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3(殺人事件事件)

                  3(殺人事件事件)

「そんなんあったっけ?」


 生きることと、死ぬことと、眠ること、オナニーをすること、誰もができることについて、その四つの次辺りに来るのが、殺すことだとわたしは思う。人を殺すことは大変簡単なことだ。この世界にあるもののほとんどは人体よりも固いのだから。


 殺人事件があった――といっても、わたしがしたいのはその話ではないのだけど、ともかく。殺人事件があった。二年生になって初めの頃だった。わたしは二〇だった。わたしは麓の校舎から山の上の学生寮の間に住んでいた。


 殺人事件というのだから、もちろん人が死んだのだ――死んだのは、魚屋の店主で、わたしの知り合いではなかった。名も知れぬ殺人者は鉄製の中華箸で魚屋の目玉を刺して、目下逃走中だ。この件に際して、ミス研と推理小説同好会が合同捜査に乗り出したのは、誰も知らないことだった。わたしも知らなかった。


 だからだって、はじめに書いた通り、わたしは別に、この事件に大した関心を払っていないのだ。ただ結果としてわたしがあの事件に思い至ったのは、この殺人がきっかけだった。そういう意味では重要だったかもしれない。わたしたちはテラスでその話をしていたのだ。魚屋が殺されたことに関して、次は誰だろうとか、そもそも次はあるのかとか、なぜこんなことをするのかとか、真面目に見えがちな与太話をしつつ、殺人者が野放しになっていることも含め、人の死という一大イベントを、わたしたちは恐怖入り混じりながらも楽しんでいた。


 話しているうちに、わたしは殺人事件を思い出した。殺人事件というのは、つまり殺人事件のことだが、魚屋のことじゃなく、もう七か月も前になること事件の話で、七か月前にも人が殺されたのだ。あのときの凶器は牛刀だった。死んだのは違う大学の生徒で、顔の皮をはがされて殺された。嫌な殺し方だったし、嫌な死に方だった。わたしは死亡記事を見て気分が悪くなったことを確かに憶えていた。


 けれどもいざその話をしてみると、誰もそんな事件を覚えていなかった。むしろほんとにそんな事件あったのかという態度をとられる。「ホラー映画の見過ぎだ」とか「どうかしてる」「不謹慎だ」とか、そんな言葉を投げられ、意地になったわたしはその場で携帯で事件を検索してみるけれど、なかなかでてこない。そのうちにみんな別の話題に移って行って、取り残されたのはわたしだけ。やはり意地になってわたしは、図書館で事件記事を探した。


「デジャヴみたいなもんかもしれない。どうやって消せばいいのかも、どうやって判断すればいいのかもわからない。ただ感覚が残っているのだ」


「殺人が殺人行為を目的としていることは、ほとんどない。たとえ残虐な連続殺人犯の仕業であろうと、殺人以外の目的があるのが普通だ。例えば、誰かを犯したい。とかね」


 顔がないこと、アイデンティティの欠如、無貌という名の仮面は誰にだって被ることができる最強の人格だ。その意味で、顔をはぐという行いは、誰かのアイデンティティを奪うこと、死体をただの肉塊とし、死体ではなくすこと、透明にしてしまうこと――これによって、死が永遠になることを望みながら――わたしは包丁をふるった。いや、それはわたしではない。わたし以外のすべて以外のものだけが、行方不明の犯人に成りえるのだから。それは、わたしでは、ない。


 ずっと探してみたのだが、けっきょくなにも見つからなかった。


 新聞記事はなかったし、わたし以外にその事件を知っている人間はいなかった。


 母親にも訊いたが、答えは同じだった。そんな事件はない。心理学科の友人によると、わたしのそれは、脳の誤作動によって起きたことなのだという。映画や、猟奇的な犯行の断片、そして実在の殺人事件、様々な物事が様々な要因によって絡まり合い、複雑なストーリィをつくってわたしの中にいるというのだ。さて、これをどう否定すればいい? 

 

 彼女の説明は非常に理路整然としていたから、とても筋の通っていることのように思えた。じっさい、そうだと思っていたことがそうでなかったことなど腐るほどあるし、具体的なイメージがなくても、脳の神秘性は、外側に影響を及ぼさない限り、およそ万能と言える効果を持つものだ。わたしも理論の上では納得がいった。脳の誤作動。その否定しづらい真実性を含んだ説は、身を捧げればきっと受け入れてくれるだろう。でもそれは否定できなければだ。わたしは不可知論者。なにかを否定する必要はない。


「このなまなましい感覚が偽物であるはずなどない」


 超経験的な判断と主義にもとづいてわたしは、どちらの考えも否定することはなかった。


「ぜったいにあったはずなんだ」


 わたしの記憶によればそれは、タバコ屋の角のアパートで起きた。殺人者は階段を昇って一番奥の部屋に入り込み、寝込みを襲って被害者の首を五回刺した。うち二階は頸動脈をまともに断ち切り、彼はほとんど目覚めることなく天に召された。(比喩表現だ。他意はない)殺人の目的は色々あるが、彼が一体何を考えていたかはわからない。被害者は、そこそこの恨みを買うそこそこのチンピラだったが、それが原因だっただろうか、それともほかの理由か、怨恨でないとすれば、第三者が推理するのはほとんど無駄なことだが、殺人者は、彼を殺しただけでは飽き足らず、首に出来た皮膚に沿って包丁を刺しこみ、耳の上を通って生え際まで切り裂いた。そして後頭部の側に立つと、両の手で皮膚をもってべりべりとはがした。そこで彼は二つ目の死を迎えたというわけだ。


 殺人者はその後、被害者の部屋で映画の『スクール・オブ・ロック』を見て、冷蔵庫のかき氷を食べ、トイレに排泄して帰って行った。


 にもかかわらず殺人者が見つからなかったということは、よほど容疑者がいなかったのかもしれない。凄惨な事件にも関わらずほとんど報道されることもなく、少しあとに捜査協力の要請が新聞記事に載せられて以来、音沙汰なしだ。当然、わたしの記憶もここまで。


 思い返しただけで身震いする。あの死体。あの殺し方。これに比べれば中華箸で目を刺して殺したのなんて猟奇的のうちに入らないだろう。


 わたしは事件のあったアパートまで行ってみる。さすがにあの辺りで聞けば少しは覚えている人もいるだろうという考えだった。最寄りから二駅移動して、駅裏の入り組んだ住宅街の端々にアパートがある。

「この辺りで殺人事件ってありました?」「殺人事件? そんなんあったっけ?」「この辺りっていうかあっちのほうでなんかあったとは聞いたけどね」「いや全然聞かないけどなあ」


「お前さあ、そんなん聞いてどうするんだよ。殺人なんてそりゃどこでだって起きてるよ。でもそんなの話すことないだろ。気分悪いし、俺たちみんな殺人者になるかもしれないんだなって思うとマジでヤな気分になるよ」


 殺人をする理由なんてものは誰にもわからない。みんな内なる殺意に突き動かされるだけだし、殺意なんてものが在るかどうかは判断のしようがない。怨恨、痴情のもつれ、快楽、事故、書類や会話のうえにあがる“動機”は厳密にいえば殺人する理由ではないのだ。唯一わかることは、殺人が破滅的だってことだけ。


 経験的にね。


 ベガスでマリファナを吸ったときにも似たようなことを思ったもの。なにかが乗り移ってくるの。なにかがわたしの頭を支配するの。なにかがわたしに人を殺させるの。そのなにかのことを、あなたたちは殺意と呼ぶんでしょう。


 ぐるりと三回転して、足を空中、頭を地面にする。わたしたちの頭の中は真っ白になる。わたしはもうどうしていいのかわからずに、血の付いた牛刀を洗う。


「図書館に行って新聞記事を探したんだけど、なかった。でもいくつか新聞は抜けがあったから、もしかしたらそこに載ってたかもしれない。ほんとにそう思ってる? さあね。でも、我々不可知論者的には、そう言うべきなんだよ。つまり自分の考えじゃないということ? 不可知論者である誰かの考え? わたしは不可知論者だから、わたしの考えだよ。わたしがそう考えているんだ。じゃあ殺人事件はあったとまだ思ってる?」


「まだってなによ」「いやだって、こっちはあると思ってないわけだからね。そういう質問になるでしょそりゃ」


 ううん、とわたしは考える。


「そう感じてる。あんなに生々しい記憶が本物じゃないだなんて、信じられないから。脳の誤動作って話は? そういう感じじゃないんだよね。脳の誤動作ってさ、なんとなくわかるじゃん。わからない? なんだかさ、記憶違いしてることって、そうなんだって頭の中で考えてるのに、なんでか飲み込めない自分を想ってるんだよ。だからそういうんじゃないの」


「まあ、好きにすりゃいいと思うけどね……」


 わたしはそれからも辛抱づよく事件を探した。いろんな町の図書館に出かけて新聞を漁り、インターネット上で古い記事を違法ダウンロードした。限界があることはわかっていた。わたしは二年の頃に単位をたくさん落としたので、普通の三年生よりも講義を多めにとっている。その一つも落とせない。わたしは試験週間を友人たちのサポートで乗り切った。そして案の定、殺人事件に構える時間は少なくなった。

「あんたさあ、殺人事件追っかけるのもいいけど、自分のことも考えなよね。そりゃあ殺人ってすげえ重大なことだけど、もう死んでんだから。殺されたやつ。あんたが殺人事件解いたって復活とかしないんだからな。なんのためになにやってるのか見失うなよな」


 不可知論的にわたしは考えてみる。頭の中でじっと。


 殺人者はどうして顔の皮をはいだ? アイデンティティを失うとはどういうことだ? 殺人者はなぜ人を殺した? この三つを=でつなぐ。


 皮をはぐ理由=人を殺した理由=アイデンティティの喪失。これをできるだけ自然に、入れ替えていく。皮をはぐ理由=人を殺した理由=アイデンティティを殺す理由。皮をはぐということ=人を殺すということ=人を無辜にするということ。


 ここで皮をはぐと人を殺すが=で括れないとわかる。皮をはぐこととアイデンティティを殺すことは同じことだが、人を殺すこと、というのは肉体的な意味合いだからだ。


 ■×●=人を殺した理由。ではない。


 答えはすべて揃っている。これが現実世界で起きたのならば、答えはすべて揃ってるはずなんだ。どれが事実なのかわからないというだけで。


 そこでわたしはふっと思い出した。わたしはいつか、皮をはがされることを、透明になることと表現したのだ。この表現はただわたしの頭から漏れ出た、ただの連想だが、もしかするとそういう意味なのでは? 


 そうだ。きっとそうだ。殺人者はきっと死体を透明にしたかったのだ。透明になれば死体は見つからない。触れることができても、見ることができないのであれば、けっきょく殺人事件として捜査するのは難しい。


 ここまでくると、次の展開はぽんぽんと浮かんだ。


(彼は殺人自体が目的だったんだ。殺人がしたくてしたくてたまらなかったんだ。でも人を殺せば捕まってしまうから、どうすれば捕まらないですむのか考えたんだ! 死体の顔をはがして、とても安心したに違いない。部屋でのんびりくつろいだあと、悠々自適に殺人者は部屋を出て行った。きっと次は誰を殺そうとか考えただろう。きっと次の犠牲者の品定めをしたことだろう。でもしばらくして新聞を見てびっくり、自分の行いが殺人として報道されているではないか! 彼は仰天して床に落ちていたコンパスを踏んづけ、首を椅子にぶつけて死んだ。あ、もちろんここは妄想だけれどね)


 わたしはとてもすっきりした気分になった。ずっとわたしの考えを待っていた友人は、わたしのえくぼに手を伸ばした。


「なに笑ってんのよ。気持ち悪いやっちゃなあ」


 わたしは内側から湧き出る笑みをこらえることができず、鼻頭を手で押さえた。


「いいっこなしよ。そういうのは」



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