典ちゃんとおじちゃんと私
沸々と沸き上がる怒りに背中を押され、『ふざけんな!』そう叫びそうになって、慌てて口元を手で塞いだ。
この部屋で喋ったことは全てあいつに筒抜けらしい。
これじゃあ見ているテレビも、ましてやお風呂やトイレに至るまで、私の生活の全てを監視されるってことぉ?
こうなったら、物音ひとつ立てずに至って静かに過ごしてやろうじゃないの!
それとも一晩中悪態を吐きまくってやろうか。
とにかく、これはもうさっさと新薬とやらを手に入れるほかない。
こんな風にいつまでも監視されているなんて、まっぴらゴメンだ!
お陰様で一段と決意が強まった。
とりあえず『静かに過ごす』という極めて賢明な選択した私は、それからお気に入りのピンク色の二人掛けソファに身体を横たえて、これからのことを考えていた……つもりだった。
それなのに、脳裏に浮かんでくるのはこれからのことなんかじゃなくて、今日一日の出来事ばかりだった。
今朝この部屋を出てから、まだ半日ほどしか経っていない。それなのに、私の人生は有り得ないほど大きく変貌を遂げていた。
もう、何も考えたくなかった。ホームのみんなの不安げな顔も、パパの笑顔も、ジェイドのポーカーフェイスの横顔も、何もかもが私の中で否定されて続けていた。
――駄目だ。
早くみんなを救い出さなくちゃいけないのに、こんなところで早くも挫けている場合じゃない。
居住まいを正し、気を取り直してもう一度、頭の中で今後の手順を探りはじめた。
今日、パパに典ちゃんのことを聞いておいて良かった。
パパが言った「とあるプロジェクト」とは、奴らが狙う新薬の開発だと思って、まず間違いないだろう。
そして、その責任者が典ちゃん。
典ちゃんはパパの古い友人、細川のおじちゃんの娘さんだ。
細川のおじちゃんとパパは学生時代からの親友だったそうで、彼はパパの会社の研究室棟の棟長も努めてくれていた。
親同士がそんな仲だから、当然、典ちゃんもよく我が家を訪れ、4歳年上の彼女を私は姉のように慕っていた。
パパの願いも虚しく教員を目指す私とは違って、典ちゃんは父親の背中を追って研究者になることを選んだ。
そうして典ちゃんがパパの会社に入社した翌年、細川のおじちゃんは亡くなった。
癌だった。
恰幅の良かったおじちゃんが痩せ細っていく姿は、約束された死がすぐそこにまで迫っているのを見せつけられているようで怖くて仕方がなかった私は、とうとう最後まで、あれほど自分を可愛がってくれていた彼のお見舞いに行くことができなかった。
そしてそれは、私の中で二人に対する大きな負い目となり、彼の葬儀以来、私から典ちゃんを訪ねることはただの一度もなかった。
パパは典ちゃんを本当の娘のように思っている。典ちゃんもそれに応えようと必死に勉強をして今の地位を築き上げていた。
パパはとても優しい人だけれど、仕事に妥協は持ち込まない。
典ちゃんが今、あの若さで研究室棟での一部門の室長を務めているのは、100パーセント彼女の実力以外の何ものでもなかった。
新薬プロジェクトの責任者ということは、当然、新薬は彼女の手元にあるに違いない。
それを手に入れるためには、まず彼女の研究室を訪ねる以外にないだろう。
……気が進まない。
あとを継ぐ気のない父親の会社を訪ね、彼氏を紹介しにくる苦労知らずの馬鹿な娘は、父親を亡くしてからも尚も努力を重ね、彼のあとを立派に引き継いでいる彼女の目には一体どう映るのだろう。
子供たちや先生たちはどうしているだろう。ちゃんと眠れているだろうか。
沢山のダークスーツに囲まれて、きっと彼らは私より何倍も怖い思いをしているに違いない。
一刻も早く開放してあげたいけれど、それにはやはり典ちゃんを訪ねるしかない。
判ってる。判っているけれど。
それを決心する勇気がどうしても湧き出てこなかった。
自分のプライドとホームのみんなを秤に掛ける自分がいる。そんな自らにまた吐き気がぶり返してきた。
大体、何故今更、自ら古傷を抉るようなことをしなくちゃならないのよ!
それもこれもみんなあいつ等のせいだ。
あいつ等がこんな計画さえ立てなければ、私がこんなことでこんなに思い悩むこともなかったんだ。
…………あれ?
本当に―― そうなんだろうか?
もう、何もかもが堂々巡りだった。
不意に浮かんだ疑問に対して、真剣に向き合おうとする自分は今や何処にもいなかった。
私は卑怯者だ。
パパにも、典ちゃんにも、細川のおじちゃんにも、ホームのみんなにも、そして自分自身にも背を向けたまま、ただ膝を抱えて俯いているだけの臆病者だった。
次回、典ちゃんを訪ねて研究室棟へ向かう