翡翠(jade)の指輪
やがて、館内に閉園を知らせるアナウンスが流れた。
出口は2カ所あったが、私は入ってきたときと同じ場所に設置された上りエスカレーターを使って表に出た。
まだ充分に明るいけれど、それでも先程よりはずっと夕刻を感じる。
夏休みとはいえ、さすがに閉園時間ともなると人影は疎らだった。
ジェイドは元々無口で大人しい性格なのか、それとも自らの職務を全うしているのか、ただ私のあとを黙って付いて歩くだけだった。
パパに会う前に少しはそれらしい雰囲気を作ってやろうと思った私の涙ぐましいまでの気遣いは、すっかり無駄に終わった。
日中の馬鹿みたいな暑さが和らいで、自然と足取りが緩くなっていた。
普段は滅多に味わえない海風を感じながらの公園散策を、私は心の底から堪能していた。
しかしそれは、これからはじまる一連の行動を前にした僅かな休息にほかならない。
駅へ出る橋を渡り終えたところで、私は彼を振り返った。
「ねえ、あなたのボスに連絡を入れてくれない? みんなの様子を聞いて欲しいの」
すると彼は、それに返事もしないまま胸ポケットからダークスーツとお揃いの黒い携帯電話を取り出すと、ボタンを2つ押しただけで電話を目的の相手に繋げた。
ジェイドはこちらの様子を「特に変わったことはない」と報告したあとで、私が皆の様子を気にしていると伝えると、最後に「了解」と言う短い言葉で電話を切った。
「皆、元気にしているようです。食堂で食事の最中だと言っていました」
食事中と聞いて、私はホッと胸を撫で下ろした。いつもと変わらぬ時間に食事をしているのだから、奴らはちゃんと約束を守ってくれているのだろう。
私もそろそろ気合いを入れていくとしよう。
目を閉じて、最後の海風を大きく肺一杯に吸い込んだ。
駅の構内へと入る上りエスカレーターの前で、不意にジェイドの携帯電話が鳴りだした。
彼と同時に、私もその場で足を止めた。
通行人の邪魔にならぬよう一旦エスカレーターから離れた彼を待つ間、ふと、噴水脇にある露天商に目が留まった。
さっきこの場所に降り立ったときにはまだなかった光景だ。
振り返ると、ジェイドは口元に手を添えてまだ何やら話を続けていた。
逃げるには絶好のチャンス到来なのだろうが、みんなが人質に捕られている以上はそれも叶わず、仕方なく私は、間を持たせるべくその露天商に歩み寄った。
プレート型のペンダントに名前を入れる店らしい。コルクボードにサンプルが幾つか掛けられていて、高校生くらいの女の子たちが、それらを代わる代わる手に取り、何やら楽しそうに話をしていた。
大方、彼の名前を入れてもらおうか、などと話し合っているに違いない。
そんな彼女たちを遠巻きにして、見るともなしに台の隅を覗き込むと、『天然石』と書かれたポップの前に、綺麗な石の着いた色とりどりのアクセサリーが所狭しと並べられていた。
その中に、ふと惹かれる文字を見掛けた気がして、私はもう一度、今度は注意深く台の上に視線を滑らせた。
するとその中の一つ、ビーズのような小さな石を繋ぎ合わせて作った薄緑色の指輪が目に留まった。
プライスカードに書かれていたのは、『翡翠(Jade:ジェイド)』という文字だった。
『身に付ける人を害から守り、幸運を呼び寄せる石』との説明書きも添えられていた。
小さな携帯用の椅子を広げ、冷やかしには馴れっこだという風に膝の上で雑誌を広げているモジャモジャ頭のお兄さんに、私は声を掛けた。
「お兄さん、これ、頂戴」
すると、彼は急に愛想良く立ち上がった。
それが高いのか安いのか判らないけれど、言われるままに3800円を支払って受け取った少し大きめの指輪を、私は左手の中指に通した。
「害から守り、ねぇ」
どちらかというと害そのものだと思うけど。
苦笑いを残して振り向くと、電話を終えたジェイドが、さっきと同じ場所に立ったまま、私の買い物が終わるのを待っていた。
「ありがとうね」そう言うモジャモジャお兄さんに笑顔で手を振って、足早にエスカレーターの前へ戻った私は、ジェイドの前で左手を大きく広げて見せた。
ポーカーフェイスの彼の表情に、一瞬、それまでとは違う表情が浮かんだ。
「あなたを人質にした気分よ♪」
次回、食事会でパパ、jadeを気に入る?