研究室棟への道筋と現状把握へ
重苦しい沈黙の中、手付かずのアイスコーヒーのグラスの縁から水滴が一つ滑り落ちた。
尚も並んでソファに腰掛けたまま、私は横目でジェイドを見上げた。
「……あなた、何者?」
すると彼は、顔色を変えることも訝ることもなく、至って淡々と私の質問に答えた。
「さっき、君の父上に言った通りです」
「じゃ、あれは本当なの?」
「ええ」
「ええ……って、なんで西田コーポレーションの秘書のあなたがテロリスト紛いなことをしているのよ?」
すると彼は、ほんの数秒押し黙り、やがて「西田コーポレーションが、何故あれだけ海外でも巾を広げているか、君には判りますか?」と訊いた。
何故って言われても、そんなこと私に判るはずがない。
答えに困って黙っていると、彼はまたもや、とんでもない言葉を口にした。
「表と裏の顔を持つからです。どちらかといえば、海外に関しては裏の顔の方が利益を上げている。そういうことです」
そういうことです、って、あんた……。
「あなたたちの素性をそんなに簡単にバラしちゃって良い訳?」
「遅かれ早かれ、薬がこちらの手に渡ったあとにその行方を追っていけば、君はそう時間を掛けずに西田コーポレーションに辿り着くはずです。問題はない」
「ことが済んだあとで私が警察に喋ったら、あなたたち、全員すぐに捕まっちゃうじゃない」
「それはない」
「何故そう言い切れるのよ?」
「成実樹ホームの人たちは、永遠に君のストッパーになる」
成るほど。
つまりこの状態は今回この一件だけに留まらず、一生モンって訳ね。
怒りが沸々と沸き上がってきた。
なんて奴らだ。そんな先のことまで全て計算済みって訳か。
とことん気にくわない。人の人生を一体何だと思ってるんだろう。
結局、アイスコーヒーには手も付けず、私は社長室をあとにした。
エレベーターで一階に下りるまでの間、私は棘のある雰囲気を醸し出すのに必死だった。
ロビーに降り立つと、エレベーター脇に社内の案内図が掲げられているのが目に留まった。
1階から5階までのそれぞれの階の見取り図が1枚に書かれた案内板は、私の胸の辺りからエレベーターの扉の高さほどの大きさがある。
それにも関わらず、さっきはその存在に全く気が付かなかったということは、この人を連れてパパに会うのに、私はそれほどまでに緊張していたということだろうか。
それはともかくとして、今立つこの位置を現在地として、目当ての研究室棟は右手奥の別館に構えていた。
危うく本題を忘れるところだった。
今、肝心なのは、彼の素性や案内板の大きさなんかじゃない。
新薬とやらにに辿り着くことだ。
それが成功すれば、その渡り先がテロリストだろうが大手貿易会社だろうが、もはや私には関係ない。
幸い、もう一度ゆっくりパパと話しができる機会も作れたことだし、詳しい探りはそこで入れるとしても、後々のことを考えたらちょっと社内を見学しておくのも必要かも知れない。
私は、再び受付に立ち寄った。
「さっきはありがとう」
そう声を掛けると、受付嬢の二人は、直ぐさま立ち上がってお辞儀を寄越した。
「せっかくだから、ちょっと社内を見てみたいんだけど、勝手に歩き回っても大丈夫かしら?」
すると、先ほど社長室まで案内してくれた小野さんが、
「それは大丈夫ですが、よろしかったらご案内いたしますが」と言ってくれたので、ここはお言葉に甘えることにした。
何せ社内のことは全く判らない。
それに、彼女に部屋やセキュリティのことを詳しく聞き出せるかも知れない。
願ってもみないチャンスだ。
建物の1階部分は、広いこのロビーと受付の他には、トイレと小さな喫茶室が設けられているだけだった。研究室棟へは1階からは入れない仕組みになっている。
私たちの興味が研究室棟にあるなんて知る由もない小野さんは、続いて営業部や販売促進部が連なる2階のフロアを、次に大小数々の会議室が連なる3階のフロアを案内してくれた。
4階は社員食堂とロッカー室、それに喫煙室となっていたが、昼時をとうに過ぎた今、そこでくつろぐ人の姿は見受けられなかった。
製薬工場は敷地内の別の場所に設けられていた。小野さんは「工場もごらんになりますか?」と言ってくれたけれど、そこはやんわりと断った。
私の目的はあくまで研究室棟だ。
「そこはまた今度にします。それより、さっき下の案内板で見たんですけど、研究室棟って何をしているところなんですか?」
すると彼女は「研究室棟ですね」そう言って、エレベーターを2階に着けた。
彼女に続いてエレベーターを降り、左手に進んでゆくと、本館とそこは、大きな窓が設置された白い渡り廊下でのみ繋がれていた。
「研究室棟へは2階にあるこの渡り廊下からしか行くことができません。研究室棟では日々、今作られている既存の薬の更なる効用の向上や、新薬の研究などが行われています」
彼女がそう言い終えたところで、渡り廊下の終着地点に到着した。
ガラス張りの自動ドアが1枚と、その少し先に、それよりももっと厳重な感のあるフレーム付きの大きなガラスドアが見えていた。
小野さんは最初の自動ドアを潜ると、右脇に設けられた小さな部屋に向かって会釈をした。
そこは銀行の窓口のような造りになっていて、受付と書かれた表札が掲げられている。
研究室棟専用の受付があるということは、同じ社内でもここからは扱いが変わるということなのだろう。
2枚目のフレーム付きの大きなガラスドアの前で、小野さんは足を止めた。
「すみません、本来ならご案内したかったのですが、この先は今ちょっと立て込んでいて、しばらくの間はこの研究室棟の従業員以外の立ち入りが制限されているんです。お嬢さんなら別段問題はないと思いますが、ちょっと受付で確認して参りますので、お待ちいただけますか?」
そう言う小野さんに、私は被りを振った。
「いえ、ここまでで構いません。私たちもそろそろ戻らなくちゃいけないので、今日はこの辺で。お忙しいのに有り難うございました」
充分だった。
本来入れる場所が、今は従業員ですら立ち入りが制限されている。それが判っただけで大きな収穫だ。
もうひとつだけ確認をして、今日は帰ることにしよう。
「立ち入り制限があるということは、研究室棟の受付の方は、そこの全ての方たちのお顔を認識していらっしゃるんですか?」
私の言葉に意図があるとは思いも寄らないだろう小野さんは、
「ある程度はそうですが、研究室棟はその性質上、セキュリティシステムが充実しています。先程の入り口こそ受付での開閉操作や職員のパスカードに内蔵されているICチップを読みとらせることで開きますが、中にあるそれぞれの研究室へ入るためには、様々な本人認証が施されていて、登録されている人しかドアを開閉することができない仕組みになっているんです」
そう丁寧に説明してくれた。
凄いんですね。そう言って、私は彼女にもう一度礼の言葉を述べてそこをあとにした。
建物の外は、相変わらず茹だるような暑さだった。時計を見ると針は4時少し前を示していた。
パパとの約束の時間までは、まだ3時間近くある。ここから約束の店までは1時間はかからない。
空き時間は2時間か。
一旦マンションに戻ってシャワーを浴びて着替えをするくらいの時間はあるけれど、こんなのが居てはそれも面倒だ。
かといって、パパと食事をする前に何処かの店で時間を潰す訳にもいかない。
あれこれ考えを廻らせているうちに、ふと、良いことを思い付いた。
「ねえ、デートしましょ」振り返り様そう声を掛けると、彼は少しだけ目を見開いた。
私は彼の答えを待たなかった。
「これから私たち、恋人同士としてパパに会うんだから、少しは打ち解けておいた方が良いと思うわ。こんなところで不審がられでもしたら、やりにくいでしょ? 時間も潰せるし、一石二鳥だわ」
次回、恋人らしい雰囲気作りのための水族館デート