「卑怯者・毒・子守唄」
「それでこの前女房がーー」
僕の前で欠片の興味も湧かない話を延々と続けるこの男は世間一般で見ればとても優秀で所謂”出世頭”というやつらしい。
確かに普段のこいつはとても優秀で、何というか人の懐に潜り込むのが上手いような印象を受けるような奴だ。
それでいて多趣味で様々な物に精通しているからこいつの周りに人は絶えない。
最も、酒が入った今では見る影もないが。
「そしたらなんと、すぐにすやすや寝息をたて始めたもんだから俺も女房もびっくりしてーー」
何でも息子が産まれたそうで、最近益々仕事に精を出している様子だ。
奥さんも美人で本当に順風満帆な人生を送っているみたいで羨ましい限りだ。
生憎と自分には縁遠い話だから尚更そう思う。
泣いてない、ちょっと四川麻婆が辛かっただけだ。
「って俺の話、聞いてるか〜?」
「聞いてるよ、お前が馬鹿だって話だろ。」
「ちげえよ、お前もそろそろ良い歳だし、身を固める事を考えても良いんじゃないかって話だよ。」
「余計なお世話だ。」
「いや聞けよ、お前は自分を何も無いなんて言うけどさ、仕事は真面目できっちりこなすし、さりげない気遣いを忘れないし、あとあれだ、お前は人の目をちゃんと見て話を聞いてくれるんだよ。」
「そんなのみんなそうだろ。」
話が盛り上がれば自然と酒を飲むペースも箸が進む速度も上がる。
でもこいつの場合はちょっと飲み過ぎだな。
仕方ない、奥さんには一緒に怒られてやるか。
やはりというか案の定というか、こいつはベロベロに酔っ払ってまともに歩くことさえ出来てない。というか意識を保つ事すら出来ていないんじゃないか?
「ああもう、もうすぐお前んち着くんだからしっかり歩けって。」
ふらふらのこいつを引きずりながらやっと家に着いたからインターホンを押す。するとすぐに返事が返ってきた。
『はい』
「すいません、旦那さんをお連れしました。」
『わかりました、すぐ開けますね。』
言葉通りすぐに開いたドアから見えた顔は僕もよく知る顔だった。
「わざわざ家まで主人を運んで下さって、ありがとうございます。」
言いながら微笑む彼女の姿はとても艶やかで、酔った頭では少し目に毒だった。
「いえ、僕も少し飲ませ過ぎちゃいましたから。一人じゃ大変ですよね、寝室まで運ぶの手伝いますよ。」
「ありがとうございます、そうしてもらえると助かります。」
そうして僕は二人の、今は三人の住む家に足を踏み入れた。
*****
きっかけは単純な事だったと思う。
彼女の落とした荷物を拾って渡した。それだけ。
それから社内ですれ違う度に彼女の方から会釈してくれるようになった。
そりゃ当然美人に会釈されれば浮かれもする。
そのうち自然と話すようになって会社の外でも会うようになった。
なんかの勧誘とかかと最初は疑ったけれど彼女は純粋に僕との時間を楽しんでいてくれてるようだった。
多分、いや間違いなく、僕は彼女に惚れてたんだ。
でも、あと一歩が踏み出せなかった。
あいつはものすごく良い奴なんだ。だからあの日泣いていたのが彼女じゃなくてもきっと声をかけていたと思う。
たまたま泣いてたのが彼女で、たまたまそれを見た僕がお似合いだって、身を引こうって思っちゃったってだけで。
それから彼女の事を避けるようになった。
少し寂しそうな顔をしているのを見ると胸が痛んだ。
でも、その分あいつとの距離はどんどん縮んでいるように見えた。
「これでいい、これでいいんだ。」
卑怯者の僕は、そうやって逃げ続けて誰にも気付かれないように呟く事しかできなかった。
だから、
「俺結婚する事になったわ。」
こうなるのは当然だったんだ。大丈夫、苦しくなんてない。潔く二人を祝福するって決めただろ。
「そうか、良かったじゃん。幸せにしてやれよ。」
「おい、俺の幸せはどうでもいいのかよ。」
「うるせ、どうせお前今すでに幸せなんだろ?」
「まあな」
やっぱり何処までいっても僕は、卑怯者だった。
*****
「ねえ、少し話していかない?」
旦那を寝室に運んだ彼女はそう僕に話しかけてきた。
断ってすぐにでも帰るべきだ、今更どの面下げて彼女と話すっていうんだ、そう頭ではわかっている。
けれど、僕は酔っている事を免罪符に了承してしまった。
「水でいい?それともお酒の方が良かった?」
「水で大丈夫です。」
キッチンのソファに腰を下ろす。すぐそばにあるベビーベッドが目に映る。
少し離れて彼女が横に座る。
近いのにとても遠い、この距離は一生縮まる事は無い。
「私ね、君のこと良いなって思ってたんだよ。ちょっと奥手だけど気遣いを忘れないし、こっちの目を見て話を聞いてくれるから真剣に聞いてくれてるってわかるしさ。」
夫婦揃って同じようなところを褒めてくれるんだな。
「ねえ、何で急に私のこと避けるようになったの?」
「相応しく無いと思ったからです。」
言葉はすぐに出てきた。
実際誰がどう見てもそう思うだろうし間違ってないはずだ。
でも、彼女だけはそう思ってないみたいだった。
「何でそうやって自分一人で決めつけて壁を作っちゃうの?私はそんなこと思って無かった。私は君といて楽しかった。君に無視された時私すっごく悲しかったんだよ?何か悪いことしちゃったかなって。」
涙ぐみながらも熱のこもってきた言葉に僕は口をつぐむ。反論なんて、できる訳がなかった。
肩で息をする彼女と、僕の間に静寂が流れる。
「おぎゃ〜!おんぎゃ〜!」
そんな静寂を破ったのは赤ん坊の声だった。
すぐさま我が子を抱え、あやしながら彼女は続ける。
「何回か君に無視された時に、もう無理なんだなって思って諦めようとしたら今の旦那に声掛けられて、前にも私が泣いてた時に慰めてくれた事があったからさ、また泣きそうになってたから心配になったって。」
全部知ってる。
見てただけだけど、ちゃんと知ってる。
「多分だけどさ、君もそんなに私のこと嫌じゃなかったんじゃない?でもさ、君が私のこと避け続けるからさ、私、他の人の女になっちゃったよ?」
まさにその証を抱きかかえながら寂しげな表情で告げられたその言葉は何処までも残酷で、でも、僕の心のもやは晴れ渡って。きっと今なら言えるだろう。
「ご結婚、おめでとうございます。幸せになってください。」
ぎこちないかもしれないけど精一杯の笑顔で。
少し驚いたような顔をして、そのあと彼女も笑って言った。
「ありがとう。」
帰り際、玄関で靴を履いている時にお見送りに来てくれた彼女は、
「また遊びに来て下さい。主人にお誘いするよう言っておきますから。今度は素面でお願いしますね。」
そう笑顔で告げる彼女はやっぱり綺麗で、でも何処までも母親の顔をしていて。
少し肌寒くなってきた夜風に吹かれて子守唄が聞こえてくる。
あの赤子は今頃寝息を立てているのだろう。
今夜は僕も、ぐっすりと眠れそうだ。
〜fin~