1(アグノスティックのA)
1(アグノスティックのA)
AはアンサーのA。AはアルバニアのA。AはエースのAで、多様性のA。AはアグノスティックのA。
つまり、不可知論者のA。
それがわたしにとってのA。
Aというのは始まりの文字だ。五十音における『あ』、アルファベットの『A』。この二つはとても奇妙なことに、ほとんど同じ発音で、どちらも言語のはじまりの文字にあたる。どうしてこんな偶然が有り得るだろうか?
そういうものに対するアンサー、つまり、ようするに、いくつもの遠回りと、わたしの主義に基づいて、不可知論とはいったいなんぞや、という、とてもいい質問に対して、わたしはこう返す。
『不可知論とは、不可知論だ。』
覚えておいてほしい。わたしたち不可知論者にとって、唯一絶対の真実はトートロジーのこと。繰り返しのこと。リンゴはリンゴ、鎧は鎧、腕は腕、生活歴(almanac)は生活歴。わたしはわたし。わたしは不可知論者。
え? それじゃ説明になっていないって?
そうだね。まず不可知論がいったいどう言われているかを説明しなくちゃいけない。
不可知論者について――ある辞書はこう主張してる。「経験を信じ、超経験的なものごとを拒否する者。物事の本質はあるかもしれないが、わたしたちに見えるものではない、という立場」これが正しいのかどうか。さあ。それはすごく、すごく重要なことだけれど、わたしたちの判断できるものではなく、超経験的ななにかだ。なぜならものの定義や言葉は話者から離れた瞬間、孤独な記号の羅列へと変わってしまうし、それをわたしたちがどう使おうと、その正しさを保証してくれるものはいないのだから。
でもそれっていうのは少しおかしい。つまり、不可知論者という言葉と、意味と、実践のあいだに根本的なエラーが存在している。
だって経験を経験することを経験だと判断するのは、超経験的な事柄のはずだ。わたしたちの経験には本質が見える形で存在していないのだから、どんな判断も裏付けのないただの妄想に過ぎないということになってしまう。
わたしはこういうことを、聞いた瞬間から思いついた。教養の授業で専任講師がトマス・ヘンリー・ハクスリーの生涯について話したそのときから。もちろんそれはただのありふれたパラドクスに過ぎない。認識より下にある超経験的な世界を仮定して、わたしたちをただの脳たりんと呼ぶようなことと同じことで、俗にいう考える無駄、ということだ。
「わたしたちの有限な命を、不義なる神に使う義理はない」
と、専任講師は言った。
不可知論者はもちろん時間を議論に使わない。時間は不可知だからだが、流れとしてそれが在ることを否定も拒否もできない以上、わたしが高校を卒業して、いろいろな価値観に触れて、右も左もわからなくなっていたのは、恐らくほんとうのことだ。
わたしは講師が教えたところの不可知論が、あの状況に対する答えとして、かっちり心理的にはまったのを感じた。
わたしは以下の公式を考え出した。
わたし=不可知論者は、一見するとただの無根拠な事実だが、実のところそれは違う。これはトートロジーだ。知っての通り不可知論者は不可知論者である。そしてわたし=不可知論者を正しいと仮定した場合、それを裏付けするものは、不可知論者がわたしであるという場合だけだ。つまり不可知論者がわたしであるならば、わたしは不可知論者なのである。
そういうわけでわたしは不可知論者をやっている。