気が進まない道のり
目覚まし時計は、昨日と同じ午前7時にセットされたままだった。
身体が痛い。
腕の力だけを頼りに起き上がって、辺りを見渡した。どうやら昨夜は考え事をしていて、そのままソファの上で眠ってしまったらしい。
空っぽの頭を揺さぶり起こしたのは、テーブルの上に置かれたままのスポーツドリンクのペットボトルだった。
それを掴もうと伸ばし掛けた左手の中指には、少しだけ見覚えのある乳緑色の指輪あった。
それを目にした途端、昨日の出来事が津波のように一気に押し寄せてきた。
「あぁ、ちょっ……ちょっとぉ、待ったぁ」
蘇ろうとする記憶に無理矢理ストップをかけてヨロヨロと立ち上がり、その足で真っ直ぐ玄関脇の浴室に向かった。
熱めのシャワーを浴びてすっきりしてからエアコンのスイッチを入れ、改めてペットボトルを手に取った。3分の2ほど残っていたスポーツドリンクを飲めるところまで一気に飲み込んで、私はようやく大きく息を吐いた。
一晩中テーブルの上に乗せられていたせいで温まっていたせいもあるだろうけれど、美味しくない。
昨晩は強く感じた甘みも、今は全くといって良いほど感じられなかった。
濡れた髪をバスタオルで乱暴に拭いながら冷蔵庫を開ける。
卵が3つ、ヨーグルトが1つ、それにアイスコーヒーと数種類の調味料があるだけで、お目当てのドリンク剤は品切れだった。
仕方がないのでそれは諦めてテレビの電源を入れると、画面いっぱいにお天気お姉さんの爽やかな笑顔が映し出された。
冷蔵庫から取り出した卵3つ全てを使ってスクランブルエッグを作り、ヨーグルトとアイスコーヒーをテーブルに並べ、それに一枚だけ残っていた今日が賞味期限の食パンをトーストして朝食にした。
また昨夜みたいな体調不良をおこしたら堪らない。
欲をいえばサラダかフルーツが欲しいところだけれど、それはまた今度にして、全てを平らげて片付けを済ませると、テレビの時報が9時を告げた。
私はテレビを消して、誰もいない部屋に向かって大きく声を上げた。
昨夜は弱気になったけれど、いつまでも落ち込んだり考え込んだりしている暇はない。
「一時間後に出るわよ。行き先は研究室棟の細川室長の研究室」
とりあえず行ってみなくちゃ何もはじまらない。
ぴったり一時間後に私は部屋を出た。けれど部屋の前にジェイドの姿はなかった。
案外、盗聴器なんて私を脅かすための嘘っぱちだったんじゃないの。人質を取られているとはいえ、私が万が一にも誰かに知らせたりしないようにするためにわざとそう言ってみたのに過ぎないのかも。
いくら私だって、成実樹ホームを人質に捕られてそんな真似する訳ないじゃない。
けれど、それならそれでラッキーだ。
ところがエレベーターで一階に下り、ドアが開いた途端に自分でも呆れるくらい深い溜息が漏れた。
――やれやれ。
期待も虚しく、ダークスーツは本日も健在成り、だった。
そしてつまりは、盗聴器もご健在だったらしい。
昨日の日中と同じように距離を保って着いてくるジェイドを置いて、私は駅前のケーキ屋の自動ドアを潜った。
ショーウインドウの中、三段に仕切られたケーキケースの中段に並べられた色とりどりの宝石のようなゼリーたちが目を引いた。
カップに入れられたオレンジやメロン、ピーチやイチゴといったそれぞれのゼリーの上には、フルーツやキラキラ光るクラッシュゼリーが沢山乗せられていて、目にも涼しげな演出を醸し出していた。
それらを端から順に読み上げながら指し示し、最後に『ほろ苦コーヒーのムースゼリー』を加え、同じ物を2つずつ、計10個のゼリーケーキを注文した。
先程の店員がそれらをケーキ箱に並べ、保冷材と使い捨てのスプーンを入れて綺麗な掛け紙と涼しげな銀線の入った青色のリボンを掛けているのを待つ間、ふと、脇に置かれた小さなケースを覗き込むと、その中に、水ようかんやくず餅が並べられているのが目に留まった。
私は、とあることを思い出し、作業を続ける店員の後ろ姿に声を掛けた。
「すみません、あと、このあんみつと水ようかんを別に包んでもらえますか」
丁寧に店先まで見送りに出てくれた店員に会釈を残し、私は大荷物を抱えて駅のホームに向かった。
そこから下り電車で3駅の区間、いつもならドアの近くに立ったままやり過ごすけれど、今日は迷わず開いている座席に腰を掛けた。
ゼリー10個に和菓子の包みは、結構な重さがあったからだ。
ジェイドは乗り込んだドアのすぐ脇に寄り掛かるようにして、立ったまま目的の駅へと向かった。
次回、再会