェイドに語って聞かせた。
驚いたことに、ジェイドはそれらの話をいちいち楽しそうに相槌を打ちながら聞いていた。
お陰で典ちゃんは彼を、私の本物のフィアンセだと思ったに違いなかった。
先程の新薬のお披露目に目もくれなかったことといい、この、さも楽しそうに話を聞く姿といい、彼には天晴れという外ない。
全く腹立たしいくらい彼は、良くできたシナリオを演じる役者そのものだった。
そんなときを1時間ほど過ごした頃、ジェイドが立ち上がった。
「そろそろ、失礼しましょう。明日から出張されるのなら、今日中に片付けたい仕事もお有りでしょう」
典ちゃんは「大丈夫よ」と言ったけれど、私は彼の言葉に従って席を立った。
典ちゃんもそれ以上、引き留めることはしなかった。
「外まで送るわ」そう言うと、典ちゃんは新薬が置いてある部屋のドアに近づき、脇に置かれた小さな箱の中を覗き込んだ。
すると、その直後、小さく電子音が鳴った。
「何の音?」
二人のどちらにでもなくそう尋ねると、すぐ隣に立つジェイドが典ちゃんを振り返った。
「角膜のセキュリティシステムですね?」
すると典ちゃんは一度小さく頷き、それから「ええ。一応アレの管理を任されているから、5分以上部屋を空けるときには念のため、ね」そう言った。
典ちゃんの背を追って再び出入り口の自動ドアを潜り、受付の前を通り過ぎようとしたとき、何処からともなく声を掛けられて、私はつと足を止めた。
40代前半くらいの女性が受付室のドアを開け、そそくさとこちらに歩み寄ってきた。
彼女は典ちゃんに軽く会釈をすると、それから私に向き直って丁寧なお辞儀を寄越した。
「受付の香川と申します。社長のお嬢さんですよね? すみません、さっきはご馳走様でした。みんなとても喜んでいました。一言お礼を申し上げたくて」
「いえ、わざわざすみません。こちらこそ、お仕事中に皆さんにお手数をお掛けして、すみませんでした」
そう答えながら、私は、ふと自分の手荷物を確認した。
「典ちゃん、これ」
最後まで下げていた小さな紙袋を、私は典ちゃんに差し出した。
ケーキを買ったときに一緒に包んでもらったあんみつと水ようかんだ。
緊張が先走って、すっかり手渡すのを忘れてしまっていた。
「あら、ありがとう」
「こちらこそ、ご馳走様。出張、気を付けて行ってきてね」
それから「またね」と短く挨拶を交わして、彼女とは白い通路の中ほどで別れた。
典ちゃんは昔から、洋菓子より和菓子の方が好きだった。
次回、3つの関門と西田コーポレーション




