[31]NANAKAちゃん、アイドルデビュー!?(歌ったり踊ったりって……)
「――地表相対速度、秒速178メートル。高度7900メートル。傾斜角4.4度。軌道要素に有意な誤差無し」
「INS異常無し、通信系良し、作動系良し、姿勢制御系良し。チェックシーケンスU021完了、オールグリーン。月面降下フェーズ021に移行します」
この日の七夏と梨乃は宇宙センターにあるシミュレータで、月着陸船の操縦訓練を受けていた。
実際の運用では、月着陸船のコントロールはほぼ自動化されており、彼女達が操縦と言えるような作業をする必要はほぼ無かった。基本的には、要所要所でチェックポイントを読み上げ、正常に運行しているか確認するだけ。彼女達に要求される本来の役割はそれだけだった。だからこそ、かなり緩い選別過程を経ただけの、素人同然のエンジニアが宇宙飛行士として月へ送り出すことが可能になった。
だが、JAXAの宇宙飛行士と共に乗り込む月往還船とは違い、月着陸船ではこの二人だけ。この間は運行に関する全責任を受け持つ必要があった。このためほぼ連日、あれこれと条件を変えながら訓練が繰り返されている。
この日は七夏が船長役、梨乃が副長役という分担で、月面降下の手順をなぞっていた。突然、月着陸船の内部を模ったシミュレータ設備にアラームが鳴り響く。
「異常振動検知。ダイアグノーシス・チェック開始――。レポート。三番スラスターのオペレート・バルブ・フォータル。非常用シーケンス発動。RP13系統シャットバルブ作動。バックアップ系RS13に切り替えます」
「復唱。Rプライマリ13系統シャットバルブ作動。Rセカンダリ13系統に切り替え。確認しました」
非常時の手順が記されたマニュアルに書かれた通りの対処を受けて、アラームが鳴りやむ。しかし二人とも緊張は解かない。間を置かず、再びアラームが不吉な調べを響かせる。
「RS13系統流量異常値。代替回路接続準備。――あ、Z軸角速度が設定値を逸脱しました。代替回路への切り替えを要請。船長、ジャイロ読み上げ願います」
「はい。ジャイロから角速度異常値を確認。逸脱量はZ軸+0.3です。代替回路への切り替えを許可します。副長、月面着陸予定時刻は」
「312秒後です。着陸決断猶予まであと212秒」
「了解。降下シーケンス継続します――」
七夏がそう言った瞬間、コクピットを取り囲むディスプレイの内、いくつかがプツリと消える。あちこちで真っ赤な警告灯が光り、いくつものアラーム音が不協和音よろしく不快なアンサンブルを奏で始めた。操作パネルに手を伸ばした梨乃が手を動かしながら、てきぱきと言葉を発した。
「報告。運行系、支援系システム、ブラックアウト。復旧作業入ります――」
梨乃はそう報告すると、この状況が、さっきバックアップ系に切り替えたことが引き金になり、自動運行システムに致命的なエラーが発生した設定なのだと、頭の片隅で考えた。復旧作業に手一杯な彼女は七夏に言った。
「オートパイロット・ダウン。船長、コントロール移します」
「アイ・ハブ」
七夏はスティックを握ると操縦を受け取ったことを宣言し、着陸を断念する決断を下した。
「降下シーケンス中断。手動に切り替え。離脱マニューバに入ります」
シミュレータ上での月着陸船はゆっくりとスピンを始めていたが、七夏は機体の姿勢を立て直すべく、スティックを小刻みに操作する。機体姿勢やスピンの状態を示すモニタの数値が正しくなったのを確認して、メインエンジンの出力制御用スロットルを一気に引き上げた。この時、月着陸船の高度は僅か3000メートルを切っていた。
「――ごくろうさま」
「うん、ごくろうさま。いやあ、疲れるね」
訓練を終えた七夏は梨乃からタオルを受け取ると、額の汗をぬぐった。
「それにしてもご丁寧に冗長系全滅の上、オートパイロットまでダウンだなんて、酷いテストケースを用意するのね」
梨乃は宇宙服のジョイントを外しながら背中の七夏に声をかけた。動き難さを含め本番にできるだけ近づけて訓練するため、二人は訓練用の疑似宇宙服を付けている。通気性の悪い装備を身につけているせいで、二人とも汗でびっしょりだった。梨乃の顔も、髪の毛がしっとりと汗で額に張り付いている。
七夏は梨乃の宇宙服を脱がせながら答えた。
「うん、まだ心臓がドキドキしている。万が一にでも、あんなことが起きる可能性があるなんて想像するだけで気が狂いそう」
「あら、そう言う割に今の対処は完璧だったじゃない。七夏の操縦は筋がいいって、みんな言ってるわよ」
「あはは……照れるな」
育成チーム側は様々なインシデントを用意していた。あの手この手で訓練生を翻弄し、中には根本的に対処不可能な条件もあった。かと言って、それは決して理不尽な理由によるものでは無い。この訓練の意義は、マニュアルに従った対応手順をパターン化して頭に叩き込む以外にもあるからだ。
想定外が起こる度、訓練生は試行錯誤を繰り返す。時には対応を誤り、とんでもない二次災害を招くこともある。だがやがて、このシステムがどんな入力をすれば何が反応として帰ってくるのかという法則が分かってくる。その経験は、月着陸船システムの全体像と、各構成要素の繋がりがどうなっているかを実感として身につけるのに役立つ。
シミュレーションを繰り返す度に、彼女達の反応は研ぎ澄まされたものになっていった。それはやがて、柔軟で迅速な応答という形で帰結する。
お喋りをしながら、二人は訓練室に備えられた月着陸船の実物大モックアップから出てきた。このモックアップは操作シミュレーション訓練の他に、宇宙服を着用しての船内移動等の訓練にも供されていた。
実際に使う月着陸船は、予備の月往還船と共にJAXAと宇宙開発企業体が共同で保有する宇宙ステーションにドッキングした状態で保管されている。
この月着陸船は元々、ロシアが開発を中断し放ったらかしていたものをヨーロッパ宇宙機構が購入し、自身の有人月面探査のため改良を重ねて完成させたものだった。度重なるリファクタリングの結果、中身はまるで別物になったとはいえ、全体の基本デザインはセルゲイ・コロリョフ時代に行きつくという由緒正しい宇宙開発史遺産でもあった。
ヨーロッパ宇宙機構が月面進出を断念した時、行き場を失ったこの月着陸船を今度はJAXAが買い取り、更なる改良を加え月面有人ミッションに使ってきたのだ。
慢性的な予算不足の中、散々酷使してきた割に、これまで大きなトラブルは一度も無かったという実績は、この着陸船の素性の良さを物語っていた。しかしさすがに、六年というブランクは機械のコンディションを維持するには長過ぎたようだった。宇宙ステーションでは、急ピッチでオーバーホール作業が行われているということだ。
グラスコクピット化された操縦席には二人分の座席。その脇には簡易的な仮眠用ベッドが備え付けられている。有人区画の下には貨物室があり、かつてJAXA主導の有人月面探索の際は、月面ローバーや観測機材を降ろしたり、採取したサンプルを持ち帰ったりしていた。
着替えを終えた七夏と梨乃は、インストラクターに付き従い、ミーティングルームでポストブリーフィングを始めた。今日の結果は、ほぼ満足の行く出来で言うこと無しだと、元宇宙飛行士のインストラクターも太鼓判を押してくれた。
幸いなことに、七夏と梨乃、この二人の息はぴったりだった。当初、二人のレベルが揃わないのではないか、あるいは素人同然のエンジニアを促成栽培して月面に届けるなど馬鹿げていると、プランそのものに懸念を抱く向きもあったが、最近ではそう言った外野の意見も影を潜めていた。天使二人を月面基地に送り込むという計画は、一歩一歩着実に実現へと近づいていた。
そして誰よりもしっかりとした手応えを掴んでいたのは、月面開発公社とJAXAから全権を委譲され、このプロジェクトを任されていたミッションマネージャだった。彼は舞い上がるような思いで隣の男に話しかけた。
ところが七夏にとっては、ミッションマネージャと共に現れた、この見慣れない男が気になって仕方が無かった。彼女はその長髪の男を、気取られないよう視線を微妙に外しながら観察する。
その男はやけに肌が黒く、冬というのに胸元がはだけた服を着ている。手首の輪っかに、耳にはピアス。いわゆるチャラい系。この場には、明らかに似つかわしくない存在のように思えた。
彼は七夏の注意に気が付いたのか、その男はこちらにチラリと視線を送り、ウインクなどを寄こしてきた。七夏はギョッとして男の顔をまじまじと見てしまったのに気が付いて、『しまった』とばかりに目を逸らせた。
改まった口調で話し始めたのはミッションマネージャだった。
「ええと、今回のミッションですが、<天使月面降臨プロジェクト>と銘打って大々的にメディア展開することになりまして――」
(はああっ?)
七夏は心の中で大声を上げる。血の気がさあっと引いたような気がした。その間もミッションマネージャの言葉は続いていた。要するに、あの記者会見に端を発した世間様の注目を最大限に利用し、世間様に幅広く認知してもらおうという腹らしかった。
「――とまあ、こんな感じで広告代理店にプロモーションをお願いすることになった訳です。今後の広報活動は彼に一任する形になります。ええっと、ご紹介します――」
紹介された男は芝居がかった仕草で立ち上がると、馴れ馴れしい口調で何だかんだと話し始めた。七夏の苦手な、どこか自信過剰で、砂糖をかけ過ぎたお菓子のような甘ったるい声だった。彼がペットボトルに口を付けたタイミングを見計らって、ミッションマネージャが言葉を割り込ませた。
「プロモーションの一環として、安家さんと間戸さんのプロデュースもお願いすることになりました。お二人は訓練に広報活動と大変だとは思いますが、ご協力お願いいたします」
「プロデュース?」
ハモりながら、七夏と梨乃は顔を見合わせた。
「プロデュース?」
もう一度、今度はそのプロデューサーとやらに梨乃は訊いた。彼女の声は少し震えていた。
「何しろ美しいエンジェルのお二人はもう、巷で話題沸騰って、みんな知ってるでしょ? ね? ね? でさ、このムーブメントを逃す理由なんて、ナッシング! でしょ? このプロジェクトのシンボルだもんね。いろんなメディアをフルに使っちゃうよ」
頭がくらくらしてきた。梨乃でさえ、どこか表情が引きつっているように見える。
「それで……具体的には何を?」
何時よりも半オクターブほど高い上ずった声で梨乃は訊いた。待ってましたとばかりに、プロデューサーさんとやらは答えた。
「歌ったり踊ったり」
「はあああっ?」
今度は声に出して叫んでいた。しかも七夏だけではなく梨乃も叫んでいたことに、七夏は気がついた。




